(未採用論文。投稿日付二〇一四年一月一日。)
「伊吉博徳」を含む遣唐使派遣の意義と「唐暦」の受容について
以下は「伊吉博徳」を含む遣唐使が「唐」から「冬至之會」への参加招請を受けて派遣されたと見られること、及びその時点では「倭国」で「唐暦」が受容されていたらしいことを考察したものです。
一.遣唐使の目的
「斉明紀」の「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」は、「六五九年の七月三日」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(会稽郡)」に到着しています。そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「洛陽」に行幸していたためその後を追って彼等も「洛陽」に向かい、「十月二十九日」に到着し「翌三十日」に皇帝に謁見したという行程になっています。
(以下『書紀』に記された「伊吉博徳書」の関係部分の抜粋)
「秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以十四日寅時。二船相從放出大海。十五日日入之時。石布連船横遭逆風。漂到南海之嶋。々名爾加委。仍爲嶋人所滅。便東漢長直阿利麻。坂合部連稻積等五人。盜乘嶋人之船。逃到括州。々縣官人送到洛陽之京。十六日夜半之時。吉祥連船行到越州會稽縣須岸山。東北風。々太急。廿二日行到餘姚縣。所乘大船及諸調度之物留着彼處。
潤十月一日。行到越州之底。十月十五日乘騨入京。廿九日。馳到東京。天子在東京。卅日。天子相見問訊之。…十一月一日。朝有冬至之會。々日亦覲。所朝諸蕃之中。倭客最勝。後由出火之亂。棄而不復検。…」
これを見ると、「唐皇帝」(高宗)に謁見した二日後の「十一月一日」に「冬至之會」が行なわれたとあり、「諸蕃」と共に参加しているようです。
ところで、この行程には不審な点があります。「越州の底」に到着したのが「九月二十二日」とされているのに対して、「長安」に向かって出発したのが「潤十月一日」ですから、一ヶ月以上も滞在していたこととなります。それにしてはその後「馬」に乗って「急いで」移動しているように見られ、「越州の底」から「長安」まで「十五日間」という短期間ですから、これは通常の移動の速度を遙かに上回っています。
この「越州の底」というのが具体的にどこを指すかやや不明であり、またどのようなルートをとったかも不明ですが、仮に現在の浙江省の南側地域(温州付近か)から「寧波」「杭州」「上海」「無錫」「合肥」「武漢」「鄭州」「洛陽」というルートを取って「長安」(現在の西安)まで移動したとすると、ざっと道のりで二〇〇〇キロメートル程度あります。これを十五日間で移動している事となりますから、一日一三〇キロメートル程度の移動距離となってしまいます。そのような行程は現実的ではないのではないでしょうか。
後の「養老律令」では馬による移動としては緊急の場合は一日一〇〇キロメートル以上の移動が許可されていましたが、それも「官道」を使用するという前提でした。この時の「倭国」からの遣唐使が「唐」の官道を使用できたとも思われませんし(そうであれば「唐」側の「官人」が案内したものと考えられますが、そうであれば「阿利麻」達のように「洛陽」へ案内されたはずです)、彼らは一般道を使用したと思われますが、高低差もかなりあるわけであり、そう考えるととても一日一〇〇キロメートル以上もの移動が可能であったとは思われません。つまり、十五日間で二〇〇〇キロメートルというような長距離を走破したというような想定は非常に考えにくいものです。というより、元々その予定であったならもっと出発を早めて当然とも言えるでしょう。
この「謎」についての考え方としては色々考えられるでしょうけれど、可能性が高いのは「伊吉博徳書」の「潤」の字の入る場所の誤記載ではないでしょうか。
