(未採用論文。投稿日付は二〇一二年十一月八日。)
「日本神話」と星の世界
今回は「記紀」の神話の中に「星」や「星座」が表されているという説についてご紹介します。
この研究はかなり以前に出ているのですが、管見する限り「引用」等されておらず、おおかた「星」など縁のない人たちには「実感」のない説なのではないかと思われます。ここで、改めてご紹介して、また違った観点からの「神話解釈」を提供したいと思います。
「記紀」の神話の中に「天の鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調べに来た「雨の鈿女」の前に「猿田彦」が立ちふさがり問答する場面があるのです。この場面は従来解釈が難解な場面でした。それは話の展開と関係ない描写があるように思えるからです。たとえば、「雨の鈿女が胸をあらわにむき出して、腰紐を臍の下まで押し下げてあざ笑った。」というような描写です。
『書紀』「巻第二神代下第九段」の「一書」(読み下しは「岩波日本古典文学大系新装版」によります)
「…已而且降之間。先驅者還白さく「一の神有りて、天八達之衢に居り。其鼻の長さ七咫(あた)、背(そびら)の長さ七尺(さか)餘り。當に七尋と言ふべし。且(ま)た口尻(わき)明り耀(て)れり。眼は八咫の鏡の如くして?然(てりかがやける)こと赤酸醤(あかかがち)に似たり」とまうす。即ち從(みとも)の神遣して往きて問わしむ。時に八十萬の神たち有り。皆目(ま)勝ちて相い問ふこと得ず。故(かれ)特(こと)に天鈿女勅(みことのり)して曰はく、「汝は是、人に目勝ちたる者(かみ)なり。往きて問ふべし。」のたまふ。天鈿女乃ち其の胸乳(むなち)を露(あらわ)にかきいでて、裳帶(もひも)を臍(ほそ)の下(しも)に抑(おしたれ)て、笑?(あざわら)ひて向きて立つ。是時に、衢の神問ひて曰はく「天鈿女、汝爲(かくす)るは何の故(ゆえ)ぞ。對へて曰はく「天照大神之子所幸(いでます)道路(みち)に、如此(か)く居ること誰ぞ。敢へて問ふ。」といふ。衢の神對へて曰はく。「天照大神之子今降行(いでます)と聞く。故(このゆゑ)に迎へ奉りて相待つ。吾が名は是れ猿田彦大神。」時に天鈿女復た問ひて曰はく。「汝將(はた)我に先(さきだ)ちて行かむ。將抑(はた)我や汝に先(さきだち)て行かむ。」對へて曰はく。「吾先ちて啓(みちひらき)て行かむ。」天鈿女復た問ふて曰はく。「汝は何處(いずこ)に到りまさむぞや。皇孫何處(いずこ)に到りまさむぞや。」對へて曰はく。「天神之子は則ち當に筑紫の日向の高千穗の?觸(くじふる)峯(たけ)に到りますべし。吾は伊勢の狹長田の五十鈴の川上に到るべし。」といふ。因りて曰はく、我を發顯(あらは)しつるは汝也。故汝我を送りて致りませ。」といふ。天鈿女詣(もうで)還りて報(かへりごと)状(まう)す。皇孫、於是、天磐座を脱離(おしはなち)て、天八重雲を排分(おしわ)けて、稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別きて、天降ります。果(つひ)に先の期(ちぎり)如くに、皇孫則ち筑紫の日向の高千穗の?觸之峯に到します。其猿田彦神は、則ち伊勢の狹長田の五十鈴の川上に到る。即天鈿女命猿田彦神の所乞(こはし)隨(まにま)に遂に以侍送(あひおくる)。…」
ここには「猿田彦」の顔などの描写が異常に詳しく出ており、唐突な印象を受けます。この部分やその後に続く「天八達之衢」とか「天鈿女乃露其胸乳。抑裳帶於臍下。而笑?向立。」というような妙に具体的な描写が何を意味するものか今までは「不明」とされていました。
しかし、これらの部分については「天空の星座をなぞったもの」という解釈により合理的な解釈が施されることとなったのです。
それは「勝俣隆氏」の研究です。(勝俣隆「星座で読み解く日本神話」大修館書店)
それによれば、「猿田彦」の描写の部分は「牡牛座」の「ヒアデス星団」付近のことであるとされています。この「ヒアデス星団」は大きく広がった明るい「散開星団」であり、「牡牛座」の「顔の部分」を形成しています。肉眼でもその「星団」の中に多数の星が数えられるほどであり、むかしの人々にはなじみの星達であったと考えられます。「猿田彦」の形容として「其鼻長七咫。背長七尺餘。當言七尋。且口尻明耀。眠如八咫鏡而?然似赤酸醤也。」という部分について見てみると、「鼻」と称されているのが「V字型」をした「星団」の中心部から下方に続く星の列を結んだものであり、「口尻明耀」とされているのがその下で星が密集して輝いているところを指すと考えられます。また「似赤酸醤(ほうずき)」と書かれているのが「牡牛座」α星の「アルデバラン」のことと考えられるようです。「アルデバラン」は「赤色巨星」であり、その赤く大きく輝く姿は「冬の星座」の中ではかなり目立つ星です。
そして、この「猿田彦」が「牡牛座」であるとすることからの「連想」としてそれに向かい合っているとされる「天鈿女」の部分は「オリオン座」のことではないかと考えられ、「臍の下」まで押し下げられた「腰紐」というのが「オリオン大星雲」(M42)だとされています。
