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持統の伊勢行幸と曲水の宴


(未採用論文。投稿日付は二〇一三年二月七日。)

「持統紀」の「伊勢行幸」について −曲水の宴との関係において−

 以下は「持統紀」の「伊勢行幸」記事に見られる「伊勢」が「筑紫至近」の地であること、また、この時の行幸が「曲水の宴」に関連していること、さらにそれが行われた場所として「久留米」の「筑後国府遺構」が該当する可能性が高いこと、以上を述べるものです。

 『書紀』の「持統紀」に「持統」が「伊勢」へ行幸しようとして「三輪高市麻呂」に「冠位」を賭けて制止されるという記事があります。
 一連の記事は以下のものです。

「(持統)六年(六九二年)二月丁酉朔丁未。諸官(つかさつかさ)に詔して曰く。當(まさ)に三月三日を以て伊勢に將幸(いでま)さむ。此の意(こころ)を知りて諸の衣物を備ふべし。陰陽博士沙門法藏。道基に銀(しろがね)廿兩を賜ふ。
乙卯。刑部省に詔(みことのり)して、輕繋(かろきとらへびと)赦(ゆる)したまふ。是の日に中納言直大貳三輪朝臣高市麿、表を上(たてまつ)りて敢直(ただに)言(まう)して、天皇の伊勢に幸(いでま)さむとして農時(なりはひのとき)を妨(さまたげ)たまふことを諌(あは)め爭(いさ)めまつる。
三月丙寅朔戊辰。淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等を以て留守官とす。是(ここ)に、中納言三輪朝臣高市麿其の冠位を脱(ぬ)きて、朝(みかど)にフ上(ささ)げて、重ねて諌(いさ)めて曰く、農作(なりはひ)の節(とき)、車駕(きみ)未だ以て動きたまふ可からず。
辛未。天皇諌に從ひたまはず、遂に伊勢に幸ます。
壬午。過ぎます神郡及伊賀、伊勢、志摩の國造等に冠位を賜ひ、并(あはせ)て今年の調役(えつき)を兔(ゆる)し、復(また)兔供奉(そのことつかえまつ)れる騎士(うまのりひと)、諸司の荷丁(もちよほろ)、行宮(かりみや)造れる丁(よほろ)の今年の調役を兔(ゆる)して、天下に大赦(おほきつみゆる)す。但し盜賊(ぬすびと)は赦(ゆるし)の例(つら)に在らず。
甲申。過ぎます志摩の百姓(おほみたから)男女の年八十より以上(かみ)に稻、人ごとに五十束賜ふ。
乙酉。車駕(すめらみこと)宮に還りたまふ。到行(おは)します毎に、輙(すなは)ち郡縣(くにこほり)吏民(つかさおほみたから)を、會(まふつど)へて、務(ことねむごろ)に勞(ねぎら)へ賜(ものたまひ)て樂(うたまひ)作(おこ)したまふ。
甲午。詔(みことのり)して、近江、美濃、尾張、參河、遠江等國の供奉(そのことにつかえまつ)れる騎士(うまのりびと)の戸(へ)、及諸國荷、行宮造る丁の今年の調役を兔す。詔して天下(あめのした)百姓困乏(まど)しくして窮(せま)れる者に、稻をたまはらしむ。男には三束。女には二束賜。

五月乙丑朔庚午。阿胡行宮に御(おはしまし)し時に、贄(おほにえ)進(たてまつ)りし者紀伊國の牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等、兄弟三戸に十年の調役雜徭を服(ゆる)す。復た筴抄(かじとり)八人に今年調役を兔す。」

 最後の「御阿児行宮」記事において、「体系」の注では同様の出来事を記した『万葉集』の「左注」について「誤り」と断定しています。つまり、この記事は上に書かれているように三月の行幸の際の出来事であり、それに対する褒賞を授与したのが五月の時点だというわけです。
(以下万葉集「四十〜四十四番歌」までについての「左注」)
読み下しは『伊藤博校注『万葉集』「新編国歌大観」準拠版』によります。

「右は日本紀には「朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰に浄<廣>肆廣瀬王をもちて留守官(とどまりまもるつかさ)となす。ここに中納言三輪朝臣高市麻呂、その冠位(かがふり)を脱きて朝(みかど)に捧げ、重ねて諌めまつりて曰(まふ)さく、『農作(なりはひ)の前(さき)に車駕(みくるま)未だもちて動(いでま)すべからず』とまをす。辛未に天皇諌めに従ひたまはず、遂に伊勢に幸(いで)ます。五月乙丑朔庚午に阿胡の行宮に御(いで)ます」といふ。