この部分の記載では出発時には「潤十月一日」とあるのに対して「長安」に到着した時点では単に「十月十五日」とあります。その前に一ヶ月以上の空白があることを考えると、この「潤」の字は本来「到着」の日付である「十月十五日」に冠されるものであったとも考えられるでしょう。つまり出発は「十月一日」であり「長安到着」が「閏十月十五日」ではなかったかというわけです。これであれば「出発」から「到着」まで「四十五日前後」となりますから、一日あたりでは四十五キロメートル程度となり、まだしも可能な移動速度と思われます。その後「高宗」の不在を知って「長安」から「洛陽」まで十四日間で移動していますが、この場合は一日あたり二十五キロメートル程度ですから、それと比較しても「倍」程度となって、変わらず「高速移動」ではあるものの、まだしも非現実的ではなくなります。
この行程のペースについては「帰国時」の行程に要する日数が参考になるでしょう。帰国時点は「百済」が「唐・新羅」連合軍に敗れ「義慈王」以下が「洛陽」に連行された時点以降解放されたとされ、その後帰国の途に就いています。
(以下「伊吉博徳書」より)
「十一月一日。爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下。太子隆等諸王子十三人。大佐平沙宅千福。國弁成以下卅七人。并五十許人奉進朝堂。急引?向天子。天子恩勅。見前放著。十九日。賜勞。廿四日。發自東京。…辛酉年正月廿五日。還到越州。…」
これによれば「洛陽」から「越州」(の底)までおよそ二ヶ月(六十日)要しています。この間は約一六〇〇キロメートルと推測され、一日あたりでは約二十七キロメートル程度となります。これは「洛陽」に移動するために「長安」から要した移動の行程とほぼ同程度となりますが、ある程度「余裕」を持った行程ともいえるでしょう。この帰還の行程に比べると往路はかなりの高速移動であることが推定されます。(それでも「伊吉博徳書」の記載通りであったとするより現実的とは思われますが。)
この時「高宗」は「冬至」の儀式を「洛陽」郊外で行なうため「長安」から移動していました。
(以下「旧唐書」と『資治通鑑』による「皇帝」の移動の様子)
「舊唐書/本紀 本紀第四/高宗 李治 上/顯慶四年」
「(顯慶)四年…閏十月戊寅(五日),幸東都,皇太子監國。戊戌(二十五日),至東都。」
『資治通鑑』
「(顯慶)四年…閏月,戊寅(五日),上發京師,令太子監國。太子思慕不已,上聞之,遽召赴行在。戊戌(二十五日),車駕至東都。」
このように「皇帝」(高宗)は「閏十月戊寅(五日)」に「長安」を出発し「戊戌(二十五日)」に「洛陽」に到着しています。これを追いかけるように「博徳達」は「長安」に「(潤)十五日」に到着した後すぐに「洛陽」に向けて馬を走らせて「二十九日」に「ぎりぎり」で間に合ったという訳です。
このように移動に「馬」を利用し、また通常の移動に比べ「高速」で移動しているように見える訳ですが、それは指定された「期日」に間に合わせるためのものであったことを示すものと思われ、このことは、「唐」からこの「十一月一日」に「冬至之會」を行なうから来るようにという招請あるいは命令を受けたことを示すと考えられます。たまたま到着したら「冬至之會」を行なっていたという事ではないと考えます。それはこの時の冬至が「朔旦冬至」という珍しいものであったことと関係しているでしょう。
二.朔旦冬至について
この時の「冬至之會」は「十九年」(「章」という)に一度の「朔旦冬至」(十一月一日の朝に冬至を迎える)を祝う集まりであったと見られ、「伊吉博徳書」にも「諸蕃の中で倭客が最勝」と書かれたように「宮殿」には多くの国内国外から使節が集まっていた風情が看取できます。
