(未採用論文。投稿日付二〇一五年八月七日。)
「記紀神話」の成立時期と「服装」
「要旨」
ここでは『記紀』神話」に登場する「天宇受賣」や「天照」の服装などから考えて、「神話」の舞台の実年代としては明らかに「弥生時代」などではなく、「中国南朝」との関係が成立した「四世紀末」の「古墳時代」の始め以降のものと想定するのが最も自然と考えられること。「埴輪」に見られるような「男性」の「袴」は「馬」の伝来と同時であったとみられ、それもやはり「古墳時代」のはじめと考えられること。「埴輪」に見られる女性の服装からも「裙襦」が想定され、やはり「南朝」との関係の中で伝来したとみられること。『隋書俀国伝』に書かれた服装記事についても「南朝」との関係を考えるべきこと。「袴」はこの時代あったとは思われるものの「武人」の乗馬時に限って使用されていたと考えられること。「応神」あるいは「雄略」の時代に「呉」から「織」に関する「工人」と「技術」がもたらされたとあり、それ以降「裙襦」が一般化した思われ、それも「古墳時代」の初めを措定して矛盾のないこと。以上を考察します。
Ⅰ.「天宇受賣命」や「天照大神」の服装
『古事記』の「天の岩戸」神話では、「天宇受賣命」が「岩戸」に隠った「天照大神」を誘い出そうと「滑稽」な仕草で周囲を笑わせ、不審がった「天照大神」を見事岩戸から出させたというわけですが、その描写の中に彼女の服装が現れています。
「…天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影而 爲天之眞析而 手草結天香山之小竹葉而【訓小竹云佐佐】 於天之石屋戸伏氣【此二字以音】而 蹈登杼呂許志【此五字以音】 爲神懸而 『掛出胸乳 裳緒忍垂於番登也』 爾高天原動而 八百萬神共咲」(『古事記』上巻)
ここに示されている「天宇受賣」の服装は明らかに「貫頭衣」ではありません。「貫頭衣」では「掛出胸乳」というようなことは無理でしょう。これは明らかに「合わせ襟」の服装であり、また「裳緒」という表現からも上着とは別にスカート状のものをはいている姿が想定されます。
さらに『神代紀』には「素戔嗚尊」が来るというので「天照大神」が「男装」して迎え撃つシーンが書かれています。
「於是。素戔鳴尊請曰。吾今奉教將就根國。故欲暫向高天原與姉相見而後永退矣。勅許之。乃昇詣之於天也。…天照大神素知其神暴惡至聞來詣之状。乃勃然而驚曰。吾弟之來豈以善意乎。謂當有奪國之志歟。夫父母既任諸子、各有其境。如何棄置當就之國。而敢窺 此處乎。『乃結髮爲髻。縛裳爲袴。』便以八坂瓊之五百箇御統御統。此云美須磨屡。纒其髻鬘及腕。…」(『日本書紀』神代巻)
ここでは『乃結髮爲髻。縛裳爲袴。』とされ、「髪」を結い上げ、「裳」を縛って「袴」としたと書かれています。つまり女性の服装としては「髪」は結い上げず、「裳」というスカート状のものを装着していたことを示すものです。これら「天宇受賣」と「天照」に共通する服装は「裙襦」であると思われます。
Ⅱ.「埴輪」に見られる服装
さらにそれは「前方後円墳」に付随する「埴輪」の中に「女性」と思われるものがあり、その服装からもいえることです。
それらの多くが「スカート状」のものをはき、腰紐らしきものを結び、上は襟の表現が見られるなどやはり「裙襦」と思われる服装をしています。(註1)
「人物形象埴輪」が見られ始めるのは(近畿では)「五世紀以降」であり、その時期としてもやはり「南朝」との交渉が活発になった時期と重なります。
ただし、この「人物形象埴輪」の中で「男性」と思われるものの多くが「天照」の男装のように「裾」を縛るなどの「袴」状のものを装着しています。これは「騎馬」に適したスタイルであり、「馬」の伝来と関連しているといえます。その「馬」については一般には「四世紀末」に百済から持ち込まれたのが最初とされています。
『書紀』には以下の記事があります。
「(応神)十五年秋八月壬戌朔丁卯条」「百濟王遣阿直岐。貢良馬二匹。即養於輕坂上厩。因以以阿直岐令掌飼。故號其養馬之處曰厩坂也。…」(『応神紀』)
