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(一)


「一大率」の本拠と「大津城」(一)

「要旨」
 ここでは「一大率」が北方防衛の拠点とされていることから、その防衛の主たるものが「博多湾」の防衛であること。後の「大津城」や「博多警固所」にみられるように「博多湾岸」が重要港湾であり、重要な軍事拠点であること、「卑弥呼」の時代にあっても「博多湾」は重要であり「一大率」が拠点を構えて然るべきであること。以上について考察します。

T.「一大率」と「以北」という表現について
 『倭人伝』の記載から考えて「邪馬壹国」までのクニ数と「遠絶」であるとされるクニ数とがかなりアンバランスであることが分かります。
 「邪馬壹国」までのクニ数として『倭人伝』には「七国」しか書かれておらず、(ただし、投馬国を含む)それに対し「より遠方にある」と推定される「其餘旁國」は「二十一国」あるわけですから、「邪馬壹国」の位置として「列島」の中ではかなり「西」に偏っていることが推定されます。このことからも「邪馬壹国」の位置として「九州北部周辺」を措定して整合的であると思料できます。
 そう考えると、「伊都国」に派遣、常駐していると書かれている「一大率」が『倭人伝』中ではその「検察対象」が「以北」地域であるように書かれていることが注目されます。(以下の文)
「自女王國以北 特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」
 上でみたように「女王国より以北」には余り多くの国がないことが推定され、「狗邪韓國」以降「伊都国」まで、およびその周辺各国程度しか想定されていないこととなりそうですが、それはいかにも不審です。なぜなら「邪馬壹国」率いる諸国にとって最大の敵は「狗奴国」率いる諸国であり、彼らに対する抑止力として「一大率」が存在していると考えるのが相当だからです。そう考えると「一大率」が「以北」に対する防衛拠点として機能していることを考えると、「外敵」とは海から侵入してくる勢力であり、そのような「外敵」に対応するというのが、この「一大率」の目的の最大のものであったと考えざるを得ません。
 そもそもこの「一大率」の「大率」は「将軍」あるいは「指導者」のような形容として使用されているケースが多く、「個人」を対象とした呼称であると思われます。それは「卑弥呼」が派遣した「難升米」達に「魏」が「銀印青綬」を与えた際に彼らに「率善中郎将」等の称号(官職)を与えたという中にも現れており、そこにも「率」という文字が使用されていることとの関連が注目されます。このことは「率」にはやはり「軍」を「率いる」という意があることを示し、この「一大率」も同様に「軍」を「率いていた」ことが推測され、文字通り「将軍」というような役割があったことを示します。さらにもし「一大率」という存在に実効的軍事力が伴っていないとすると「防衛」という成果を上げ得るとは思えませんから、当然「一大率」のいるところには彼の配下として「軍事力」があったと考えざるを得ないこととなります。つまり「伊都国」にはかなりの軍事力が集結していたと考えられることとなるでしょう。
 つまり「狗奴国」側は「日本海」ないしは「瀬戸内海」を「船」で「西下」し、博多湾から直接攻撃していた(しようとしていた)という可能性があるでしょう。(あるいはその実績があったのかもしれません。)
 当時はもちろん「官道」は整備されていなかったと見られますから「陸上」から侵攻するとしても大軍を送ることはできなかったものと見られ、それよりは「船」を使用した「水軍」が主戦部隊であったと思われます。これに対応するべく「一大率」が控えていたと見るべきでしょう。
 「邪馬壹国」に最も近接した「湾」は「博多湾」であると思われますから、その場合「狗奴国」側が上力しようとした場合最も狙うべき場所も当然「博多湾」であることとなります。そうであれば「一大率」は当然「海岸線」(それも「博多湾岸」)に水軍と共に監視と上陸阻止のために「城」を構えていたものと考える必要が出てきます。「一大率」は「伊都国」にその拠点があったというわけですから、当然「伊都国」はこの「博多湾岸」にその領域の一部があったと見るべきと思われることとなるでしょう。

