「皇祖大兄」とは誰か (二)
−「押坂(忍坂)部」と「刑部」と「解部」−
前稿では「皇祖大兄」が「皇祖」の意義にふさわしく、「絶対的統一権力者」の「発現」を示すものと考えられ、その「皇祖大兄」としての「押坂彦人大兄」の「御名部」というものが「押坂(忍坂)部」であり、これは「刑部」を意味するものであり、彼は「阿毎多利思北孤」に重なる人物であって、「刑事・警察権力」を手中にしたために「絶対的な権力者」として君臨することとなったことを考察しました。
ここではその「押坂(忍坂)部」と「解部」の関係について考察し、「持統紀」に「御名部の献上(返上)」が行なわれた結果、「押坂(忍坂)部」が「解部」へと戻されたことなどを述べます。
「筑後国風土記」には「筑紫君磐井」の墳墓の説明として書かれた中に「解部」という「官職」についての記述があります。この「解部」はその説明の中でも「盗み」を働いた人物を取り調べる立場として描かれているようであり、それはまさに「押坂(忍坂)部」の職掌そのものであると思われます。
(以下「風土記」の読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系 風土記」岩波書店』によります)
「筑後國風土記」磐井君(『釋日本紀』卷十三)
「…縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳(はか)あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は南と北と各(おのおの)六十丈、東と西と四十丈なり。石人と石盾と各六十枚交陣(つら)なり行を成して四面に周匝(めぐ)れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號(なづ)けて衙頭と曰ふ。其の中に一の石人あり、縦容(おもぶる)に地に立てり。號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。生けりしとき、豬を偸みき。仍りて罪を決められむとす。側(かたはら)に石猪四頭あり。贓物(ぞうもつ)と號づく。贓物とは盗みし物なり。…」
ここでみられる「解部」が「押坂彦人大兄」の時代に、彼の業績を讃える意味で「押坂(忍坂)部」となったものではないかと推定します。
後の『養老令』でも「解部」は「刑部省」と「治部省」に分かれて別々に存在、配置されており、それはこの「解部」が本来「律令制」の枠組みから外れた存在であり、かなり以前から広範な刑事警察権を保有していた過去を反映していると考えられますが、そのような「解部」の地位の確立に甚大な成果を上げたのが「押坂彦人大兄」であったのではないかと思われ、「解部」の立場を強化するような「律令」の拡大施行があったと推定できるでしょう。
「隋書?国伝」の記事によると、そこにはしっかりした刑法が存在していた事が判ります。記事を見ると後の「笞杖徒流死」の原型とも言うべき「杖流奴(奴隷になる)死」が定められていたことが窺えます。
「隋書?国伝」
「其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。 」
この内容は「六〇〇年」に派遣された「倭国」からの遣隋使の語った内容をまとめたものと推量され、「六世紀末」の「倭国」における「法秩序」について述べられたものと判断して間違いないものと考えられます。
このような「刑法」を中心とした「律令」が新たに施行されたものと考えられ、それに功績があったのが「押坂彦人大兄」であったとものと思料します。
また、「刑事・警察」などの「治安維持」に関する職掌はどのような地域や場所にも必要であったでしょうから、彼の「御名部」としての「押坂(忍坂)部」は「倭国内」に広く存在・分布していたこととなるでしょう。つまり、実数としてもかなりの数に上ったものと見られます。それは「和名抄」に確認できる「刑部」(おさかべ)「忍壁(おしかべ)」「忍坂(おさか)」というこの「押坂(忍坂)部」」にちなんだと考えられる「郷名」が「吉備」などを中心として各所に計十八個所ほど確認できる事からもいえると思われます。その「範囲」としても「東」は「下野」「上総」など「東国」を含むものであり、、このような大量の同一ないしは同類地名は他に見られず、「押坂(忍坂)部」という「職掌」が「倭国内」に「広範」に存在していたことを裏付けるものです。
