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阿毎多利思北孤と改新の詔


(未採用論文。投稿日付は二〇一三年二月九日。)

「改新の詔」と「阿毎多利思北孤」

 拙稿(『「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」』)において、「薄葬令」は「二回」出され、その二回目を「七世紀前半」に出されたものと推定したわけですが、この「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものですから、「改新の詔」自体が「七世紀前半」に出されたと想定する余地が出てきます。
 そのようなことを想定することは可能でしょうか。以下、それについて考察してみます。

一.「周礼」について
 中国古代の「礼制」を記した書である「周礼」によれば、「天子」の自称と「京師」を構築すること、そして、「畿内」を設定することはいわば「セット」とされています。
 この「周礼」の影響は大きく、歴代の中国王朝においてもかなりの影響の元に京師や畿内が設定されていると考えられます。
 もちろん「周礼」は「理想型」を示しているだけですから、全ての中国歴代王朝の「京師」や「畿内」が「周礼」の「完全に」基づいているというわけではありませんが、これを「念頭に入れつつ」構築していると考えて問題はないでしょう。 
 それが特に「明確」なのは「北魏」以来の「北朝」です。特に「北周」はその「国号」に「周」という「国名」を使用していることからも分かるように「周」の古制に復帰し、「周礼」に基づき「統治」を行なうということを「国是」としていました。(ただし、「周礼」に全て基づこうと試みたものの、現実にそぐわない部分もあり、早い時期に改められた部分はあったようです。)
 また「隋」はその「北周」から「禅譲」を承けて成立した国であり、「周礼」に基づく国家体制は継承しなかったものの、かなりの影響が「隋」にも遺存したものと見られます。
「倭国」は「隋」に至って、正式に「使者」を送り、「隋」の各種の制度を取り入れることとなったわけですが、「根本」に据えたのは「周礼」であったと思われます。

 その「周礼」によれば「天子」(皇帝)の所在する場所は「京師」(キ)であるとされ、そこは「羅城」で囲まれた中に「坊」で区画された領域を設定し、それを「京師」として、「皇帝」の「都」とするということが示されています。いわゆる「都城制」です。
 そして、その「京師」を中心として「方千里」を「畿内」として「皇帝直轄領域」とするように設定することが決められていたものです。
 これを踏まえて「改新の詔」を眺めると、そこでは「京師」、「畿内」を構築し、設定していることが判ります。

「(大化)二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。…
其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。騨馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者死。里坊長並取里坊百姓清正強(??+夸)者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。兄。此云制。西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來爲畿内國。…」

 このことはこの「改新の詔」を出した「人物」(倭国王)は「天子」(皇帝)の位置に自らを置いていたということを意味すると考えられ、「周礼」に沿って、「京師」「畿内」を設定していると推定されます。
 しかし、従来この「詔」は「近畿王権」の「王」が出したものという理解が大勢であり、「新日本国」樹立に関わるものという考えが(多元史論者か否かを別として)一般的であると思われますが、「倭国」で最初に「天子」を自称したのは「近畿王権」の王ではありません。
 「天子」の自称は「隋書倭国伝」によれば「六〇七年」に派遣された「遣隋使」の携えた「国書」に書いてあったものであり、当時の「倭国王」「阿毎多利思北孤」が自称したということが判ります。

「隋書倭国伝」
「大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰 聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法。其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云。帝覽之不ス 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者勿復以聞。」

 つまり、ここで「天子」を自称したとされる「阿毎多利思北孤」であれば、「京師」を構築し「畿内」を設定したとして何ら不思議ではないこととなるわけであり、彼が「改新の詔」を出したとしても不自然ではないということとなるものと推量します。
 このことは「改新の詔」そのものと、それが出された「年次」に対して「強い疑い」が生じることとなります。

 ただし、「法隆寺」の「釈迦三尊像」の光背からは「六二二年」に「上宮法皇」と呼ばれる人物が亡くなったものと推測され、通常この人物は「阿毎多利思北孤」と同一人物とされていますから、「改新の詔」が彼から出されたものか、それともその「太子」とされている「利歌彌多仏利」が出したものかやや判然とはしないのは確かです。
 しかし、この「七世紀初め」という段階で「改新の詔」が出され、「京師」が創設され、また「畿内」が設定されたとすると、「藤原京」や「難波京」の「以前」に国内に「条坊都市」が形成されたこととなり、そこを中心として「方千里」の地に「畿内」が設定されたとみなさざるを得ません。
 つまり、この「詔」は実は「倭国」における「条坊制」の始まりを示すものであり、それは「二中歴」に言う「倭京」改元である「六一八年」付近がその時点である可能性が高いと思われます。
 一般には「条坊制」は「藤原京」からと思われていますが、(「難波京」にも条坊があったらしいと推定されています)、実際にはそれらに先行して「筑紫都城」(太宰府)で「条坊制」が行なわれていたことが確実となっています。以下にそれを述べます。

