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(二)


「一大率」の本拠と「大津城」(二)

「要旨」
 ここでは前項に引き続き「一大率」の所在について考察し、『倭人伝』に書かれた「行程」は「魏使」が「一大率」によって「誘導」されたルートであり、「博多湾」には直接入港しないルートが選択されていたらしいこと、そのことから「対馬国」以降は「一大率」が全てサポートしたであろう事、「邸閣」や「軍事兵器」の出土分布も「博多湾岸」と「対馬」が軍事的重要用拠点であることを意味していると考えられる事。以上について考察します。

T.「一大率」の拠点と「伊都国」
 既に見たように「一大率」は「邪馬壹国」の北方に位置し、海上から侵入してくる外敵(この場合は「狗奴国」か)に対して強力な防衛線を構築していたと思われます。それが「水軍」とその拠点たる「城」(及び迎宴施設)とで構成されていたと考えるのは当然であり、現在の「鴻廬館跡」の場所が「一大率」の治するところであった可能性が高いものと考えられるわけです。
 ただし、従来この位置は「伊都国」の領域とは考えられておらず一見『倭人伝』の記述と食い違うようですが、それでは「博多湾」には「一大率」が睨みをきかすことの出来る場所がないこととなってしまいます。「博多湾」は重要な港湾であり、その場所に基地というべきものを持たないで「一大率」がその機能を発揮できたとは思われません。とすればこの「大津城」のあった地域は元々は「伊都国」の範囲の中にあったものと思われることとなるでしょう。その後「伊都国」をめぐる関係が変化した結果「伊都国」の領域が減少し、代わって「邪馬壹国」が「直接」「大津城」付近を領域の一部としたという推移があったという可能性が考えられます。
 「卑弥呼」の時代はこの場所はまだ河川による上流からの堆積物が少なく、平野部の形成が不十分であったと思われ、その「一大率」のいた場所は現在の「能古島」のように「砂州」で陸上とつながっていた程度ではなかったかと思われますが、「博多湾」に浮かぶように突き出たその位置は湾内への侵入者に対する監視場所として理想的であったと思われます。この博多湾はボーリング調査によって「海成層」(そこが海であったために形成された層)と「非海成層」(海であったことが推定されない層)との境界線が明らかとなっており、この「大津城」のあった場所の周囲は「海成層」であり、この場所が海中の「島」であった可能性が指摘されています。(註1)そのような場所に「一大率」が城を構えていたとして不思議ではなく、また水軍の本拠地もこの至近にあったと考えるべきでしょう。
 ところで、『倭人伝』の記述によれば「郡使」あるいは「皇帝」からの「勅使」は「對馬国」を経て「一大国(壱岐)」〜「末廬国」へと行くコースをとったようです。
「始度一海、千餘里至對馬國。…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。…又渡一海、千餘里至末盧國。…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」(三國志/魏志/東夷伝 倭人伝)
 これによれば「一大国」を経て「郡使の往来」に「常所駐」とされる「伊都国」へという行程には途中「末廬国」を経由するというコースとっていたようですが、これは「常用」されていたものと考えられ、いいかえればこのような往来には「博多湾」は使用されていなかったと推定されることとなるでしょう。
 つまり「郡使」などが「對馬国」へ来ると「一大国」を経由して「末廬国」へと意識的に「誘導」されたものと思われますが、それはその時点以降「移動」が「軍事関係者」によって行われたことを推定させ、彼らが乗り込んできて強制的に「一大国」〜「末廬国」へと進路をとらされた、あるいはその目的で船を先導したという可能性が考えられますが、この「軍事関係者」というのが「一大率」である(その関係者)というのはまちがいないと思われます。つまり「對馬国」には「一大率」から派遣された担当官がおり、彼によって「一大国」経由で「末廬国」へと誘導されたという可能性が高いと思われるわけです。
 『倭人伝』を見ると「狗邪韓国」までは「官」の有無を始め詳細情報が記されませんが、「對馬国」以降はそれが書かれるようになります。そのことから「倭王権」の統治範囲は「對馬国」までであったと見られ、この間に「境界線」が存在していたとみられます。
 つまり「對馬国」はいわば「国境」にあるわけですから、そこに国境警備隊よろしく軍事力が展開していたとみるのは当然です。それはまた「女王国以北」の「諸国」について「一大率」が「検察」しているとする表現とも整合します。当然「對馬国」に「一大率」の前線基地とでもいうべき「軍事基地」があったと見られ、そこに「斥候」「防人」の類の兵力があったと見るべきでしょう。
 このように「対馬国」から「一大率」の拠点としての「施設」までの案内は「一大率」配下の人員が行ったことを推定させるものであり、さらに云えば「卑弥呼」への面会から帰国までを全面的にサポートしたのも「一大率」配下の人員であったことを示唆するものです。それもかなり高位の人間が直接出向いたという可能性が考えられ、「魏」から「銀印」を下賜され「『率』善校尉」という軍事的な称号を授けられた「次使都市牛利」がその任に当たった可能性が強いでしょう。
 この「『率』善校尉という軍事的称号についても「一大『率』」と関連して考えるべきという論もあるぐらいですが(註1)、「魏」の制度の「校尉」とは「軍団の長官」に与えられる称号であり、与えられた「銀印青綬」も「軍団の長官」という官職に対するものとして整合しています。
 また後の「隋使」や「唐使」を迎える際にも最上位の官僚が出迎えてはいないことから、このときも「大夫」とされる「難升米」が出向いたものではなかったと思われ、その意味からも「次使」とされる「都市牛利」は「大夫」ではなかったらしいことが推察されますから、彼が「郊迎の礼」をとったという可能性が高いと思われます。
 このように「一大率」の拠点として「對馬國」と「博多湾岸」そして「唐津湾」が考えられるわけですが、それを示すのが「兵器」の出土分布であるように思われます。「銅製兵器」(矛、剣、戈)についてその主な出土範囲を見てみると(もちろん「福岡県」が突出して最多領域であるわけであり、即座に当時の「王権」の所在地を明確に示しているわけですが)、「對馬國」に当たる「対馬」と「博多湾岸」に相当する「筑前中域」に偏っていることが明かになっています(註2)。これについては「対馬」を「兵器祭祀」の場と考える論がありますが、「兵器」の存在はそこに「軍事勢力」があったことを意味すると理解するべきであり、そう考えれば「一大率」との関連を考えるほうが正しいものと思われます。つまり国境防衛の拠点である「対馬」と首都防衛の拠点としての「博多湾岸」に「軍事力」が展開していたことを示すと考えると出土状況と整合するのではないでしょうか。この「兵器遺物」の出土状況は、それが「一大率」の拠点の場所を意味する、あるいはその存在につながるものと考えられる事を示しているものです。
 また「唐津」にこのような「兵器遺物」が少数しか見られないのはそこが「軍事拠点」というより「外交拠点」であったからであると見れば上の推定と矛盾しないものと思われます。

「註」
1.三木太郎「一大率とソツヒコ」(『北海道駒澤大學研究紀要』一九七四年三月)
2.樋口隆康編『古代史発掘五 大陸文化と青銅器』講談社一九七四年

「参考資料」
佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園大学・中村学園大学短期大学部研究紀要』第二十六号一九九四年)、「主船司考(一)(二)」(『中村学園大学・中村学園大学短期大学部研究紀要』第三十八号二〇〇六年)