U.「大津城」と「一大率」
 『続日本紀』に「大津城」という名称が出てきます。
「罷筑紫營大津城監。」(『続日本紀』宝亀三年(七七二)十一月辛丑条)
 この「大津城」という城は実際には存在していないとされているようです。つまり「朝鮮式山城」としては「基肄城」「大野城」という存在が「大宰府」の防衛のために築かれているわけですが、「大津」となると「博多」の海側の地名であり、「大宰府」近辺ではなく那珂川の河口付近のことを示すと思われます。そこに「城」があったというわけですが、「朝鮮式山城」だけが「城」であるという考え方をしていると、「城」はこの場所にはないこととなるのは当然です。しかし、「朝鮮式山城」はある程度後代のものであり、それ以前から存在していたとすると「山城」であるかどうかには拘る必要がないこととなるでしょう。
 そう考えると、最も可能性があるのは後に福岡城が置かれた「平和台」付近であり、「鴻廬館」があったとされる場所ではないでしょうか。ここに「城」つまり軍事的拠点があったと考えるのはここが対外勢力にとって大宰府への入口であり、関門であったはずだからです。
 『書紀』『続日本紀』では「筑紫大津」「娜大津」「博多大津」は全く同義で使用されています。この事から「大津城」という「城」も上記「大津」の地に作られていたと考えるべきでしょう。
 その「筑紫国」には「城」が存在していたことは「壬申の乱」の際に「栗隈王」に対し戦闘に参加するよう「近江朝」からの使者としてきた「佐伯連」に対して「栗隈王」が「…筑紫国者元戌邊賊之難也,其峻城深湟,臨海守者,豈爲内賊耶,…」と発言した中にも現れたています。この中では「城」があり、それが海に臨んで立地しており、「城」そのものも険しく(急峻な城壁を意味するか)、また堀も深いとされます。このような「城」が実際に存在していたと考えて無理はないでしょう。「栗隈王」が言うとおり、それは「外敵」からの防衛のためには当然必要であったと思われるからです。
 また「鴻廬館」に関しても「善隣国宝記」の中では「大津館」と記されている箇所があります。
「…天武天皇ノ元年、郭務宋等来、安置大津ノ舘、客上書ノ函題曰、大唐皇帝敬問倭王書、…」(「善隣国宝記」上巻 鳥羽ノ院ノ元永元年条)
 これは「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという指示に対し「菅原在良」が答えた中にあるもので、彼の認識として当時「鴻廬館」が「大津館」と称されていたということであり、それは「鳥羽天皇」時代の宮廷官人の通常の認識であったことを示すものと思われます。
 これについては同じく「善隣国宝記」の中に引用されている「海外国記」の中には「別館」という表現がされています。
「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宋等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到對馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於『別館』。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。…」(「善隣国宝記」上巻 (天智天皇)同三年条)
 「海外」からの客あるいは「訪問者」は「鴻臚館」で接遇するべきとされていたわけですから、この「別館」が「鴻臚館」そのものか「鴻臚館」の中に複数の建物があり、その一つを指すのかは不明ですが、「鴻臚館」が「大津館」とも呼称されていたことが強く推定され、そのことから「大津城」が「鴻廬館」の至近に存在したことを示すと考えるのは相当であることとなります。その時点で「外敵」からの「警固」の拠点として機能していたと思われます。
 佐藤氏も指摘するように平安時代になり「新羅」による(これは海賊か)博多湾侵入事件があって後「大宰府」警護の兵士達は(「選士」と名称が変えられた後)交替で「鴻臚館」の警護にも当たっていたものであり、それはここに「兵士」が詰めるべき「城」があったことの反映であると思われます。
 この場所には後に「博多警固所」が造られます。これは「元寇」など海からの外敵に対する拠点であり、元来北部九州というより「倭国」(日本国)の防衛のためのものであり、ここがその(文字通り)水際防衛の拠点であったことが知られます。
 このように「大津城」は実在したものであり、それは「太宰府」の北方の海岸線に位置し「海」から侵入してくる外敵に対して防衛線を築いていたものですが、このようなものが「七世紀」以降に初めて築かれたと考えるのは明らかに不当というものでしょう。なぜなら「筑紫」の地が要害の地であるのは「宣化」の「詔」(以下)などでも明らかなように、歴代倭国王権にとって事実であったからです。
「詔曰。食者天下之本也。黄金萬貫不可療飢。白玉千箱何能救冷。夫筑紫國者遐迩之所朝届。去來之所關門。是以海表之國候海水以來賓。望天雲而奉貢。自胎中之帝?于朕身。収藏穀稼。蓄積儲粮遥設凶年。厚饗良客。安國之方。更無過此。…修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉。散在縣隔。運輸遥阻。儻如須要。難以備卒。亦宜課諸郡分移。聚建那津之口。以備非常。永爲民命。早下郡縣令知朕心。」((宣化)元年夏五月辛丑朔条)
 ここでは「筑紫」は内外からの人々が「貢納品」などを持参してやってくる際の「関門」となるべき場所であるとされており、さらに「那」の「津」の「口」の「官家」を「修造」するようにいます。そのことは「大津城」(あるいはそれに相当する防衛拠点)が相当以前からこの地に存在していたという可能性につながるものであり、(規模はともかく)これは「卑弥呼」の時代の「伊都国」に常駐していたという「一大率」に重なるものと考えられるでしょう。

「註」
1.下山正一「北部九州における縄文海進以降の海岸線と地盤変動傾向」(『第四紀研究』第三十三号一九九四年)

「参考資料」
佐藤鉄太郎「実在した幻の城 ―大津城考―」(『中村学園大学・中村学園大学短期大学部研究紀要』第二十六号一九九四年)、「主船司考(一)(二)」(『中村学園大学・中村学園大学短期大学部研究紀要』第三十八号二〇〇六年)