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(二)


「卑弥呼」即位について ―「宗教」が必要とされた時―(二)

「要旨」
 ここでは「後漢」から流民となった人々が多く流入したことにより国内にも伝染病が蔓延した可能性が高いこと。「卑弥呼」が「即位」し「宗教的救済」を人々にもたらしたと見られること。「卑弥呼」は時代的制約の中当時としては合理的な施策を実行し「感染拡大」に一定の効果を上げたと見られること。その施策が後代にまで伝えられた可能性があること。以上について考察します。

T.「倭」内の混乱
 前稿でみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」(疫癘)と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々(特に農民)は彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。
 「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。
 そのような中で「難民」(流民)となって「故郷」を捨てて流浪する人々が増加し、彼等のうち相当多くのものが半島へ移動したとみられ、更にその一部は倭国へ流入するという事態となったと思われます。(『新撰姓氏録』にも「後漢」の王族の末裔と称する人々や「後漢」の時代に倭国にやってきたという伝承を語るものなどが数多くみられることがそのことを物語っています。)
 このような人の動きは「列島」の中に少なからず波紋を広げたものであり、居住地をめぐる争いというレベルの問題から、彼等によって持ち込まれることとなった「疫病」つまり「伝染病」と思われるものも重大な影響を列島内にもたらすこととなったものと思われ、「後漢」と同様な天候不順や地震などという天変地異と重なって社会に混乱をもたらしたものと推測されます。
 「新大陸」にヨーロッパから「天然痘」が持ち込まれた際には多くの「インディオ」や「アメリカインディアン」など原住民が亡くなったことがあるなど、「伝染病」は特にその「病気」に対する「抗体」を持っていない地域では破滅的な結果になる場合があります。「卑弥呼」の当時の日本列島にも同様のことが起きた可能性があるでしょう。このため、かなりの感染者が出た可能性が高く、致死率も高かったでしょうから、各地で混乱が発生したものと考えられます。
 このような「エピデミック」(局地的大流行)は現代でもなかなか沈静化させることは難しく、当時の「王権」には至難の事業であったと思われます。このようなときに「後漢」に「太平道」や「五斗米道」が起きたように「倭国」でも新しい宗教に救済を求める雰囲気ができあがった結果、「鬼道」に事える人物である「卑弥呼」に対する依存と信頼が民衆の間で発生したものと思われるわけです。
 それまでの男王にはそれほど「宗教的」な能力は必要とされず、俗務(実務)の占めるウェイトの方が大きかったものと見られますが、社会不安を鎮めるための能力は「男王」や彼を含む「王権」の当事者達にはなかったものであり、そのため「王権」の権威は大きく低下したものと思われます。このため、混乱が発生したものであり、結果として宗教的部分に偏る統治が求められたということではないでしょうか。
 十八世紀に「新大陸」に「清教徒」が移民した際にも「天然痘」が繰り返し発生し多くの被害を出したとされますが、その時点でも「清教徒」の「聖職者」による「伝統的」というべき「宗教的救済」として「数日に及ぶ祈りと断食」がもっぱら行われたとされます。
 「卑弥呼」もこれら「清教徒」集団における「聖職者」とほぼ似たような「使命」を帯びることとなったものと思われ、「祭祀」により「神意」を読み取り、それを「民衆」に伝えるということにより「能く衆を惑わす」ということとなったものと見られます。
 その「卑弥呼」の「鬼道」という「宗教的行為」の具体的な中身は判然としませんが、実際にはこの時代としては相当程度「合理的」な思考法の下に各種の施策を(弟と共に)行ったものではないでしょうか。