二.「大宰府」の条坊制
 「大宰府政庁」の発掘調査の結果によると、計「三期」に及ぶ遺構であることが明らかになっています。
 最下層の「掘立柱建物」(第T期遺構)は更に二期に分かれ「古段階」と「新段階」とが存在していたと考えられています。 そして、「第U期遺構」は「条坊」と「ずれている」事が判明しています。(使用された基準尺が異なると考えられているようです)(注一)
 例えば「朱雀大路」は最終的に「政庁第V期」段階で「条坊」の区画ときれいに整合する事となりますが、それ以前の「朱雀大路」は「条坊」と明らかに食い違っているのです。(「政庁中軸線」の延長が「条坊」の区画の「内部」を通過しています)明らかに「条坊」区画が既に存在しており、それにも関わらず「政庁中軸線」を「別途」設けた基準点に従い施工したため、既存条坊と「食い違う」こととなったことを示しています。
 このように「条坊」と「政庁U期」の施工期が違う(同時ではない)というのは確かであると思われますが、では当初の「条坊」が敷設されたのはいつなのでしょうか。

 一般にこのような「正方位」をとる建物や街区を構成する場合、遠方に見通しの利く「基準点」を設け、それを目安に「方位」を定めていくと考えられます。また、その「基準線」は「政庁中軸線」つまり「宮域」の中心線を設定するものと思われますが、この「大宰府政庁」の遺構の「第U期」の場合、「朱雀大路」を南方に延長すると「基肄城」の門の一つと一致します。しかし、「条坊」と「第U期朱雀大路」は「ずれている」わけですから、同じ「基準線」の元に施工されたものではないことが明らかです。このことからこの「条坊」を敷設した際の「基準点」は別にあることとなります。
 「大宰府」の南方で特に有力な「基準点」は「基山」であると思われ、この山を(当然「山頂」となると思われます)基準とした場合、この山から引いた仮想的南北線は「朱雀大路」ではなく、「右郭四坊道路」に(正確に)一致します。(正方位から一度以内のズレしかありません)
 このことから、「宮域中心線」は「右郭四坊道路」であったこととなり、この「右郭四坊線」が「当初」の「朱雀大路」となると判断できます。つまり、現在とは違う場所に「宮域」があったこととなるわけです。
 
「周礼(考工記)」によれば「王城」のあるべき姿として以下のことが書かれています。

「周禮 冬官考工記第六」
「匠人營國。方九里,旁三門。國中九經九緯,經?九軌。左祖右社,面朝後市,市朝一夫。」

 ここでは「面朝後市」つまり、宮域の北方に「市」を設けるとされており、これに従えば「都城」の北辺には宮域は設定できないこととなります。このことも併せて考えると、「大宰府政庁第T期」以前に「プレT期」とでもいうべき時期があり、その時点では「都城」の中央部付近に「宮域」が設けられたと考えられ、その場所は「右郭南方」に存在する「通古賀地区」がそれであったという可能性があります。
 そうなれば、現在の「太宰府政庁遺跡」の最下層建物(政庁第T期古段階)の「柱穴」は、当然「中心部付近」にあった「宮域」が「北辺」に「移動」した際に形成されたこととなります。(これは「移築」ではないかと考えられます)
 この時点が「通説」では「白村江の戦い」の後(直後)であると言うことになるわけですが、言い換えると「中心部付近」に「宮域」が存在していた時期はそれをはるかに遡ることとならざるを得ないのです。
 このことは「改新の詔」に書かれた「初めて京師を修む」という文言が「七世紀初めのもの」という見方と大きく齟齬するものではない事をも意味するものです。

