(未採用論文。投稿日付は二〇一三年二月九日。)
「鎮懐石」の寸法と重量について
以下は『万葉集』の中の「八一七番歌」で言及している「鎮懐石」の大きさの形容に使用されている基準尺が、「周以前」の「古制」によるという可能性について述べるものです。
『万葉集』の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(「よみがえる卑弥呼」駸々堂)によってなされています。
「万葉集八一七番歌」(以下読み下しは『伊藤博校注『万葉集』「新編国歌大観」準拠版』によります)
「筑前国(つくしのみちのくに)怡土(いと)郡深江村子負(こふ)の原に、海に臨(のぞ)める丘の上に二つの石有り。大きなるは長(たけ)一尺二寸六分、囲(かく)み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長一尺一寸、囲み一尺八寸、重さ十六斤十両。ともに楕円(まろ)く、状(かたち)鶏子(とりのこ)の如し。その美好(うるは)しきこと、勝(あ)げて論(い)ふベからず。いはゆる径尺(けいせき)の璧(たま)これなり。…深江の駅家(うまや)を去ること二十里ばかり、路の頭(ほとり)に近く在り。公私の往来に、馬より下りて跪拝せずといふことなし。…」
「山上憶良」の作とも、「建部牛麻呂」の作とも云われるこの歌には、「序詞」がつけられており、その中に「短里」と思しき表現が出てくるとされているのです。
この「鎮懐石」が祭られていたという「丘」は以前「鎮懐石八幡宮」が鎮座していたという「深江町」の高台を指すと考えられますが、上の「序詞」の表現からも「古代官道」沿いにあったと考えられ、「駅舎」からの距離表示は正確であると思われます。
ここに出てくる「深江駅家」というのは現在の「糸島市二丈深江」にあったものとされており、また「鎮懐石八幡宮」は同様に「深江町内」にあったと見られるわけですから、それらの距離は、ほんの目と鼻の先と云うこととなり、「二十里ばかり」というのが「長里」で理解できるものではないことは明白です。
このように「里」という「測地系」の単位に関して、それが「短里」であるとすると、同様に「短里系」のシステムの「一環」として理解すべきではないかと考えられるのが、この歌の「序詞」に書かれている「鎮懐石」のサイズと重量です。
ここでは大きさとしては二つの石のうち「大きい方」が「径一尺二寸六分」、「囲一尺八寸」とされています。また「楕円」という表現や「状(かたち)鶏子の如し」という表現からも、「半長径」が「六寸三分」、「半短径」が「二寸九分」程度の「楕円体」にほど近い形状と理解できます。もちろん理想的な「楕円体」であるはずもありませんが、表現からはかなり「滑らか」な印象を受けますから、「角張ったところ」がないということと考えられ、そうであれば「楕円体」からの「ズレ」もさほど大きくはないと見られ、楕円体からのズレ(体積)としては十%程度以下と思料されます。
ここに記されている「寸法」から推定される「重量」と、「重量」として記載されているものの比較をすることで、「尺」としてどのような長さがこの「鎮懐石」に使用されているのかが推定できると思われます。つまり「体積」を算出してそれに「比重」を掛けることで得られる「推定重量」と、実際の重量として書かれているものと比較するわけです。大抵の「岩石」の比重はせいぜい「3」程度であり、(これを「璧」という形容から、「軟玉」と考えても比重はほぼ同様です)ここではこれを適用することとします。
中国の度量衡は時代を経て変遷を重ねてきましたが、「斤」「両」に関して言うと、「殷・商」時代以降「南朝(陳・梁)」まで「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」はその「十六倍」の「220グラム」程度で大きく変化はなかったと見られているようです。それが「北朝」では「一両」が27.5グラム程度、「一斤」は「440グラム」程度とほぼ「倍」になります。更に「隋代」になると「一両」が「41.3グラム」程度、「一斤」は「661グラム」程度と更に増加し、「南朝系」の三倍程度までになりますが、同時に「南朝」の重量基準とほぼ等しい「一両」が「13.8グラム」程度、「一斤」「220グラム」程度という基準も併せて使用するようになります。これはもちろん「隋」に至って「南朝」を併合し、中国を統一した国家が誕生したためであり、旧「南朝」地域の人々の便宜を考慮したものでしょう。その後「唐」に至ってこの「旧南朝」系度量衡は姿を消したものと考えられています。
以下「寸法」と「重量」の変遷を書き出します。
斤 両 尺 寸
唐 661 41.3 29.6 2.96
隋 661/220 41.3/13.8 29.6 2.96
北朝(北魏) 440 27.5 29.6 2.96
南朝 220 13.8 24.5 2.45
魏晋 220 13.8 19.7 1.97
漢・新 220 13.8 23.1 2.31
周 220 13.8 19.7 1.97
殷・商 220 13.8 17.2 1.72
これらを参考に各時代の基準を適用してみます。
以下寸法からの「推定重量」と重量表示からの「重量」の表(ただし「大きい方の石」の場合)