 つまり、「左注」においてはこの「阿胡行宮」記事を、その記事が書かれた「日付」である「五月」の出来事と解釈しています。「体系」はこれを「誤り」としているわけですが、しかし「体系」の言うように「三月」の出来事であるなら、他の「褒賞」記事と同様その時点で記せばいいことであり、五月といういわば時期外れの褒賞記事ははなはだ「不審」といえます。しかも「車駕還宮」記事の前に「阿胡行宮」に直結する記事が全くないのはさらに疑わしく、この「阿胡行宮」記事は「三月」の「伊勢行幸」とは別途に行われたと見るのが妥当と思われます。
 また、この記事についての「古田氏」による解釈(注一)では、「体系」の「注」とは異なり、三月から五月までずっと「伊勢行幸」を続けていたと考えられています。「筑紫」から「瀬戸内」をあちらこちら寄りながらゆっくりと進んだというわけです。しかし、途中にある「還宮記事」を無視しないとすると、上で見たように「阿胡行宮」記事を「別」と考える「万葉集の左注」の方が合理的であり、「伊勢行幸」からは「三月中」に「還宮」したと考えるべきではないかと思われます。

 そもそも、この記事の中では「持統」は「三月三日」という日付を出して、この日に「伊勢」に行くと宣言しています。『當(まさ)に三月三日を以て伊勢に將幸(いでま)さむ。』とは、単にこの日に出かけると言うような意味ではなく、この日の内に「伊勢」に到着しているという意を多分に含んでいるのではないかと思われます。それは「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている事からも推定できます。つまり、「三月三日」というように日付を明確に設定していることには「意味」があったはずであると思われます。
 『書紀』の「本文」としての記事中に、「干支」ではなく「数字」で日付が書かれている例は非常に少なく、この「三月三日」以外には「推古紀」と「天智紀」に「薬猟」の行われたという「五月五日」だけなのです。それ以外は「補注」部分や「百済系資料」からの引用部分及び「伊吉博徳書」からの引用部分だけであり、「本文」としてはこのような「数字日付」は希有な例なのです。
 この事から、この「三月三日」という表記も「薬猟」同様「節」(節句)であったものと思われ、今で言う「桃の節句」が該当するものと思われますが、これは中国の古代では「疾病」などを祓う儀式を行うべき日とされていました。
 「藝文類聚」の「三月三日」の項には、「應劭」の「風俗通義」が引用されていますが、そこには以下のようなことが書かれています。

 「…應劭風俗通曰.按周禮.女巫掌歳時以祓除疾病.禊者潔也.故於水上盥潔之也.巳者祉也.邪疾已去.祈介祉也.…」

 つまり「三月三日」という日には(昔は)「女巫」つまり「巫女」のような「祝子」(ほうり)(神と人の仲立ちをする人物)が、川の水の中に「盥」(たらい)を浮かべ、そこで「沐浴」をすることで「疾病」を祓うことができるとされていたのです。
 つまり、「女巫」が「疾病」を「祓除」するために「水上」で「みそぎ」の儀式が必要であったものであり、そのために「川」へ行く必要があったものです。
 この事から考えて、この時の「伊勢行幸」は、「伊勢」のどこかで「沐浴」し「祓除」を行なうという目的があったのではないかと考えられます。
 「持統」の「詔」の中に「宜知此意備諸衣物。」という指示があり、これは「沐浴」に使用する「練衣」(ねりぎぬ)の準備をするようにという意味の可能性もあると思えます。 
 このような典拠のある儀式であるとすると「日付」が重要であり、「三月三日」という日付が設定されていた理由はそこにあると思われます。そうであれば「五月」に「仮宮」にやっと到着したという解釈では「三月三日」という日付が宙に浮いてしまうでしょう。
 
 このことから、当初目的としていた「三月三日」について「儀式」を行うべき日と推定されますが、実際には「出発日」として記事中には出てきます。この日に「留守官」などを定めたとしており、実際に出かけようとしていたと見られます。(これを「三輪高市麻呂」に阻止されたものと見られます)
 つまり、結果はともあれ、「持統」は当初は「目的の儀式」を行う日と出発日を「同日」と設定していたように見受けられ、そうであれば「伊勢」はかなり近いところにあると考えなくてはならないでしょう。少なくとも「一両日」程度で行けるような範囲の中に「伊勢」はあると考えざるを得ないと思われます。
 この時「持統」の移動は「輿」(こし)により行なわれたと見られ、これは人間が「担ぐ」ものですから、「車駕」というより「人の歩く速度」程度はあったとみられ、『養老令』によれば、当時の「歩行」速度は、「古代官道」を移動する際は「一日五十里」程度とされていますから(注二)、この当時の「古代官道」の駅間距離は平均的に「三十里」とされていることを考えると(注三)、およそ「二駅」程度の移動距離であったと想定されます。(ただし、この里は「長里」)
 
 ところで、この「三月三日」の「儀式」は「曲水の宴」の原型でもあります。つまり「沐浴」すると「身体」が冷えてしまいますから、その後「暖」を取る意味で「宴」が催されたと見られ、「盥」を「杯」に変え、それを水に流してその間に歌を歌うという趣向が考えられたようであり、これはかなり早期にそのような様式が確立していたと見られます。
 この「曲水の宴」という儀式は古来、「三月上巳」というように「三月」の最初の「巳」の日に行われていたものですが、「魏」の時代に「三月三日」という日付に固定されたものであり、それ以降については「日付表示」となったはずのものです。
 このことについては「晉書」の「禮志」(巻二十一志十一禮下)に以下のようにあります。