この「朔旦冬至」という現象は「天体の運動」に関する事であり、「皇帝」は天体の運動をも支配しているという中国の伝統的考え方で云うと、このような現象が「予言」したように正確に現れると云うことは、「皇帝」の権威を示すものであると同時に、「十九年」という「章」の期間が過ぎてまた新しく次の「章」が始まることが、「皇帝」の治世と絡めて考えられていたこと、新しい「治世」がまた始まるということを示し、それを祝うという意味があったと見られます。そのような重要な「會」であれば周辺諸国も含め広く招請があったとして不思議ではありません。勢威を示すためにも多くの国内外諸国の王や使者が集まることが必要でもあったと思われます。
そのような場に「倭国」からの使者が「ちょうど間に合うように」参加していたと云うことは、「倭国」にも「参加招請」が届いていたことを示すと考えられます。
彼らは「十一月一日」よりもかなり早く「長安」に到着しており、それは期日ぎりぎりではなく多少の余裕を見て行程プランを立てていたことが知られますが、後の「武則天」時代に「洛水」でイベントが行われる際には「十日前までに集合するように」という指定がされ、内外諸官諸王に招集がかけられました。この時もやはり「十日前までに」と言うような期日指定があったのではないでしょうか。このようなことも「期日」が指定されていたことを強く示唆するものといえると思われます。 このような行程を見ると「十一月一日」には到着していなければならないというある種の逼迫性が感じられ、これは「期限」が切られていた可能性を強く示唆するものといえるでしょう。
実際には彼等は「洛陽」での開催ということを知らなかったため、「高宗」との面会は直前になってしまったわけですが、「倭国」が海を遥かに超えてやってこなければならないほどの遠距離であることを考慮して、期日に遅れたという扱いとはならなかったものでしょう。そう考えると、この時の「博徳達」は「遣唐使」というより「祝賀使」の意味合いが強かったという可能性が考えられるでしょう。「蝦夷」を引き連れていったのも、「手土産」代わりの一種の「生口」のつもりであったかも知れません。(これが「戦争捕虜」であったなら「生口」という扱いは当然ともいえますが)
このような「祝賀」の際には「珍奇」な「物品」や「動植物」を持参し貢上するのが習わしであったようですから(「武則天」「拝洛水」の儀式の歳にも多くの珍品奇品が並べられたとされます)、この場合も「蝦夷」の人を「珍獣」扱いしていたのかも知れません。(但し「唐」の方では彼らを「蝦夷国」の使者というまっとうな捉え方をしていたようです)
このような重要な式典への「参加要請」(ないしは「命令」)があったとすると、どのような時点と方法で「倭国」へと伝えられたものでしょう。
まず考えられるのはこの「遣唐使」の前回の「遣唐使」(「白雉四年」(六五三年)のもの)が帰国の際に「六五九年十一月一日に冬至之會を行なうので来るように」という事前予告としての招請があったということです。「朔旦冬至」は「予測」ができますから、この時点で既にそれが判明していたと云うことは当然考えられ、それを伝達したと云うことも有り得るでしょう。
しかし、最も有力なのは「普段」から定期的な「通交」があったのではないかということです。そう考えるのは「旧唐書」等に書かれた「貞観二年」(六四八年)の「新羅」に「表」を託した一件に関する記事です。
三.「唐」との国交回復と「唐暦」の受容
「旧唐書」等の中国側資料によれば「六四八年」に「倭国」から「新羅」を通じて「表」が提出され、その後「起居」を通じるようになったと書かれています。
「旧唐書」「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。」
これによれば「貞観二十二年」になって「新羅」に「表」つまり「国書」を託して「起居」を通じるようになったとされます。「起居」とは「皇帝」の言動の記録であり、公式文書でもあります。この「起居」の記録(起居注)は四半期に一度整理され、史官がまとめて年に一度正式文書として発行されていたものです。「起居を通じる」とは正式な外交が再開されたことを意味する用語ですが、具体的な内容も含んだものであり、「通じる」という表現をされていることから、定期的に「起居注」が「倭国」にもたらされるようなやりとりがあったのではないかと考えられることとなるでしょう。この中にあるいはその伝達の際のやりとりの中に「朔旦冬至」の一件が伝えられたということも考えられると思われます。