 また、この「詔」の中には「京師」の詳細として「凡京毎坊置長一人。四坊置令一人。」とありますが、従来からこの部分については「倭国独自」のものという指摘がされていました。(注二)「唐制」にはこのような規定がないためです。このことから、この様な規定が有効であるような都城が「現実に」造られたものという推定がされていましたが、これも「太宰府」に関する「考古学的」な事実とよく整合すると言えるでしょう。つまり「当初」の「宮域」は「都城」の北辺ではなく「中央部」付近にあったことが想定されていますが、そこを中心とした当初の「都城域」として、「東西四坊」程度であったのではないかと言うことが想定されるのです。 
 前述した「通古賀地区」というのは現在の「都城」の「中心」に配置しておらず、「右郭」に偏って存在しています。上に見たようにこれが当時の「宮域」であったとすると、その偏りに理由がなければなりませんが、その説明はやや困難ではないでしょうか。
 上に見た「周礼考工記」に拠れば縦横とも中央を貫く幹線道路を設けることとされています。つまり、真ん中に「朱雀大路」的道路を設け、東西南北に直交する幹線道路を設けるというように指示されています。(九本中真ん中に一本上下左右に四本ずつと言うこと)このことから「通古賀地区」が本来の「真ん中」であり「宮域」であったという可能性が高いと思われます。
 また、この「筑紫都城」(政庁プレ第T期)が「周礼考工記」に準拠して造られたとすると、「王城」の大きさも「周礼考工記」の規定に則っていた可能性があります。
 「周礼(冬官考工記)」によれば「王城」つまり「天子」の城の決まり(理想的配置)として「方九里傍三門九経九緯左祖右社面朝後市」というものがあるとされています。
 「通古賀地区」が中心(宮域)であったと仮定して、この「方九里」という規定を当てはめてみると、「一坊一里」ですから、「方九里」とは「九区画四方」(九坊四方)という範囲を意味し、これを「条坊」に当てはめて考えてみると、ちょうど「右郭」の南側半分程度の範囲となります。
 その東端としては現在「朱雀大路」跡と思われているところが該当することとなり、また「朱雀門」礎石が出た場所は「区画」の東北の隅に当たります。
 これらのことからも、これらの「位置関係」が当初から「計算」されたものであることを示すものであると同時に、条理設計の際に「基山」が基準点となっていたことが改めて確認できることととなったと考えられます。(その名前の「基山」という文字面にもそれが現れていると推察されます。…八世紀になってから「基肄」と二文字表記になる前は「基」の一字だけだったのではないかと思われます)
 以上の推察から「通古賀地区」に「宮域」があった当時の「原初型」としては、現在の「太宰府」のほぼ「四分の一」程度の広さであったこととなります。これは当初のサイズとしては逆に合理的である可能性が高いと思われます。 つまり、時代の進展と共に拡大されたものと見られ、(つまり「左郭」はその時点と思われるのが「宮域」が「北辺」に移動した時点ではないかと思料され、これがいわゆる「大宰府政庁第T期」と考えられている遺構の時期を指すと思われます。

 以上から、「改新の詔」に書かれた「京師」は「太宰府」都城を指すものと考えられ、この「詔」が実際に出された年次は「約三十年遡上」した「七世紀初め」という時期が推定されることとなります。
 「岸俊男氏」によれば、「京」の成立は「国」の成立時にさかのぼる、とされていますが(注五)、「卓見」であると思われ、それはそのまま「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時代に適用できるものであると考えられます。つまり彼等の段階で「国県制」が施行され、後の「令制国」に匹敵する「国制」が施行されたと考えられるからです(注六)。それと対応関係にあるように「京」(京師)が構築されたとすると、「天子」を称した「倭国王」の元に「京師」「畿内」「令制国」というセットが存在していたことが推定でき、その意味からも「七世紀前半」の「改新の詔」というものが「リアル」なものであると考えられはしないでしょうか。


結語
一.「周礼」によると「天子」自称と「京師」「畿内」が深い関係にあること。「改新の詔」の中に「京師」「畿内」の設定に関する言及があり、これが「天子」を自称した「阿毎多利思北孤」と関係があると考えられること。
二.「太宰府」都城の遺構から推察される「当初」の宮域などの位置や都城の大きさが、「周礼」に言う「京師」の「規格」に合致していると考えられること。それらから「改新の詔」が出された年次について「七世紀初め」が想定されること。

 以上について考察しました。

 なお、すでに述べた「薄葬令」の他にも「七世紀初め」に起源を持つと考えられる制度改定が多数あったことが推定可能ですが、その詳細については稿を改めて述べたいと思います。


(注)
一.井上信正「大宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナル二〇〇九年七月号ニュー・サイエンス社所収。
二.吉野秋二「京の成立と条坊制」都城制研究(3)(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集 Vol.27)二〇〇九年三月
三.谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』一九七八年三月所収。それによると「一里は七十六−七十七メートル」ほどと算出されています。
四.森鹿三「北魏洛陽城の規模について」東洋史研究第十一巻一九五二年
五.岸俊男「日本古代宮都の研究」岩波書店
六.拙稿『「国県制」と「六十六国分国」 ―『常陸国風土記』に現れた「行政制度」の変遷との関連において』古田史学会報一〇八号及び一〇九号

(他の参考資料)
「周礼」については「台湾中央研究院漢籍電子文献」サイトによって検索したものです。
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
石原道博訳「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝―中国正史日本伝(1)」岩波文庫
井上秀夫他訳注「東アジア民族史 正史東夷伝」(東洋文庫)「平凡社」
妹尾達彦『「中国都城の方格状街割の沿革」都城制研究(3)』二〇〇九年三月(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集 Vol. 27)
佐原康夫『「周礼と洛陽」 古代都市とその形成』二〇〇七年奈良女子大学学術情報リポジトリ
積山洋「中国古代都城の外郭城と里坊の制」二〇一一年大阪教育大学学術情報リポジトリ
金田章裕「太宰府条坊プランについて」人文地理第四十一巻第五号一九八九年
三池賢一「大宰府の起源に関する一考察」駒澤大学学術リポジトリ(NIIエレクトロニックライブラリーサービス)
山近久美子『「国土形成からみた古代日本の条坊制」古代都市代都市とその思想』二〇〇九年二月(奈良女子大学21世紀COEプログラム報告集 Vol. 24)