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男弟と難升米


(未採用論文。投稿日付二〇一五年八月七日。)

「男弟」と「難升米」

「要旨」
 「倭人伝」には「卑弥呼」には「男弟」がいることが書かれています。その「男弟」は「卑弥呼」を補佐していたとされ「佐治國」という表現がされています。この「佐治國」という表現から「男弟」が「国政」の全般を取り仕切っていたことは確実ですが、他方「難升米」が「卑弥呼」の大夫として先頭に立って行動していることや「張政」が来倭した時点で「詔書」「黄幢」を「難升米」に渡している事実があり、そのことから「難升米」と「男弟」が同一人物という可能性があることを考察したものです。

T.「佐治國」について
 『魏志倭人伝』によれば「邪馬壹国」はその統治範囲の中の諸国に「王」の存在を許さなかったようです。(ただし伊都国を例外とする)そして、その各々の国に「倭王権」から「官」を任命、配置していたものです。さらに、彼らによりそれらの国々で「戸籍」の整備や「租賦」の徴集、また軍隊の整備、市場の整備と管理監督など高度な中央集権制を行っていた節があります。
 このような統治の内容とそれが「三十国」という広範囲の国々に対して行われている事に対して「(親魏)倭王」という称号を「魏」が与える根拠ともなったものと思われます。
 しかし、「卑弥呼」には実務能力はなかったであろうと思われるわけです。彼女は「鬼道」に事える「巫女」であり「祭祀」の主宰者でしかなかったと思われます。彼女は普段は宮殿の奥深くに入ったままで前面には出てこなかったものでしょう。(男子が一人出入りして食事を給仕したり、伝言を伝えたりしていたとされます。)
 そうであれば「統治範囲」の中に「制度」などを制定したり、またそれらを充実させたりするような「統治」の実務といえるものは「卑弥呼」の手によらなかったと考えるべきでしょう。その場合それを実行していたのは(『倭人伝』によれば)「卑弥呼」の「男弟」であると思われます。
 「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、『有男弟佐治國。』自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。…」(三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳/東夷/倭)
 この記事では「佐治國」とされますがこれは「周」の「文帝」と「周公」の故事を踏まえたものであるのは言うまでもなく、「周公」がそうであったように、実質的に「男弟」が国政を運営していたことを示すものといえるでしょう。また『三国志』の中では「舜」についても「佐治」が使用されています。
「齊王即位,徙為領軍將軍,進爵昌陵亭侯,遷太尉。初,侍中高堂隆論郊祀事,以魏為舜後,推舜配天。濟以為舜本姓?,其苗曰田,非曹之先,著文以追詰隆。是時,曹爽專政,丁謐、ケ?等輕改法度。會有日蝕變,詔羣臣問其得失,濟上疏曰:「昔『大舜佐治』,戒在比周;周公輔政,慎于其朋;齊侯問災,晏嬰對以布惠;魯君問異,臧孫答以緩役。應天塞變,乃實人事。…」(三國志/魏書十四 程郭董劉蒋劉傳第十四/蒋濟)
 「舜」は「帝堯」の後年彼に代わって「摂政」となり、行政の実務をこなしていました。これを下敷きにした表現と考えればこの「男弟」も「卑弥呼」の「摂政」であったと考えることもできそうですが、その場合「邪馬壹国」の最高位の「官」(大夫)であったと考えることも可能であり、その意味ではたとえば「難升米」という存在が注目されます。なぜなら彼は「魏」の皇帝からの「詔書」(及び「黄幢」)を一度渡されているからです。