U.「卑弥呼」と「旧習」
 「卑弥呼」は「疫病」の流行や気候不順などを旧来の「祭祀」に原因を求め、それを変革しようとしたものと思われるわけですが、他方ある程度時代の制約の中ではあるものの「近代化」された内容もあったものではないでしょうか。そこでは「境界祭祀」を改めて確立するなど「領域」の内部に「疫病」を持ち込ませないことを「宗教的」な方法により目指したものではなかったかと思われるものです。それをわずかに示唆するものが『書紀』の『孝徳紀』に見えています。そこには「薄葬令」が出されたものと同じ文脈で「旧習」を止めるようにと言う「詔」が続いています。そしてその中では「祓除(祓え)」がキーワードとなっています。
「…復有被役邊畔之民。事了還郷之日。忽然得疾臥死路頭。於是路頭之家。乃謂之曰。何故使人死余路。因留死者友伴。強使祓除。由是。兄雖臥死於路其弟不收者多。
復有百姓溺死於河逢者。乃謂之曰。何故於我使遇溺人。因留溺者友伴強使祓除。由是。兄雖溺死於河。其弟不救者衆。
復有被役之民。路頭炊飯。於是路頭之家。乃謂之曰。何故任情炊飯余路。強使祓除。
復有百姓就他借甑炊飯。其甑觸物而覆。於是。甑主乃使祓除。如是等類。愚俗所染。今悉除斷。勿使復爲。…」(孝徳紀)
 ここでは「辺境」から徴発され「キ」で「労働」に従事した後故郷へ帰る途中の人々に対する「旧習」が指弾されているわけですが、例に挙げられているものを見ると、「路頭」で亡くなったもの、「溺死」したもの、「路頭で炊飯」したもの、借りた「甑」(鍋のようなもの)などについて触れたものなどに対して「祓除」を強要しています。これらは「死」やそれにつながるもの及び「移動する人々」に対する警戒が根底にあると思われます。
 つまり、このような考え方は「旧習」であり、「愚俗」はこれに染まっているというわけですから、かなり以前からこのような風習が続いていたことを示唆しますが、それは「卑弥呼」の「鬼道」にたどり着くものではないでしょうか。
 つまり「疫病」(「天然痘」など)を視野に入れて「死者」や「移動する人々」に対する警戒を「祓除」という形で防衛しようとしていたものと思われるわけです。
 『倭人伝』中にも「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。」とする記事があり、この場合は「水」によって「穢れ」を洗い流す意義があるものですが、一般に「祓え」は「死」の持つ「穢れ」を「禊ぎ」により払い落とす意義を持つ行為であると思われ、特にそれが(原初的には)「伝染病」への対策としてのものであったという可能性も考えられるところです。
 それが実際的に効果があるかは微妙ですが、感染拡大が「病原菌」を保有した人の移動に伴うものという見識は持っていたものと思われ、それに対する警戒であるとすると理解できるでしょう。(そう考えると「卑弥呼」を「佐治」していたという「男弟」の仕事の中には「移動する人々」に対する「制限」や「禁止」あるいは「隔離」などの実務的施策があったという可能性があり、「姉」である「卑弥呼」の「託宣」と表裏一体のものとして「実務」が行われたと見ることもできそうです。)
 現代でも「隔離」と「移動禁止」は「伝染」終息への効果的手段として行われており、それに類する行為の一環として「祓え」があったという可能性が考えられるわけです。これらを実施すれば感染拡大に多少の歯止めがかかりますから、「終息」が早まったという可能性もあるでしょう。
 このような考え方はその後も続いたものであり、後の時代(平安時代など)にも自然国境である「川」「淵」「峠」などで「神」に「幣」(「木綿」など)を手向ける風習として残ったものと思われます。
 たとえば「延喜式」には「六処界川共御禊」という項目があり(「延喜式齋官式」)、「山城」「近江勢多川」「甲賀川」「伊勢鈴鹿川」「下樋小川」「多気川」では「幣」を手向けるなど境界祭祀を行うこととされており、「伊勢神宮」の「齋官」の往還の際にも同様のことが行われていました。これらはそこに「境界神」がおり、そこを通過する人々に対し「清浄さ」を要求する意思の表れであり、「旅」の安全を祈る意義と共に「他」の領域からの「汚穢」で自らの領域が汚されることのないよう身を浄める事があったものです。これらは結局「伝染病」に対する「宗教的アプローチ」であることが了解できるでしょう。
 以上前稿と併せ「卑弥呼」の即位は「伝染病」に対する「現世救済」を望む人々の意志によるものであり、彼女が「鬼道」によってもたらした「祓え」の実行とそれを補強する「男弟」の施策などにより「感染拡大」に歯止めがかかったと見られることなどを考察しました。

「参考資料」
徐文波・成田弘成「中国伝統医学からみた感染症へのアプローチ」『桜花学園大学人文学部研究紀要』第十三号二〇一一年。この中では「後漢末」に「疫病」が多発し、それが「気候変動」と関連していることが述べられている。
有富純也「疫病と古代国家 −国分寺の発展過程を中心に−」『歴史評論』第七二八号二〇一〇年二月。この中では「天然痘」の流行と「国分寺造営」が関連があるとされ、やはり伝染病に対して「宗教的」なアプローチが試みられたとされる。