(未採用論文。投稿日付は二〇一三年二月七日。)
「第一次藤原京」について −「下層条坊」の存在から−
ここでは、「藤原京」の「下層」から確認される「街区」(条坊)に関して考察し、それが「第一次藤原京」とでも言うべき「京師」の存在を意味していると考えられることを示します。
一.「下層条坊」の存在について
「藤原京」の発掘により、その下層から「街区」が発見され、既にそこに「条坊」が形成されていたことが明らかになっています。
つまり、「藤原京」の「条坊」が形成される「以前」に「別」の「条坊」(街区)があったものであり、「藤原京」はその「条坊」やそれに伴う「溝」などを破壊し、埋め戻して造られていることが明らかとなっているのです。
この「下層条坊」と同じレベルからは「藤原京」を南北に貫く大溝が確認されており、そこからは「壬午年」(六八二年)という干支が書かれた木簡が出土しています。(注一)
また、「薬師寺」(本薬師寺)は現在遺跡しかありませんが、その下層から「藤原京」の条坊が発見され、それに「薬師寺」が整合していることが明らかになっています。つまり、既に街区が整っている時点において、後から「薬師寺」が建てられたということが明らかになっていますが、『書紀』によれば「薬師寺」の「創建」としては「六八〇年」の時点で記事が存在しています。この『書紀』の記事を信憑すると「藤原京」の建設の時期もかなり前倒しで考えるほかないこととなるでしょう。
さらに、下層条坊にも「二期」存在することが近年確認され、「前期」のものは「天武朝初年」つまり「六七二年付近」まで遡上するという見解も出ているようです。(注二)
これら「下層条坊」については、余り大きな問題と捉えていない向きも多いようであり、「飛鳥京」の拡大領域とするものや、官人達の住居としての領域というような捉え方以上のものではないようですが、「条坊」というものが「京師」つまり「キ」と不可分のものであるとされている(注三)ことを考えると、「藤原京」が造られる以前に既にここに「京」(京師)があったという帰結にならざるを得ないのではないでしょうか。
つまり「第一次藤原京」と言えるものが先行して存在し、その後それを破棄して「第二次藤原京」が形成されたと考えることができると思われるのです。
そもそもこの時点では一般的には「首都」は「奈良」の「飛鳥浄御原」であるとされているわけですが、ご存じのようにここには「条坊」が敷設されてはいませんでした。「キ」にもない「条坊」が、「キ」以外の場所にあったと考えることなどできないはずですが、これに関しては上に見たように「飛鳥(明日香)」を「京」と見なし、「藤原京域」がその「京」の一部であったとする、いわば「詭弁」ともいえる理解)が横行しているようです。しかし、「明日香」が「キ」であるとするなら、当時の「王権」がなぜ「明日香」に条坊を施行しなかったのか、それを説明する必要があるでしょう。
「キ」である場所には「条坊」がなく、「キ」でない場所には「条坊」があるという奇妙な現実を従来は正確に説明できていません。
「藤原京」のエリアを「明日香」というキの「外部拡大領域」であるというのは、「京」「京師」という用語の「原則」に反するものであり、「そうとでも考えないと説明が付かない」というようなレベルの議論であると考えられます。
またこの「街区」については『書紀』に何も書かれておらず、もしこれを「明日香京」なるものの「外延」とするならば、「首都」の拡張という重要事項について「正史」が何も触れていないこととなり、それははなはだ不審なこととなるでしょう。
二.「第一次藤原京」とは
それではこの「下層条坊(前期)」が示す「第一次藤原京」の整備というものはどのような性格のものであったと考えるべきでしょうか。
遺跡から確認される事として「官衙」と推定される区画と建物があるとされており、上に述べた事と併せこの「下層条坊(前期)」が「京師」そのものであると考えられる事となるでしょう。それはこの「藤原京」に施されていた「条坊」の基準となるものが「中ッ道」などの「古代官道」であったことからも分かります。
「古代官道」はその構造やその造られた範囲からも「統一権力者」の手になるものであるのは明らかであり、その「古代官道」を基準線として造られている「藤原京」が「倭国王権」の直轄事業であったと考えるのは不自然ではありません。