(寸法から重量を推定した場合、ただし比重を「3」とする。また「半長径」は六寸三分、「半短径」は約三寸として算出)
時代 (隋・唐) (南朝) (漢・新) (周・魏晋) (殷・商)
基準尺(cm) 29.6 24.5 23.1 19.7 17.2
半長径の実長(m) 0.186 0.154 0.146 0.124 0.108
半短径の実長(m) 0.088 0.073 0.068 0.058 0.051
体積(m3) 0.00600 0.00340 0.00285 0.00177 0.00118
推定重量(kg) 18.00 10.21 8.56 5.31 3.53
(「重量表示」(十八斤五両)から推定した重量)
「斤」の重量単位(g) 661 220 220 220 220
十八(斤)の重量(A) 11898 3960 3960 3960 3960
「両」の重量単位(g) 41.3 13.8 13.8 13.8 13.8
五(両)の重量(B) 206.5 69 69 69 69
実重量(A+B)(kg) 12.18 4.04 4.04 4.04 4.04
同様の試算を「小さい方」の「鎮懐石」について適用してみます。(以下の表参照)
(寸法から重量を推定した場合、ただし同様に比重を「3」とする。また「半長径」は五寸五分、「半短径」は約二寸九分として算出)
時代 (隋・唐) (南朝) (漢・新) (周・魏晋) (殷・商)
基準尺(cm) 29.6 24.5 23.1 19.7 17.2
半長径の実長(m) 0.163 0.135 0.128 0.124 0.095
半短径の実長(m) 0.085 0.070 0.066 0.058 0.049
体積(m3) 491 278 233 177 96
推定重量(kg) 14.72 8.35 7.00 5.31 2.89
(「重量表示」から計算した値)
「斤」の重量単位(g) 661 220 220 220 220
十六(斤)の重量(A) 10576 3520 3520 3520 3520
「両」の重量単位(g) 41.3 13.8 13.8 13.8 13.8
十(両)の重量(B) 413 138 138 138 138
実重量(A+B)(kg) 11.03 3.67 3.67 3.67 3.67
上の表の「周」の時代の「尺」の長さは、「中国」における各地の発掘などによる「柱間寸法」など多数の例から帰納した平均値を使用しています(注)
また、「魏晋」時代の「尺度」については後の「南朝」にそのまま引き継がれたということから「南朝」と同じという説と、「周」の古制に則っていたという説と二通りあるようですが、ここでは「周」とほぼ同じであったという考え方をしています。
上の表で見るように「寸法」から計算した推定重量と重量としての表示からの帰結がもっとも整合するのは「殷・商」時代に使用されていたと推定される「17.2センチメートル」、重量を「一両」が13.8グラム、「一斤」は「220グラム」という値を採用したときです。
この場合であれば大きさもそれほどではなくなり、またかなり軽量化されますから、「腰に挿し挟む」などと言うこともそれほど荒唐無稽のことではなくなります。
少なくとも、「周」以前の「尺」によらなければ、「実重量」と「推定重量」にはかなりの乖離が発生してしまうこととなりますから、この結果はこの二つの「鎮懐石」の大きさと重量の表記が(少なくとも)「周制」以後のものではないことが強く推定できるでしょう。
(誤差もありますから断定はできませんが、逆算すると、大小二つの石の「推定重量」と「実重量」の双方がほぼ一致するのは一尺が18.2センチメートル付近と考えられ、「十世紀B.C.」付近に「周」が始まる「直前」の時期に「基準寸法」がやや「伸長」したと考えられ、そのような時期の基準尺が相当すると思われます。)
上の計算は、「古田氏」が指摘したように「里制」におけるものと同様、同時に表れる「寸法」や「重量」も「周代」以前と推察される「古制」に拠っていた事を強く示唆するものといえるのではないでしょうか。
結語
「鎮懐石」の大きさから推測される「尺」が「周」以前の古制によると思われる事。それは「歩−里制」同様「古代」より「倭国」で使用されてきたものと考えられること。
以上を述べました。
「補論」
この「周」以前の古制がどの時点まで有効であったか、というその下限については『万葉集』「風土記」などの成立を「八世紀」と見て、その中にこの「古制」が現れていると云うことから、「八世紀」まで遺存したという見解がありますが、(多元史論者の多くがそう考えているようですが)そうは考えられません。それはこれらの『万葉集』「風土記」などの「原初的成立」が「七世紀前半」付近あるいはそれをやや遡る時期であったのではないかと考えられるからですが、それらについての論はまた別に機会を得て述べたいと思います。
(注)
岩田重雄「中国・朝鮮・日本の長さ標準 −( 第1報)300B.C.−A.D.1700」計量史研究 16(1)一九九四年十二月 および「中国・朝鮮・日本の長さ標準 −(第2報)5000−300B.C.」計量史研究17(1)一九九五年十二月
「参考資料」
伊藤博校注『万葉集』角川文庫
古田武彦「よみがえる卑弥呼」駸々堂
新井宏『「考工記」の尺度について』計量史研究19(1)一九九七年十二月