U.「詔書」「黄幢」が「難升米」に渡されていること
 『倭人伝』によれば来倭した「張政」から「難升米」に対して「詔書」「黄幢」が渡され、「檄」が告喩されています。
「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。其八年(二四七年)太守王斤到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。
其八年,太守王?到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯、烏越等詣郡?相攻??。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、?幢,『拜假難升米爲檄告?之』。卑彌呼以死,大作塚,徑百餘?,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三爲王,國中遂定。政等以檄告?壹與,壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣台,獻上男女生口三十人,貢白珠五千,孔青大句珠二枚,異文雜錦二十匹。」(三國志/魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳/東夷/倭)
 これを見ると理由は不明ですが、「其の八年記事」以前(「其の六年」)に「難升米」宛の「黄幢」が「帯方郡治」に付されています。この「黄幢」は「魏軍」を示す「旗」であり、これが「難升米」宛としてもたらされていることから、(いつの時点か不明ではあるものの)「難升米」が自ら「郡治」へ行き「狗奴国」との戦いについて説明し、「卑弥呼」が「親魏倭王」であることを再認識させ、「魏」が戦闘に何らかの形で加勢するよう要請したものではないでしょうか。
 この「難升米」の軍事要請がいつの段階で行われたものかは『倭人伝』からは不明ですが、明らかに「其の六年」とされる「正始六年」以前に行われたものであり、またそれ以前の年次として「倭」から派遣された「使者」が多数「率善中郎将」等の称号を得ていることと関係があると思われます。彼らは「狗奴国」との戦闘に際して「魏」の軍制に組み入れられる形で「倭軍」を構成したものと思われ、そのために「魏」の官職が必要であったと見られるわけです。
 「倭王」は「魏」の「皇帝」から「金印紫綬」を授与されるなど重要視されていましたから、「難升米」が伝えた「卑弥呼」の要請を「太守」単独では判断できないと考えたものと見られ、当時の「太守」である「弓遵」は「皇帝」に使者を派遣するかあるいは本人が出向き「皇帝」の決裁を受けたものと思われます。そして結果的に「卑弥呼」の訴えは聞き届けられ、「皇帝」は「太守」に対して「卑弥呼」へ「詔書」を下しさらに「黄幢」を授与するようにという指示を出したものと見られることとなるわけです。
 それがそのまま「郡治」へ留め置かれていたものですが、それは「帯方郡」周辺の「韓」の人々との間に紛争が起きてしまったためであり、それが解決するまで「倭」へのルートがなかった可能性が考えられます。この時「韓国」と「楽浪」「帯方」二軍の間で「通訳」の誤りから紛争が起き、結果的に「韓」を制圧することはできましたが、「帯方太守」であった「弓遵」は死亡することとなったものです。そのため「帯方太守弓遵」の存命中に「倭」へ「詔書等」を運ぶことはできなかったものであり、その後「卑弥呼」が「難升米」とは別の使者である「倭載斯、烏越等」を「帯方郡」に送り(この時「難升米」は軍務に忙殺されていたため、郡治へは来られなかったものと思われます)、「狗奴国」に攻撃を止めるように再度訴え、「郡治」に既にもたらされているはずの「詔書」「黄幢」等を「倭」に急ぎ運ぶよう強く要請したものと思われます。
 新しく「帯方太守」となった「王斤」としても「懸案」として残っていた「皇帝」からの命令を遂行する義務もあり、その「訴え」を受けて、「詔書」「黄幢」を「倭」にもたらすということとなったという時系列が推定できます。
 その「太守」の指示を承け「帯方郡」から派遣された「張政」他複数の人員で構成された「告諭使節団」が来倭し、「詔書」「黄幢」を「邪馬壹国」にもたらしたわけですが、これは上の記事では一旦「難升米」に渡されており、「檄」が「難升米」に対して告諭されている点に注目すべきです。
 「黄幢」は「軍旗」ですから「率善中郎将」の官職を下賜されていた「難升米」が受け取って不思議はないともいえますが、「詔書」は別であると思われます。これは本来「倭王」である「卑弥呼」に渡されるはずのものであり、平伏した「倭王」の前で直立した使者により読み上げられるという形式を踏んだ後「倭王」に渡されるべきものであったはずです。それは「壹與(壱与)」即位後には「檄」が改めて「壹與」に告諭されていることからも、このような行為が「倭王」に対してのものであることが本来であることを了解できます。
 それが実際には「難升米」に授与されていることからその時点で既に「卑弥呼」が死去していたことを示すと考えられるわけですが、そうであるなら「卑弥呼」の死後「詔書」「黄幢」を代わって受け取るべき人物は本来は「男弟」が最も適切ではなかったでしょうか。