また、『書紀』の「天武紀」に「複都制」の「詔」が書かれていますが、そこには「…又詔曰 凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者。各徃之、請家地。」とあります。つまり、これによれば「副都」は「両参」つまり「二ないし三個所」造る予定であったものであり、その最初が「難波」だといっているのです。そのことから、「難波」以外にも副都が計画されていたとしても全く不思議ではなく「難波」の次は「藤原の地」であったという可能性は大であったと言えます。つまり、この「第一次藤原京」の整備時期としては本来かなり早い時期からスタートする予定であったと思われるわけですが、「半島情勢」など「不確定要素」がかなりあったため、延び延びとなっていたという可能性もあります。
この「第二副都」というべき「第一次藤原京」は、遺構などから想定されているように少なくとも「六七〇年代前半」から造り始められたものと考えられ、「タイミング」としては「唐」「新羅」との戦いで捕囚生活を送っていた「薩夜馬」帰国後のことと考えるのが自然です。それは「第一次藤原京」とでも云うべき「京師」(副都)整備事業の「主体」が「薩夜馬」ではなかったかと云うことを示すものであり、また「唐」の軍事力を強く警戒した結果の「副都」整備事業であったと考えられるものです。
「薩夜馬」は「唐」(「熊津都督府」至近の地か)に「捕囚」となっていたものと考えられ、「唐」軍の脅威を肌にしみて感じていたものでしょう。それは解放された後も強く抱いていたものと思われ、帰国後早速「難波」に続く「副都」を建設することとしたのではないでしょうか。
また、その「唐」の脅威というものは一部現実のものとなり、「六七〇年代半ば」には「唐」と「新羅」との間の争いが本格化することとなります。
「六七四年二月」に「唐」の高宗が、「新羅」の「文武王」の官位を剥奪するという「事件」が起こり、これ以降「唐」と「新羅」は「戦闘状態」に入ったと見られますが、その直後「新羅」王子「忠元」が来倭したようです。この事は「新羅」から「倭国」に対して「援軍」の要請が来たものと考えるべきでしょう。
「(天武)四年(六七五年)是月。新羅遣王子忠元。大監級?金比蘇。大監奈末金天冲。弟監大麻朴武麻。弟監大舎金洛水等。進調。其送使奈末金風那。奈末金孝福。送王子忠元於筑紫。」
「唐」が「新羅」を駆逐して半島をその全面的勢力下に入れたと想定した場合、倭国にとっては「軍事的脅威」が限りなく増大することとなりますから、「新羅」からの軍事的要請があった場合、「倭国」としてはこれに積極的に応える事となったと見られ、その結果半島情勢に「介入」する事となったと考えられます。それは以下に見るような「遣新羅使」の派遣などに表れています。
「(天武)四年(六七五年)七月癸酉(七日)秋七月癸卯朔己酉 小錦上大伴連國麻呂爲大使、小錦下三宅吉士入石爲副使、遣于新羅。」
この時点ではまだ「新羅王子」「忠元」は帰国しておらず、本来(緊急でない場合)は、「遣新羅使」は「新羅使」である「王子」の帰国に同行すれば良いだけなのですから、そうしなかったということは、「急」を要する事情があったと考えなければならないでしょう。そのような緊急の事情としては「軍事面」以外には考えにくく、この時点で倭国は「半島情勢」に関与することとなったのではないでしょうか。それは「十月」になって「捕虜」と考えられる「唐人」三十人が「筑紫」より「貢上」されていることでも明らかです。
「(天武)四年(六七五年)十月丙戌(十六日)自筑紫貢唐人三十口。則遣遠江國而安置。」
このような「半島」における軍事的情勢に対応するように、「第一次藤原京」を建設することとなったのではないかと推察されます。
そもそも「六五〇年代」と思われる「難波副都」建設の趣旨も同様のものであったと思われ、「筑紫」という「海外」からの勢力の直撃を受けやすい場所からの「待避」のための「疎開」場所としての性格が強いものと考えられます。
「筑紫」や「難波」のような「海に面する」という地理条件はこのような「対外的軍事緊張」状態が発生した際には、逆に「危険」と考えられたものと推量され、その結果内陸に入り込んだ「明日香」の地を「副都」として選ぶこととなったものと考えられます。それが「下層条坊遺跡」として確認される「第一次藤原京」であったのではないかと推察されますが、その一応の完成が『書紀』の「六七七年」のこととして「筑紫」から「赤烏」が献上されたという記事時点であると思われます。
三.「第一次藤原京」完成の時点
「天武紀」には「六七七年」の記事として「筑紫大宰」から「赤鳥」が献上されたというものがあります。
「(天武)六年(六七七年)十一月己未朔。雨不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人賜祿各有差。且專捕赤鳥者。賜爵五級。乃當郡々司等加増爵位。因給復郡内百姓以一年之。是日。大赦天下。
己卯。新甞。
乙酉。侍奉新甞神官及國司等。賜祿。」