またそのことは、「皇太子使使奏請条」で「其群臣連及伴造國造所有昔在天皇曰所置子代入部」「皇子等私有御名入部」というようなかなりの数に上るであろう「小代入部」および「皇子等」が私有する「御名部」に並べて書かれていることからも推定できるものであり、相当な分量の「御名部」が「皇祖大兄」に関するものとして存在していたと考えられ、「皇祖大兄」の「御名部」である「押坂(忍坂)部」は「五百廿四口」という中のかなりの数を占めているのではないかと推察されます。
ところで、『書紀』に書かれた「山背大兄」の失脚の場面では「蘇我入鹿」が「高向国忍」に対して「山背大兄」を至急捜査して、捕らえるように、という指示を出しています。
「皇極二年(六四三年)十一月丙子朔条」「…人有りて遥に上宮王等を山中に見る。還りて蘇我臣入鹿?(い)ふ。入鹿、聞きて大きに懼(お)づ。速(すみやか)に軍旅を發(おこ)して、王の在します所を高向臣國押に述(かた)りて曰く、速に山に向きて彼の王を求(かす)べ捉むべし。國押報(こた)へて曰はく。僕(やつかれ)は天皇の宮を守りて、敢(あ)へて外に出でじ。入鹿即ち自ら徃(ゆ)かむとす。…」
ここで指示されたという「高向国忍」は「続日本紀」等によれば「難波朝の刑部尚書」つまり「刑部省」の長官とされ、「刑事・警察権力」の実行部隊の頂点にいた人物でした。つまり彼は「押坂(忍坂)部」を率いていたわけです。
しかも「常陸国風土記」に「我姫」を統治するために派遣された「惣領」として「高向臣」が出てくることも彼等に関係していると言えるのではないでしょうか。
(以下「常陸国風土記」の当該部分を示します)
「常陸の國司解(げ)す、古老の相ひ傳ふる舊聞を申す事。
…其の後(のち)、難波長柄豐前大宮臨軒天皇のみ世に至り、高向臣中臣幡織田連等を遣わして、坂より東の國を惣領(すべおさ)めしめき。時に我姫(あづま)の道、を分れて八の國と為り、常陸の國、其の一つに居れり。」
この「高向臣」と前述の「高向国忍」とが「無関係」であったとも考えにくく、元々彼等「高向氏」は「解部」を下位の伴造とする氏族であったのではないかと考えられ、「惣領」たる「高向臣」もその「惣領」という名にふさわしく「総帥権」を持っていたと考えるべきであり、「刑事・警察権力」をも保有していたと推察できるでしょう。
そのような「惣領」という職掌を、「我姫」を始め各地に配置するというようなことも「押坂彦人大兄」の強い権力による業績の一端に存在するものと推量します。
「蘇我」は天皇の権威を上回る行動を取ったとされていますが、それは「刑事・警察」という国内統治の「ツール」を手に入れていたからであり、そのことは「国政」を統治するためには必ず「刑事・警察権力」を手中に収めなければならないことを示します。「押坂彦人大兄」もやはり「刑事・警察」を抑えた上でそれを自在に操るために「法」を整備したものであり、結果として大量の「解部」を自家の勢力に置くことに成功し、それを「御名部」として持つなどの絶対的権力を発揮したものではなかったかと思われます。
つまり、上の「「皇太子使使奏請の条」の中で「皇祖大兄御名部」を献上するとしているのは、「刑事・警察権力」という国家統治に必要な官僚体制そのものを「献上」するということを示すと考えるべきであり、単に「財産」「資産」の「没収」と言うだけではなく、「治安維持」に関する「権力」(広い意味で「行政権」といえるでしょう)の移動そのものを表しているといえるでしょう。
またこの「皇太子使使奏請の条」が出された時期というのは、「以下の理由」から「七世紀終わり頃」のことであったと推定します。