ところで、ここで重要なのはこの「伊吉博徳」の遣唐使が派遣された「六五九年」という年が「閏月」が入る年であり、しかもそれはこの「冬至之會」の直前の「十月」であったと言う事です。つまり「倭国」からの使者(「伊吉博徳」等)に「閏月」について知識がなければ、全然違う日付に到着してしまう事となりかねません。この事からこの時点で「倭国」では何らかの「暦」が使用され、それは「唐」のものと同一であったと言う事が推定できるのではないでしょうか。
この時の「唐」の暦は「麟徳暦」(六六五年施行)の以前の暦である、「戊寅(元)暦」であったわけですから、「倭国」においても同様であったという可能性が強いと考えられます。
確かに「元嘉暦」でも問題なく指定の月日に到着はできるでしょうけれど、当時の「倭国王権」は「唐」との外交を重視していたと思われ、その外交の基本として「唐」と日付(暦)を合わせる事としていた可能性が高く、この時点で、「倭国王権」が(もちろん「伊吉博徳」個人も同様)「戊寅暦」を使用していたという可能性は高いと思われます。
そもそも、この時「新羅」に託した「表」の内容は不明ではあるものの、あえて「新羅」を介してまで提出することとされたという中にその性格が透けて見える訳であり、それ以前に来倭した「高表仁」との間に発生したトラブルについての「謝罪」が盛り込まれていたと見るのが相当であると思われ(この件に触れずに正常な外交関係の修復は不可能でしょう)、そうであれば「唐」の暦を受容すると言うことも当然有り得ることとなります。
この頃の外交の状況を見てみると、「六四二年」には「百済」(「義慈王」)と「高句麗」(「淵蓋蘇文」)との間に「麗済同盟」が締結されます。これは、特に「対新羅」に重点を置いて結成されたもので、相互防衛条約とでも言うべきものであり、互いに軍事行動を起こした際には共同してこれにあたる、という内容であったようです。これにより直接攻撃の矢面に立たされることとなった「新羅」の「善徳女王」は「唐」に援軍を求め、後に「唐羅同盟」が結成されることとなります。
倭国は「六三二年」に唐使「高表仁」との折衝に失敗して以来国交が途絶えており、結果的に「百済」に偏した外交となっていたため、これら半島各国と「唐」との間の緊張関係の高まりが「倭国」に及び、その結果「唐」と「新羅」を敵に回す可能性が出て来たのです。特に「唐」の関係がそもそも良好でなかった「倭国」にとってこれ以上の緊張の高まりは是非避けたいところであったと思われます。
倭国は「高表仁」の事件以来の「唐」との関係を「緩和」させる必要が生じ、それまで絶えていた国交を回復させ、正常化させようとしたものでしょう。その「仲介役」を新羅に依頼しようとしたのだと考えられます。新羅も「倭国」を「麗済同盟」に組み込ませないようにするためもあり、「唐」との仲介に乗り出した事と考えられます。
「六四六年」には「利歌彌多仏利」と考えられる「倭国王」が死去したもようであり、それを知らせる「使者」として「高向玄理」を「新羅」に送り、翌年来倭した新羅の「金春秋」(これは「葬儀」に参列するためではなかったか)をもてなし、「新羅」に対し友好関係回復のメッセージを送り、あわせて「金春秋」に「表」(国書)を託し「唐」との橋渡しを頼んだものです。
このように「唐」との関係を良好にするために画策していたと考えられ、その中に「唐暦」(戊寅暦)の受容があったとして不思議ではないと考えられるわけです。
この「戊寅暦」は「初唐」以来使用されていましたし、「遣唐使」はそれまで複数回派遣されていますから導入するタイミングは色々あったと考えられるわけですから、「倭国」が摂取する機会はかなり多かったと思われます。しかし、いちばん可能性があるのは上に書かれているような「六四八年」の段階では正式な国交回復を図った段階ではなかったでしょうか。
