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(一)


「卑弥呼」即位について ―「宗教」が必要とされた時―(一)

「要旨」
 ここでは「卑弥呼」が即位する経緯から見てその前代までは「祭祀」は重要視されていなかったと見られるのに対してその後急速に「祭祀」の重要性が高まったと見られること。そのような「祭祀」つまり「宗教」が求められるということは「社会不安」が発生したことを示すものであること。「倭国」の状況が当時の「後漢」の政治状況に酷似していると考えられ、関係があると思われること。「後漢」の混乱の根底には気候不順と伝染病があったと思われること。以上について考察します。

T.「卑弥呼」の即位の事情
 『魏志倭人伝』によれば「倭」における政治状況について「住七八十年」とあり、その後「歴年」という表現が続きます。
「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。…」(『魏志倭人伝』)
 「歴年」というのは『三国志』に用例を渉猟すると複数年に亘ることを示す表現ですが、具体的な年数を表現する際には「歴年」の後に「年数」を表記するのが通例のようであり、その場合は「数百」あるいは「二十二」というようなかなり大きい数字もあるようです。しかし「年数」を表記しない場合はせいぜい数年間を示している場合が多く、「卑弥呼」の即位以前の「歴年」も同様であったと見ることができるでしょう。
 また『後漢書』に「倭国王」として書かれた「帥升」がこの『倭人伝』にいう「男王」の一人であるかは微妙ですが、仮に彼以降国内政治が安定していたとすると、「帥升」の貢献が「紀元一〇五年」ですから、彼を含めてそれ以降の男王期間が七〜八十年であったこととなり、「一八五年」付近にその混乱期間の始まりが想定できると思われます。つまり「卑弥呼」の即位はそこから数年後の「一八〇年から一九〇年」付近と推定されることとなるでしょう。(註1)
 ところで、この『卑弥呼』の即位以前の混乱の時期として「一九〇年付近」が措定されることとなったわけですが、それはかなり重要なことと思われます。それは「時期」がこの争乱の「原因」に深く関係していると思われるからです。そして、その「混乱」の原因そのものは「卑弥呼」が立ったことで安定したという中に既に答えが現れていると思えます。
 つまり、「卑弥呼」は「鬼道」祭祀の主宰者であったわけですが、彼女の登場により政治が安定したということは、当時の社会においてそのような「祭祀」の持つ意義が相当高まっていたということを示し、社会が「霊的能力」の高い人物を欲したということになるわけであり、それは即座に「宗教」に頼らなければならなくなった民衆の置かれた状況があったことを意味するものといえます。「宗教」は現実の政治が果たせないあるいは果たせなくなった場合の「救済」が最も主たる使命であり、また効能です。つまり、この時点で強烈な「社会不安」が発生していたことが窺えるわけです。
 「古代」における「社会不安」としては(現代も変りませんが)「天候不順」や「天変地異」あるいは「伝染病」の蔓延などがその背景にあったという可能性があり、それに対して「政治」が対応できなくなっていたことがあったものと思われます。そのため「宗教」の出番となったと見られることとなります。それ以前には「社会不安」はなかったか、あっても小さなものであったものがこの年次付近で急速に拡大したものと考えられるわけです。つまり、この年次付近にいわば時代を画す一線があることが窺えます。
 この頃は農業もまだまだ原始的であり、水害や旱害などにより不作となることがしばしばあったのではないかと考えられますが、特にこの時期に「社会不安」が発生するには別に理由があると思われます。それに関係が深いと思われるのは「後漢」の政治状況です。
 上に見たように「卑弥呼」の即位の前夜とでも言うべき時期は「一九〇年付近」と考えられるわけですが、それは「後漢」で発生した「黄巾の乱」の年次と似たような時期(「一八四年」)であるというところに注目すべきでしょう。つまり、よく言われることですが、「後漢」王朝の衰微とそれに対応して争乱が発生したことと、この「倭国乱」との時期及び内容が近似しているということに注目すべきこととなるわけです。