この「詔」の中では「皇子」に対して「私有する御名部」についてどうするか「皇太子」に問いかけています。それを問われた皇太子は「書」を使者に持たせ、文書で回答していますが、結局「天皇」に献上するとしています。
「皇子」がその「名」を取り込んだ「御名部」を私有するのに、「父」である「天皇」(ここでは倭国王)があずかり知らないと言うことは考えられず、「御名部」を保有する経緯に「現爲明神御八嶋國天皇」(現倭国王」)が関与していないことは明白です。このことから「現倭国王」は「前王権」とは基本的に「断絶」している事が推定できます。
また、この文章中には「昔在天皇」に始まる文章があります。
「昔在(むかし)の天皇等の世(みよ)には、天下を混(まろか)し齊(ひとし)めて治めたまふ。今に及逮(およ)びては分れ離れて業(わざ)を失なふ。國の業を謂ふ。天皇我が皇、萬民を牧ふべき運(みよ)に屬りて、天も人も合應へて、厥(そ)の政(まつりごと)惟(これ)新なり。…」
つまり「昔在天皇等世」には「天下」がまとまって一つであったものが今では各国がばらばらになったという訳です。「天下」つまり「倭国」がまとまっていた状態というのは、「強い権力」を持つ者が「倭国」の全体を「統一」していた時代を指すものと思われますから、「阿毎多利思北孤」に始まり「七世紀半ばの難波朝期」ぐらいまでを指すと考えられます。この頃は「中央集権的権力」が非常に強い時期であったと考えられます。
これに対し「分離失業」した状態というのはそれ以降を指すと考えられ、「唐」「新羅」との戦いに敗北した後の「天智」による政権以降の状態を指すと思われます。この時期はそれ以前の強力な「統一権力」の勢威が薄らぎ、各諸国が半ば独立して活動していた時期と考えられます。(「六八四年」に発生した「古代の関西大震災」とでも言うべきものも深く関係していると考えるべきでしょう)
それをここで「天人合應。厥政惟新」という訳ですが、「天」は「天神」を表徴するものと思われ、その「天神」は「東国国司詔」でも「倭国王」の「権威」の根源として表されていますから、ここでは「九州倭国王権」を意味すると考えられ、その「本拠地」からの「てこ入れ」により、「政」つまり政権運営の全てを全く新しくするという趣旨と考えられ、ここで「再統一」という試みが行われたものと思料します。
これらの時系列から考えて、この「詔」が出されたのは「持統紀」が該当するものと考えられ、「藤原京」への遷都時点の発言(詔)と考えるのがその「時期」としてもっとも可能性の高いものと推定されます。
つまり、この段階まで「押坂(忍坂)部」が継続していたものであり、この「詔」によって「解部」に戻されたものと思料します。それを示すと思われるのが「持統紀」の「解部増員」記事です。
「(持統)四年(六九〇年)春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」
このような大量の「解部」増員記事は一見不審です。それはこの「解部」が『大宝令』にも規定されているものの、その地位はかなり低く当時すでに重視されるような職掌ではなかったことが知られているからです。(注一)
また『大宝令』は「飛鳥浄御原令」を准正としたと書かれており(注二)、大宝令の「解部」の状況は必ず「飛鳥浄御原令」の実情でもあったはずですが、そう考えると「解部一〇〇人」という大量増員は考えにくいこととなると考えられています。それは『大宝律令』も、それが「准正」としたという「飛鳥浄御原令」も、かなりの部分が「唐制」(『永徽律令』(六五〇年施行))に則っているとされており、特に「律」の部分は「令」よりもはるかに「唐制」に近いとされ、倭国独自のものというのはそう多くはないということが言われているからです。
この「解部」というのはその「唐制」にはない「職掌」ですから、このような大量増員が「持統朝」の出来事とするのは、「矛盾」であると思われるわけです。
しかし、この矛盾は、「押坂(忍坂)部」から「解部」への復帰という内容に置き換えて考えたとき始めて納得しうるものではないでしょうか。つまり、これは決して「解部」増員記事ではなく、それまでの「押坂(忍坂)部」を「解部」へと名称変更して再配置したものと考えることができると思われます。