また「起居注」は「西晋」のものが当時国内にもたらされていたことが「日本見在書目録」にあり、それは『書紀』にも引用されています。そのことから(失われてしまったものの)「西晋」以外の「中国」からの「起居注」が存在していたとしても不思議ではありません。「起居を通じた」というのですから、この時国内に「唐」の「起居注」がもたらされていたという可能性を否定はできないと思われます。しかも、この「起居注」は「日付入り」の記事であったと思われます。つまり何時そのことが話されたのか、決められたのかと云うことが欠落していたのでは情報として不完全ですから、必ず「日付」が書かれていたはずです。このことから、この時の「唐」で使用されていた「暦」に「倭国」が無関心であったとは考えられないこととなるでしょう。少なくともこの時点で「倭国」が使用していた「暦」(それはどのようなものかは不明ですが)とは異なっていた可能性が高く、日付のズレがあったとして不思議ではないこととなります。そうであればこの時点以降「倭国」でも「唐」の暦が使用されるようになったということが考えられるでしょう。
このように「唐」との「通交」が回復したことが「白雉年間」に遣唐使を送ることとなる契機となったのではないかと思われ、そうであればとりあえず「唐」から「敵国」扱いはされなくなっていたと思われますから、「冬至之會」についてもそれが開催されると言うことが正式に決まった時点で「倭国」にも「正式」な招請があったと考えることができるでしょう。ましてそのイベントの内容がまさに「暦」に関連する事なのですから、この時点で異なった「暦」を使用していたとはますます考えにくいこととなります。
そうであれば少なくともこの時点では「倭国王権」として正式に「唐」と同様の暦(戊寅暦)が使用されていたと考えるべきではないでしょうか。
この「戊寅暦」の使用開始時期については「孝徳紀」にある「禮法」制定の記事が関係があると思われます。そこに「鐘」を撞いて時刻を知らせるという表現が出てきます。
「大化三年(六四七年)…是歳条」「壞小郡而營宮。天皇處小郡宮而定禮法。其制曰。凡有位者。要於寅時。南門之外左右羅列。候日初出。就庭再拜。乃侍于廳。若晩參者。不得入侍。臨到午時聽鍾而罷。其撃鍾吏者垂赤巾於前。其鍾臺者起於中庭。」
ここでは「寅時」(午前四時頃)というように「時刻」が書かれていますが、この「時刻」を知るためには何か基準になる「時計」のようなものが必要ですが、それについては何も記載されていません。しかし、これは明らかに「漏刻」が実用化されていたことを意味するものです。日時計のようなものでは「日の出前」に「鐘」を撞くことはできなかったと思われますから、ここでは「漏刻」が使用されていたと考えざるを得ません。
「唐」に関係改善の意志を伝える「表」を提出したのは「六四八年」であり、この「禮法」制定記事はその前年のことですから、この段階で先んじて「戊寅暦」が導入されたと見ることも出来るでしょう。そのような環境を整える作業の後「新羅」に接近を図り、「唐」との国交を回復しようとしたと考えられます。
「結語」
一.「伊吉博徳」達「六五九年」の遣唐使は、「唐王朝」から「十一月一日」の「冬至之會」への出席要請を受けて、それに間に合うように行程を組んだらしいこと。
二.この時の冬至は「十九年に一度」という「朔旦冬至」であり、「倭国」を含む海外諸国にも参加要請があったのではないかと推察されること。
三.「倭国」は「唐」との国交回復を望んでいたものであり、「新羅」に表を付したという時点付近で「唐暦」を受容したのではないかと推量されること。その時の「唐朝」は「戊寅暦」であり、「倭国」においても同じく「戊寅暦」を使用していたのではないかと推量されること。
以上を考察しました。
参考文献
台湾中央研究院Webサイト「漢籍電子文献全文資料庫」