上の記事では「筑紫」から「赤鳥」が献上されたとされていますが、この献上されたという「赤鳥」は、これが「赤烏」であった場合「太陽の中には三本足の烏(カラス)がいる」という中国の伝説によって「太陽」を意味する言葉でもありますが、ここでは「鏡」のことではないかと考えられます。
「鏡」が「太陽神信仰」において、「太陽」の象徴として考えられ、使用されているのは周知と思われるところですが、ここでも同様に「太陽」(赤烏)が「鏡」を意味するものと考えられ、「赤烏」が献上されたということは、即座に「三種の神器」のひとつである「鏡」が「奉られた」と言うことを意味すると考えられます。しかもそれは「筑紫」から「奉られた」とされているところから考えて、これは「副都」「藤原京」の完成を祝したものと考えられるものです。
この「赤烏」の献上に関しては「六八三年」に同じく「筑紫大宰」(「丹比眞人嶋」とされる)から献上された「三足雀」との関連が考えられます。
「(天武)十二年(六八三年)春正月己丑朔庚寅。百寮拜朝廷。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢三足雀。」
この記事は「三十四年遡上」(注六)が疑われるものであり、本来は「六四九年」の記事であったのではないかと思料されます。
この「難波副都」の場合もそうですが、「遷都」というものは「皇帝(天子)の権力の象徴」として「朝庭」の「分与」的意味があると考えられ、そのように権力を分け与えられた「副都」が持つこととなる地位と正当性の保証を、「王権」のシンボルである「鏡」を「配布」することで、「副都」が「首都」と同等あるいはそれに次ぐ「正統」な権力関係にあることを示していると推量されるものであり、この時の「三足雀」は「赤鳥」(赤烏)とほぼ「同義」ではないかと思料されるものです。
例えば「副都」の朝廷から「法令」等を発布してもそれが「首都」から発布されたものと同じ意味を持つと言うことが周囲から理解されなければなりません。それを前もって保証するためのこととして、「正統性」の付与と言うことが必須であったのではないでしょうか。
また、この時「新嘗祭」が行なわれたように書かれていますが、これもそのような「正統性」付与の儀式の一環であったと理解されるものです。これと関連していると考えられる「木簡」が「飛鳥池遺跡」から出土しています。そこには「丁丑年十二月三野国刀支評次米」とあり、ここに書かれた「丁丑」という年次は、上に見るように「新嘗祭」を行ったと『書紀』に書かれた「六七七年」と推定されています。
こうして、「藤原京」が「副都」として「認証」されたこととなったと考えられます。
また、「大宰府政庁」遺跡から確認されることとして「政庁第T期」も「第U期」も「北辺」に「宮域」を持つタイプとして造られており、「副都」を建設した場合「首都」と「副都」で都城タイプが異なるのは不自然と思われますから、この「第一次藤原京」も「筑紫京」や「難波京」にならって「京域」の「北辺」に「宮域」を設定する方向で整備が計画されたものと考えるのが自然です。
それを示すように「藤原京」の「宮域」と確認されている「都城の中央付近」の「下層」からは「道路」が検出され、「宮域」内には「道路」が元々張り巡らされていたこと、また「建物」も建っていたことが明らかになっていますが、それらはそのような場所に「宮域」を建設するような計画が「元々はなかった」ということを示していると思われます。
(これについては「宮殿」建設に関わる人たちの事務所的なものというような考え方もあるようですが、通常は「宮殿」と同じ場所にはそのようなものは造らないと思われ、宮域とは別途にそのようなものは造られて然るべきと考えられます)
この事は「別の場所」すなわち「京」の北辺に「宮域」が一旦設けられたか、あるいは設けられる計画であったという可能性も考えられるところです。それであれば「筑紫都城」との整合性も自然なものとなると思われます。(これがいわゆる「長谷田土壇」(注七)が該当するという可能性もあります)
ただし、まだそのようなものは「下層条坊」の中からは確認されていません。しかし、当初想定の「京域」の外(特に北方)からも「条坊」が確認されており、より広域の「京」であったことが推定されることとなっていることを考えると、そのような場所に当初「宮域」が設定されたという可能性も想定できると思われます。
また発見された「瓦」と木簡などからは、「回廊」と「大極殿」などの整備が「七世紀末」から「八世紀初頭」までずれ込むと考えられるため、「第一次」の「京師」整備では、「大極殿」など宮域には「瓦」を使用していなかった可能性が非常に強いと考えられます。「下層条坊(前期)」からは「瓦」が発見されていないこともそれを裏付けます。その意味では「遺跡」から「瓦」を目当てにすることもできず、そこに街区が後に(「第二次藤原京」建設の際に)形成されているとすると、発見はなかなか難しいかも知れません。ただし、発掘している範囲がまだまだ狭いことを考えると発掘調査の今後を注視する必要があるでしょう。