つまり「皇太子使使奏請の条」で「献上する」とされた「入部五百廿四口」のうち「百口」(百人)は「押坂(忍坂)部」であったのではないかと考えられ、それを「献上」し、「解部」に戻すということとなったものと思料します。
つまり「持統紀」の「ある時点」(有力なものは「庚寅年」つまり「六九〇年」)でこの「詔」は出されたものと思われ、「六世紀末」という時点以降「押坂(忍坂)部」として存在していた「刑事・警察機構」の担当官僚を「解部」として再編成することとしたものであり、その「刑事・警察機構」の全体を「新倭国王」が「御名部」という一種の「私有民」状態から解放し、「国家」という「公権力」の管理下へ移動したことを意味するものと思料します。
「結語」
「押坂(忍坂)部」はその職掌の内容から考えて以前「解部」であったと考えられること。「皇祖大兄」の「御名部」等を「天皇」(倭国王)へ献上する(「国家」の管理下へ権力を移動する)と言う事態になって、「解部」へ戻されることとなったこと。それは(「皇太子使使奏請」の出された時期が)「持統紀」であると推定されること。
以上を考察しました。
前稿と併せ、「皇祖大兄」についてそれが「押坂彦人大兄」であり、彼が「隋書?国伝」に書かれた「阿毎多利思北孤」に重なる人物であり、「天子」自称にふさわしく「律令制定」、「国郡県制」施行などの改革を行った強い権力者であること。彼は「押坂(忍坂)部」(=刑部)に象徴される「刑事・警察機構」を押さえていたために「改革」が可能となったことなどが推定できることを述べたものです。
「注」
一.増田修「『倭国の律令』筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」市民の古代第十四集一九九二年市民の古代研究会編によれば「…しかし、養老官位令によると、刑部大解部は従七位下、刑部中解部および治部大解部は正八位下、刑部少解部および治部少解部は従八位下であって、その相当官位は刑部省・治部省の他の官人と比して格段に低い。解部は、裁判手続における中枢的位置を、もはや占めていなかったのである。…」とされ、「解部」という職掌が当時としてすでに「前近代的」と見なされていたことが示されています。
二.正確には「飛鳥浄御原律令」という用語は使用されていません。(以下「続日本紀」当該部分)
「文武元年(六九七年)閏十二月庚申条」「禁正月往來行拜賀之礼。如有違犯者。依『淨御原朝庭制。』决罸之。但聽拜祖父兄及氏上者。」
「大宝元年(七〇一)八月癸夘条」「遣三品刑部親王 正三位藤原朝臣不比等 從四位下下毛野朝臣古麻呂 從五位下伊吉連博徳 伊余部連馬養 撰定律令 於是始成 大略以『淨御原朝庭』爲准正 仍賜祿有差」
これらを見ると「淨御原朝庭制」といい、また「淨御原朝庭」というように「律令」とは明示していません。これは「飛鳥浄御原律令」というものの実在性についてある疑いを生じるものですが、それについては別途検討してみることとします。
「他参考資料」
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『古典文学大系「日本書紀」(文庫版)』岩波書店
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系「続日本紀」』岩波書店
倉野憲司校注「古事記(文庫版)」岩波書店
秋本吉郎校注『日本古典文学大系 風土記』岩波書店
石原道博訳『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(一)』岩波文庫
井上秀夫他訳注『東アジア民族史 正史東夷伝』(東洋文庫)「平凡社」
杉村伸二『秦漢初における「皇帝」と「天子」 ― 戦国後期〜漢初の国制展開と君主号 ―』福岡教育大学紀要第六十号二〇一一年
遠山美都男『〈研究ノート〉「部」の諸概念の再検討 覚書』一九八九年「学習院史学所収」学習院学術成果リポジトリで公開されたもの