U.「後漢」の混乱の内情
 一般には「後漢」が衰微していく過程は「梁冀」氏(註2)のような強力な人物が外戚となり「幼帝」を誕生させそれを陰で操る体制が生まれたことや、彼等を「宦官」と協力して排除したため今度はその「宦官」による専横を止められなくなったなどの理由により「皇帝」の持つ「権威」が大幅に低下したことが衰微の重要な要因とされます。しかし、実際にはそれらはさほど重要な要素ではないのではないでしょうか。なぜならそれらは「一般の人々」に直接関係したこととは思われないからです。
 この「後漢」のような強力な王権が倒れるには「民衆」の苦しみが極大に達する状況があったとしなければならず、それに対して王権の側から適切な対応ができなかったことがそこに原因として横たわっていると思われます。
 この時期「太平道」や「五斗米道」など道教系の新興宗教が発生し、多くの民衆の支持を集めそれが「黄巾の乱」など争乱に結びつくということとなったわけですが、その過程には天候不順による農業への被害が大きかったということが重要な要因としてあったものと考えられます。
 『後漢書』など当時の記録を見ると、「旱害」あるいは「大水」「地震」というような記事が多く見られ、いわゆる「天変地異」というような自然災害が多かったとみられますが、それは即座に食糧事情の悪化を意味するものであり、食糧事情の悪化は当時の衛生状態とも関連して「伝染病」の発生にもつながったものと思われます。
 同じく『後漢書』の中には「疫」「大疫」「疫癘」と称されるような「伝染病」とおぼしきものが蔓延していた事を示す記事が数多く見えます。以下「順帝」年間の『疫癘』と「考桓帝」と「考霊帝」の治世の中での『疫』『大疫』の例を挙げます。まず、「順帝」の治世期間に現れる『疫癘』の例です。
「永建元年(一二六年)春正月甲寅,詔曰:先帝聖コ,享祚未永,早弃鴻烈。姦慝?閨C人庶怨?,上干和氣,『疫癘』為災。朕奉承大業,未能寧濟。蓋至理之本,稽私コ惠,蕩滌宿惡,與人更始,其大赦天下。…」
(以降「桓帝」の『疫』『大疫』の例)
「元嘉元年春正月,京師『疾疫』,使光祿大夫將醫藥案行。…二月,九江、廬江『大疫。』」(『後漢書/本紀 凡十卷/卷七 孝桓帝 劉志 紀第七/元嘉元年(一五一年)』)
「四年春正月辛酉,南宮嘉コ殿火。戊子,丙署火。『大疫。』…」(『同上/延熹四年(一六一年)』)
「九年春正月…己酉,詔曰:『比?不登,民多飢窮,又有水旱『疾疫之困』。盜賊?發,南州尤甚。?異 日食,譴告累至。政亂在予,仍獲咎?。其令大司農?今?調度?求,及前年所調未畢者, 勿復收責。其?旱盜賊之郡,勿收租,餘郡悉半入』」(『同上/延熹九年(一六六年)』)
(以降同様に「霊帝」の治世期間の『疫』『大疫』の例)
「四年…三月辛酉朔,日有食之。太尉聞人襲免,太僕李咸為太尉。詔公卿至六百石各上封事。『大疫』,使中謁者巡行致醫藥。司徒許訓免,司空橋玄為司徒。」(『後漢書/本紀 卷八 孝靈帝 劉宏 紀第八/建寧四年(一七一年)』
「二年春正月,『大疫』,使使者巡行致醫藥。」(『同上/熹平二年(一七四年)』)
「二年春,『大疫』,使常侍、中謁者巡行致醫藥。」(『同上/光和二年(一七九年)』)
「五年春…二月,『大疫。』」(『同上/光和五年(一八二年)』)
「二年春正月,『大疫。』」(『同上/中平二年(一八五年)』)
 上に見るように頻繁に「大疫」と記され、何か強い感染力あるいは伝染力のある病気が蔓延していたことを窺わせるものです。
 そもそも「疫」とは多くの人がその病気に悩まされていたことを示し、さらに「癘」はその中でも「悪性の病気」を指す語ですから各種考えられるものの、その症状等が書かれていないため推測でしかありませんが、「黄巾の乱」が当初発生した「河南地区」は当時の首都である「洛陽」を含んでおり、「夏」「殷」王朝やそれ以前の石器時代においても文化中心であったとみられており、その当時から「豚」などを家畜として利用していたことが判明しています。この地域から最初に「黄巾の乱」が発生したわけであり、彼等は「水害」「旱害」の他「疫癘」に悩まされていたという可能性は高いものと推量します。つまりここでいう「疫癘」は「家畜」との共通伝染病であった可能性が強く、その意味では「豚インフルエンザ」などもその候補として考えられるでしょう。
 「黄巾の乱」の発生した「河南」地区は「大農業地帯」であり、天候に恵まれていれば農民が生活に困ることはそうなかったはずです。それが「新興宗教」に頼らざるを得なくなったわけですが、そのようになった理由の一つは強い社会不安の存在であり、その根底に「病気」(「疫癘」)に対する恐れがあるとともに、生活そのものが破壊されていることに対する不安があったものと思われます。
 「黄巾の乱」を起こした教団である「太平道」では罪を懺悔告白し、「符水」(お札と霊水)を飲み、神に許しを乞う呪文(願文)を唱えると「病が治る」とされ、支持を集めたとされ、いわゆる「現世利益」「現世救済」を目的としているようですが、「病を治す」というところが主眼であったものであり、それが「疫癘」に対してのものであったことが推定出来ると思われるわけです。
 次稿では「卑弥呼」の「即位」の状況の背景を考察します。

「註」
1.ただしこれでは「卑弥呼」の年齢として「魏使」が面会した時点付近では八十歳代になる可能性が強く、それがもし不合理であるとすると、もっと即位は遅れたという可能性が高くなりますが、それらの考察は別に譲ります。
2.彼は「後漢」随一の将軍であり、娘が「皇后」になるなど「外戚」として強力な権力を振るっていたとされます。