この「副都」建設とその「副都」への「遷都」というものが現実にあったと想定されるのは、「六七六年」に各氏への食封対象地を「西国」から「東国」へ振替えるという「詔」が出ていることに現れています。
「(天武)六年(六七六年)四月辛亥 勅 諸王諸臣被給封戸之税者除以西國 相易給以東國。」
これが少数の氏族に対するものではなく、「諸王諸臣」というように対象範囲が王権に近い層であり、かなり多数に上ったであろう事が推定されることからも、「封戸」の対象地域を、それまでの「西国」から「東国」に変えるということの中には「都」(京師)の地域が「西」から「東」へ「遷った」(副都遷都)と言うことが示されていると考えられるものです。
この「詔」を「承ける」様に各地から多量の物資が「藤原京」に向けて送られる様になったと見られますが、「藤原京」遺跡から出土している木簡を見ると、それまでの「五十戸」に変えて「里」表記が行われるようになります。(特に「三野国」で顕著に切り替わるもの)
その切り替わりは「六八〇年」から「六八三年」の間のどこかと考えられ、これは「(第一次)藤原京」が完成し、そこへ「遷都」したことを示唆するものでもありそ、れに併せ「制度」などが改定されたことを示すものと推定できます。
では「第一次藤原京」はなぜ「改廃」され「第二次藤原京」が建設されることとなったのでしょうか。それを考える上で重要なものは『書紀』に書かれた「六八四年」の「大地震」であると思われますが、それについての考察は別に機会を得て行いたいと思います。
結語
一.藤原京の下層から以前の街区(条坊)が確認され、ここに藤原京に先行する「京師」が存在していたと考えられること。
二.この「下層条坊」は、半島情勢の変化に対応するために難波に次ぐ副都として建設されたものであると推定されること。
三.「下層条坊」つまり「第一次藤原京」とでも言うべき「京師」の完成は「六七七年」と考えられ、それは「掘立柱に板葺き」という様式であったと考えられ、「京」の北辺に「宮域」が設定されたと推定されること。また、それに併せて「五十戸制」から「里制」への変更など各種制度等が改定されたと考えられること。
以上を考察しました。
(注)
一.「壬午年十月〈〉毛野・□〔芳ヵ〕□□〔評ヵ〕 」藤原宮跡大極殿院北方遺跡「藤原宮第20次」木簡
二.寺崎保広「藤原京の形成」山川出版社
三.西本昌弘「畿内制の基礎的考察」「日本古代儀礼成立史の研究」塙書房二〇〇八年所収
四.正木裕氏の「「日本書紀、白村江以降に見られる『三十四年遡上り現象』について」古田史学会報七十七号二〇〇六年十二月以降の各関係諸論
五.「大極殿」があったとされる場所(大宮土壇)のやや北方に存在する「土壇」(土を盛り上げた建物の地盤風の場所)
参考資料
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「古典文学大系『日本書紀』(文庫版)」岩波書店
青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注「新日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
飛鳥藤原第一五三次調査現地説明会資料(奈文研学術情報リポジトリ内)
朝堂院の調査─第一五三次─(奈文研紀要・奈文研学術情報リポジトリ内)
藤原宮跡大極殿院回廊の調査・飛鳥藤原第一六〇次(奈文研ニュースNo.三十五・奈文研学術情報リポジトリ内)
林部均「飛鳥の宮と藤原京」吉川弘文館
木下正史「藤原京」中公新書
中村太一「藤原京の『条坊制』」これは「日本歴史六一二号」発表のものとされていますが、本人のサイトhttp://www.kus.hokkyodai.ac.jp/users/his1/report.htmlからダウンロードしたものを参考資料としました。
田辺征夫「都城の大寺」狩野久編「古代を考える 古代寺院」吉川弘文館所収
市大樹「木簡から『日本書紀』を読み直す」木簡学会編「木簡から古代が見える」岩波新書所収
岸俊男「畿内」朝日新聞社編「古代史の宝庫」所収
岸俊男「宮都と木簡 −甦る古代史−」吉川弘文館
小笠原好彦「藤原宮の造営と屋瓦生産地」日本考古学第十六号
花谷浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」日本考古学第八号
奈良文化財研究所「飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報「一号〜二十二号」