「馬」については、従来は少数ながら「弥生」時代から国内にもいたという考え方もありましたが、現在は遺跡から出た「骨」を「フッ素分析法」などの科学的方法などにより検証した結果、別の動物の骨らしいことが判明し、それ以外についても「後代」の混入と言う可能性が否定できないものばかりであり、「古墳時代」まで国内には存在していなかったというのが正しい考え方のようです。
その最古の遺跡(骨)は「宮崎」県の遺跡から出土しており、その後「肥後」からもかなりの数が出土するようになります。また「馬具」についても最古のものはやはり「九州」であり(福岡県甘木市の池の上墳墓6号墳など)、遅くても「五世紀初頭」のものであると言われています。(「神話」でも「素戔嗚尊」の悪行の中に「馬」に関するものが出てきており、これも「古墳時代」が舞台であることを認識させるものです。)
このことから「袴」を着用することも「百済」から伝来したことが窺えます。その「百済」では「衣服」については「高麗とほぼ同じ」とされ、その高麗では「袴」が男性の常用の服装であったことが『隋書高麗伝』に書かれています。
「其衣服與高麗略同」(『隋書/列傳第四十六/東夷/百濟』より)
「貴者冠用紫羅,飾以金銀。服大袖衫,『大口袴』,素皮帶,?革?。婦人裙襦加?。」(『隋書/列傳第四十六/東夷/高麗』より)
このように「袴」が「馬」と共に伝えられたと思われるわけであり、そのため「袴」を着用した「埴輪」が確認できるというわけですが、他方『隋書俀国伝』では「袴」について言及がなく、一見矛盾しているようです。
Ⅲ.『隋書俀国伝』に書かれた服装
『隋書俀国伝』には「倭国」の服装について書かれた部分があります。
「其服飾,『男子衣裙襦』,其袖微小,履如?形,漆其上,?之於脚。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅,結束相連而無縫。頭亦無冠,但垂髮於兩耳上。至隋,其王始制冠,以錦綵為之,以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後,『亦衣裙襦』,裳皆有?。』」(『隋書/列傳第四十六/東夷/倭(俀)國
』)
ここでは「倭国」の服装として古くは「貫頭衣」のようなものであったが、「今」は「男女」とも「裙襦」であるとされ、その「裳」には「縁取り」があるとされています。
この「裙襦」というものは漢民族の伝統的服装とされ、中国北半部が「胡族」に制圧された「南北朝」以降は「南朝側」の服装として著名であったものです。
ここでいう「裙」とは「裳裾」を指し、また「襦」は「短衣」を意味しますから、全体としては「天宇受賣」が着ていたような「合わせ襟」で腰から下よりは長くない上着をいうと思われ、「下」は「裳緒」で腰部を締める「縁取りのあるスカート状のもの」であると思われるわけです。
『魏志倭人伝』には「貫頭衣」が「倭人」の服装とされ、『隋書』でも「古い時代」は「故時衣橫幅、結束相連而無縫」というのですから、これは「卑弥呼」の時代を踏まえた表現と思われます。しかし、ここでいう「裙襦」は「漢服」であり、「南朝」の服装であったわけです。
「倭国」と「南朝」の関係は「倭の五王」が遣使をするようになった「五世紀」以降ですから、「服装」が変化したのもそれ以降であると見るのが正しいでしょう。そうであれば「神話」の形成も同様の時期とみるべきこととなります。このことから「天宇受賣」が舞い踊った「神話」の舞台は「倭の五王」以降『隋書俀国伝』までのどこかである可能性が高くなります。
ただしこの『隋書俀国伝』においては「裴世清」を迎える儀礼に「馬」が使用されており、当然「袴」も使用されていたとみられます。
「…倭王遣小德阿輩臺,從數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮哥多?,從二百餘騎郊勞。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/倭(俀)國 』)