V.「男弟」と「難升米」の関係
 「難升米」が「郡治」や「都」へ赴いているのはあくまでも「卑弥呼」の使者という立場であったものであり、「詔書」が下された場合もそれは本来「卑弥呼」に対してのものであったはずです。このような「詔書」は「使者」(この場合「張政」)が「皇帝」の代理として「夷蛮」の王に「直接」授けるべき性質のものであり、通常は決してその配下の「大夫」に授けられるものではありません。
 また「壹與(壱与)」即位後には「檄」が「壹與」に告諭されています。これもこのような行為が「倭王」に対してのものであることが本来であることを示すものです。
 これについては、「私見」ではその時点で「卑弥呼」が死去していて、後継の王がまだ決まっていなかったためとみるわけですが、その場合「倭王」に次ぐ地位と権能を有していた人物に(仮に)渡されたと見るべきであり、それが「難升米」であったというわけです。つまり「難升米」は「倭王」の代理が務められる地位にいたと見るべきこととなるわけです。
 確かにそれ以前の「遣使」においても最初に派遣されたのが「難升米」であり、その後も「狗奴国」との戦いの先頭に立っていたらしいことが推測され、「倭」の王権内でも筆頭格の人物であったことは間違いないと思われます。しかし「佐治國」しているという「男弟」が実質的統治者であり、「摂政」的立場で統治全般を統括していたと考えた場合、彼が最も「倭王」の代理者として適任と考えるべきですから、彼に「詔書」「黄幢」が渡されて然るべきものであったと推測されるわけであり、ここに一種の「矛盾」があることとなります。この「矛盾」は「難升米」と「卑弥呼」の「男弟」が「同一人物」であると考えることで解消すると思われます。
 この時点の実質的統治者であったはずの「男弟」はかなり強い権力の行使を行っていたことを推定させます。例えば「伊都国」に常に治していたとされる「一大率」の配置というものも彼の功績かもしれません。「伊都国」と「倭国」の王権は「統」が同じという表現がされており、「卑弥呼」や「男弟」の一族(宗族)が「伊都国王」として存在していたとも考えられ、その「伊都国」に「一大率」という軍事的に重要な存在を置いて、機能させているのは、そのようなつながりの元の行為であったと見られます。
 また「犯法」の存在他、簡単な「律令制」が施行されていたらしいことが推察されますが(範囲は限定的であったと思われるものの)、それらも含め「男弟」の業績とも考えられ、その先取性が際だっているように思われます。それを賞して「親魏倭王」という称号が「魏」から賜与されたものでしょう。
 また「公孫淵」が「魏」により滅ぼされた「景初二年六月」という時点で「卑弥呼」は「帯方郡治」へ「遣使」していますが、その際「難升米」は自ら「帯方郡」に出向き、さらに「皇帝」に面会するために「洛陽」へと足を伸ばしています。このように「機敏」ともいえる外交センスとともに、遠路をいとわぬ行動精神は「出色」といえるものであり、このような人物が「男弟」と重なると考えるのは当然であり、彼がリーダーとサポート役を兼ねていることで「邪馬壹国」率いる「諸国」はかなり安定的な状態となっていたものではないでしょうか。(次使とされる「都市牛利」は彼の護衛役であったものと思われることとなります)
 彼のこのような行動が皇帝から「親魏倭王」という認定を受けることとなったものであり、また莫大な下賜品を「倭」にもたらすこととなったものです。当然彼に対する賞賛は著しく高くなったものと思われますが、それを示すのが「卑弥呼」の死後の後継争いではなかったでしょうか。
 「卑弥呼」が亡くなった後「男王」が立てられたとされ、それには多くの人々が不服であったとされます。
(当該部分再掲)「…更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女臺與、年十三爲王、國中遂定。…」