「漢儀,季春上巳,官及百姓皆禊於東流水上,洗濯祓除去宿垢。而自魏以後,但用三日,不以上巳也。晉中朝公卿以下至于庶人,皆禊洛水之側。趙王倫簒位,三日會天泉池,誅張林。懷帝亦會天泉池,賦詩。陸機云:「天泉池南石溝引御溝水,池西積石為禊堂。」本水流杯飲酒,亦不言曲水。元帝又詔罷三日弄具。海西於鍾山立流杯曲水,延百僚,皆其事也。」

 つまり「周代」以降「上巳」の日に行っていたが、「魏以後」「三日」と固定されたとされているものです。干支では「年毎」に日付が一定しませんから、宮廷儀式としては「日付」を固定する必要があり、そのため「三月三日」と固定したとされたようです。
 この「魏」の時代以降「曲水の宴」の要素が増したとされているようですから、この「持統紀」で「日付表示」が為されているということは、その内容に「曲水の宴」の要素が多分に含まれているということを推察させるものです。
 
 この「曲水の宴」については『書紀』では「顕宗紀」において「曲水の宴」という用語を明示している例があります。

「顕宗天皇元年(四八五年)三月上巳(「乙巳」これは二日)。幸後苑曲水宴。」

「同二年(四八六年)春三月上巳(「乙巳」これは七日)。幸後苑曲水宴。是時喜集公卿大夫。臣連國造伴造爲宴。羣臣頻稱萬歳。」

「同三年(丁卯)三月上巳(「癸巳」これは七日)。幸後苑曲水宴。」

 以上のように三回「連年」で開催しているようですが、ここでは「三月三日」ではなく「三月上巳」と「干支」表記になっています。これは上でみるようにいずれの日も「三日」にはなりません。
 このように「日付」表記が「古制」であることから、この時の「曲水の宴」は「沐浴潔斎」が主体の「古式」に則ったものであったと一見考えられますが、それにしては「是時喜集公卿大夫。臣連國造伴造爲宴。」とも書かれており、「宴」でもあったようですから、後代的要素もあるように見られます。
 また、「後苑」と書いてありますから「宮殿」の「背後」に「苑池」があったと見られ、そこで行なったと考えられますが、古式では郊外の「川辺」で行なうものとされていたようですから、その点もまた「後代的」です。
 このことからこの記事を以て、かなり早期に「曲水の宴」を倭国に取り入れていた証拠とは断言はできないこととなるでしょう。(この「顯宗紀」の記事については、同じ「顯宗紀」に「銀銭」記事があり、その貨幣価値の記述からそれが「後代」の「偽入」であった可能性が考えられ、(注四)そのことから推察してこれも同様である可能性はあると思われます。)

 この「曲水の宴」については「久留米市」の「筑後国府」跡から「遺構」が出ていることが注目されます。この「曲水の宴」遺構は「八世紀」以前のものと考えられており、また遺跡からも「七世紀後半」と考えられる建物跡なども見つかっており、「持統紀」記事といろいろな関連が考えられるものです。
 この時の「王城」(首都)と考えられる「筑紫」(「太宰府」)からの距離としても、「久留米」であれば、出発したその日のうちに到着して儀式を行うことも可能であり、この時の「伊勢行幸」の候補地としては可能性がかなり高いといえるのではないでしょうか。
 ここは、「古代官道」の駅として太宰府から二駅目、距離にして約二十五キロメートル程度であり、これは上で想定した「輿」による移動距離(駅数)としても想定範囲内となりますから、「一日」にして行くことが可能と判断されるものです。


結語
持統の伊勢行幸は「三月三日」に行う予定であったと考えられることから、「祓除疾病」が目的のものであったと考えられること。
「三月三日」という日付を特に「言及」している事から、その日のうちに「伊勢」に到着可能と判断していると考えられること。またそのことから「都城」からさほど遠くない場所に「伊勢」はあると考えられること。
この「三月三日」には「曲水の宴」が行われていたことから、この「持統行幸」においても「曲水の宴」が行なわれたと推定される事。その場所として「久留米」の「曲水の宴」の遺構が該当する可能性があること。

以上を考察しました。

 なお、この時「持統」は「三輪高市麻呂」の「職を賭した制止」を(多少予定からは遅れたものの)結果的に振り切って「伊勢」に行ったこととなるわけですが、その様な事を敢えて行わなければならなかった「事情」については、別途機会を得て述べたいと思います。

「注」
一.古田武彦「壬申の乱の大道」−「古田武彦講演会」二〇〇〇年一月
二.『養老令』「公式令(八十八)行程条」「凡行程。馬日七十里。歩五十里。車三十里。」
三.『養老令』「厩牧令(十四) 須置駅条」「凡諸道須置駅者。毎三十里置一駅若地勢阻険。及無水草処。随便安置。不限里数其乗具及蓑笠等。各准所置馬数備之。」
四.拙稿『「無文銀銭」−その成立と変遷−』古田史学会報一一〇号


参考資料
「芸文類聚」「周礼(考工記)」「晋書」については「台湾中央研究院漢籍電子文献」サイトによって検索。
伊藤博校注『万葉集』「新編国歌大観」準拠版(文庫版)角川文庫 
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店