このように「騎馬隊」が「裴世清」を迎えているようですから、かれらが「袴」を着用していなかったとは考えにくく「倭国」に「袴」がなかったということではないと思われますが、これはこのような「騎馬」専用であったという可能性が高いでしょう。「天照」も「男装」の際には弓矢を持つなど武装しており、その意味では「武人」に特有の服装ともいえるでしょう。
またそれは『隋書』に「倭国」には「内官」(十二等)があるという記事と関係していると思われます。ここに書かれた「内官」とは「隋」「唐」においては「在京」の官人を指すものであり、「軍事部門」については基本的には「外官」とされていました。「左右監門」「武衛」などだけが「内官」とされていたものです。
『隋書俀国伝』はその表記から見て「内官」の存在を視野に入れて書かれたとみられますから、彼らは基本的には(特に宮殿周辺などでは)「騎馬」することがなく、そのため「袴」を着用することもなかったということなったものであり、それが『隋書たい国伝』の中で「袴」に触れられなかった理由と思われます。(「郊迎の礼」などや「儀仗」を行うための「武衛」などが少数いたと思われるわけです。)
Ⅳ.「織女」記事について
上に見たように「天照」の服装に「中国南朝」の影が見えるわけですが、同じ「天照」に関する話の中に「齋服殿」「機」など「織物」に関する用語が出てくることも同様に「中国南朝」との関係を推測させるものです。
「一書曰。是後稚日女尊坐于齋服殿。而織神之御服也。素戔鳴尊見之。則逆剥斑駒投入之殿内。稚日女尊乃驚而堕機。以所持梭傷體而神退矣…」(『神代巻』)
このように「機織物」につながる記事があるわけですが、これも従来「倭絹」つまり日本製の絹織物に関する記述と思われ、「弥生時代」を想定するのが常であったようですが、「馬」(駒)と同じ文脈で出ていることからも実際には「古墳時代」のことであったと推定できるでしょう。それを示すように『応神紀』と『雄略紀』の双方に「織女」記事がみられます。それらは「同一」記事の重出と思われますが、「呉」から「織女」と「織物技術」「縫製技術」がもたらされたとあります。
「(応神)卅七年春二月戊午朔。遣阿知使主。都加使主於呉。令求縫工女。爰阿知使主等。渡高麗國欲逹于呉。則至高麗。更不知道路。乞知道者於高麗。高麗王乃副久禮波。久禮志二人爲導者。由是得通呉。呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」(『応神紀』)
「(雄略)十四年春正月丙寅朔戊寅。身狹村主青等共呉國使。將呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。泊於住吉津。…
三月。命臣連迎呉使。即安置呉人於桧隈野。因名呉原。以衣縫兄媛奉大三輪神。以弟媛爲漢衣縫部也。漢織。呉織。衣縫。是飛鳥衣縫部。伊勢衣縫之先也。」(『雄略紀』)
これによれば、「呉」(これは「中国南朝」を意味すると思われる)に遣使したところ、「呉王於是與工女兄媛。弟媛。呉織。穴織。四婦女。」(『応神紀』)、「呉所獻手末才伎漢織。呉織及衣縫兄媛。弟媛等。」(『雄略紀』)とされ、「工女」や「中国風」の「織物技術」を伝授されたというわけです。これはいわゆる「重出」と思われ、実際には『応神紀』つまり「四世紀後半から五世紀前半」の出来事であったものと推定されます。
これらは「倭の五王」の一人である「讃」の時代の事と思われ、彼により「織物」や「縫製」の技術が取り入れられたと見ることができるでしょう。そしてその時代以降「南朝」的服装である「裙襦」が「倭国」、特に「王権」やそれに近い層に広がったと見られることとなります。
「註」
1.布施友理「女子埴輪を考える」(『物質文化研究』『物質文化研究』編集委員会 編二〇〇七年三月所収)
2.倉野憲司校注『古事記』(岩波書店)などによる。
「参考資料」
倉野憲司校注『古事記』(岩波書店)
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀」(『日本古典文学大系』岩波書店)
『隋書』は「台湾中央研究院 歴史言語研究所」の「漢籍電子文献資料庫」を利用しました。
武田佐知子『古代国家の形成と衣服制 ―袴と貫頭衣―』(吉川弘文館一九八六年)