 この問題にどれだけ「男弟」が関わっていたか不明ですが、「男王」擁立には否定的であったのではないでしょうか。それを証するように結局「卑弥呼」の「宗女」という「壱与」が「王」に即位しています。「卑弥呼」の「宗女」とすれば当然「弟」と思われる「難升米」にも近い関係にあるわけであり、彼が補佐する大義名分が最も通用しやすい「王」であったと思われるわけです。
 まだ幼いながらその「霊的能力」を見込まれると共に「難升米」という前王の「弟」との関係からも「壱与」が即位する条件はあったと見られ、彼の力量を生かす意味でも、彼がそのまま継続して「佐治國」することとなったと推定されるものです。
 ここで「卑弥呼」に続いて「女性」特に「幼女」である「壹與」が立てられたことを考えると、「卑弥呼」の死後「男王」が立った(立てられた)ものの不安定な時代に立ち至った理由が良く理解できるものです。
 この「男王」に「祭祀」の主宰者では納まらない意思(というより野望というべきか)と能力があった場合、「男弟」として「補佐」する必要もなくなるわけですが、「諸国」からは今までの「男弟」の政治の運営を望む声が多かったのではないでしょうか。
 「新倭王」に対する「不服」という中身は「新王」が「卑弥呼」と比べて「祭祀」における霊的能力が著しく足りないというような理由ではなかったと思われるのです。それよりは「実務」的な部分についての不満が主体であったと思われ、新しい「男王」が「祭祀」だけではなく「実務」についても自分が行おうとし、それまでの制度等の何かを変えようとしたために、それを不満とした勢力との間に紛争が発生したものという可能性もあると思われます。つまり「大夫」として実務を担当していた「男弟」と「男王」との間に衝突があったものであり、その結果それぞれを支持する勢力により戦いとなってしまったものでしょうか。
 そのような「男王」に対する反対勢力は「邪馬壹国」内部だけではなく、周辺諸国間においても多数存在していたものと思われ、彼等も巻き込んで「倭王」の地位をめぐって争いが起きたものと思われるわけですが、結局「男弟」による統治を今後も続けるのかそうでないのかというのが紛争の最も主たるポイントであったと思われるのです。「男王」が立ってしまうと「男弟」による統治が続かないこととなり、それを不満とした勢力(つまり「男弟」を支持する勢力)によって戦いが起きたものではないでしょうか。(もちろん「男弟」そのものがその戦いの中心にいた可能性もあるでしょう)
 ただこの時代「王」となるには「祭祀」における存在感が必要であったものであり、「男弟」はそれが自分に欠けているという自覚があったものではないでしょうか。ある意味近代的な思考の持ち主であったのかも知れません。「狗奴国」との戦闘においても「神頼み」ではなく「魏」という大国の「実力と威儀」を頼もうとしたらしいことにそのような合理性が表れているようにも思えます。そのため「倭王」になるという意志は彼にはなく、あくまでも「実務」を担当するという面においてなら可能であるということになり、「霊的能力」つまり「祭祀」の主宰者としての能力があり、なおかつ実務能力のないあるいは著しく欠けている人物を「倭王」とすることで「男弟」の摂政が継続されることとなったものと思われるのです。そのため「十三歳の少女」である「壹與」が選ばれたという経緯があったものと推量します。(「卑弥呼」の共立にも同様の意味があった可能性があり、そうであれば「男弟」の存在感はそれ以前から強かったという可能性もあるでしょう。)
 以上「男弟」と「難升米」が同一人物である可能性が高いことについて考察しました。

「参考資料」
『三國志』は「台湾中央研究院」の「漢籍検索サイト」を閲覧したものです。これは「紹興本」を底本としているとされます。