「オリオン座」のいわゆる「三つ星」のすぐ下に縦に「ぼうっ」と輝く「オリオン大星雲」はかなり空の明るいところでも容易に認められるものであり、またこの「オリオン座」と「牡牛座」は「向かい合っている」形になっています。「ギリシャ神話」でも「突進する雄牛」とそれを迎え撃つ「オリオン」という見立てになっていますが、このように「互いに向かい合った」姿を星の配列から想像するのはそれほど難しくありません。
このように特徴のある星達(星座)が「向かい合っている」ように見えることから、この「天上」から下りてくる「天鈿女」とそれを迎える「猿田彦」と言うことに話が組み立てられたものと考えられます。
それを示すように「天鈿女」は「汝是目勝於人者」と「瓊瓊杵」から言われており、それは「天鈿女」の「目」が「猿田彦」の「赤酸醤(ほうずき)」のように輝く「光」(星)に負けない光と色であることを推定させるものです。これは「オリオン座」のα星「ベテルギウス」を意味すると考えられます。「ベテルギウス」の方が「アルデバラン」よりも明るくて、同じように赤く輝く星ですから、それが「瓊瓊杵の言葉」に反映していると考えられます。
また、上の「神話」の記事の中に「猿田彦」のいた場所として「天八達之衢」という名称が出てきます。
「衢」(ちまた)というのは「交差点」を示す言葉であり、「天上世界」とこの世界を繋ぐところが「天八達之衢」であり、その「通路」となっているのが「星」であり、またその集まりである「星団」であるとされています。
そこに「猿田彦」がいるとされるわけですから、その様なものが実際に「オリオン」と「ヒアデス」の至近になければなりませんが、それは同じ「牡牛座」に存在する「プレアデス星団」がそうであるとされます。
この「プレアデス星団」は「すばる」と言われ「語義」としては「集まっている」或いは「統率する」という意味であるとされていますが、各地域では「むつらぼし」を始め多くの呼び名があります。この「星団」は普通の視力では「肉眼」で「六個」程度の星が集まっているように見えるとされています。「西欧」では「ギリシャ神話」に基づき「セブンシスターズ」と呼び習わされていますが、名前がついているのは「九つ」あります。それは「両親」+「七人姉妹」の構成となっているためで、星図で確認すると、一番暗い星は「アステローペ」という星で5.77等星の様です。このように基本的には、天空の状態や本人の視力などにより左右される程度の見え方であり、特に明るい六コ以外はその神話の構成上「九」になったり、あるいは「八」という数字に意味を持たせて「八衢」としていたというようなことかもしれません。
更に以上のことの「連想」から「私見」として、「瓊瓊杵尊」について考えてみると、「天鈿女」に案内されて来るわけであり、それに立ちふさがるように「猿田彦」がいるとされていますから、「瓊瓊杵」は「猿田彦」から見て「天鈿女」の背後にいると考えられます。星座で言うと「牡牛座」から見て「オリオン」の向こう側にいるはずであり、「火(ほ)」の「瓊瓊杵の尊」という名にふさわしく明るく輝く星であると考えると、該当するのは「おおいぬ座」のα星「シリウス」であると考えられます。
「おおいぬ座」は「オリオン」のお供の姿であるとも言われるように「コンビ」として考えられやすい星座です。その「α星」であるシリウスは「全天第一」の「輝星」であり、「中国」では「天狼星」という名がつけられていますが、周囲を圧するように青白く輝くその姿は神々しいほどです。
この星が「火(ほ)の瓊瓊杵尊」として「神格化」されていたとしても全く不思議はないと考えられます。
そのほかにもこの「オリオン座」の三ツ星が「住吉三神」を意味するとも考えられているようです。この「オリオン座」の三つ星は「天の赤道」上に位置しており、「真東」から昇り「真西」へ沈みます。この「天の赤道」はその土地の緯度の分だけ傾いていますから、特に緯度が低い「南」の地方では「三つ星」は「垂直」に近い角度で「昇り」また「沈み」ます。この事はこの「三つ星」が一つずつ地平線(水平線)から昇ってくることを示しており、最初に昇ってくる星を「上筒男」、次が「中筒男」、最後が「底筒男」であると推定されています。
ここで「筒」というのが「星」であるとされていますが、(万葉集などにも「夕星」の読みとしては「ゆふつづ」とされています。)「古事記」の観念では「星」とは「天上世界」とこの私たちの世界を隔てる「壁」に空いた「孔」のようなものと考えられていたようです。たとえば「天の若彦」の下りを見てみると、以下のような表現が目につきます。
「古事記上巻 天若日子の段」(読み下しは「岩波文庫『倉野憲司校注古事記』」によります)
「…故爾に鳴女、天より降り到りて、天若日子之門なる湯津楓(かつら)の上に居て、委曲(まつぶさ)に天つ~之詔りたまひし命(みこと)如言ひき。爾に天の佐具賣(さぐめ)、此三字以音、此鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて言ひしく、此鳥は、其鳴く音(こゑ)甚(いと)惡し。故、射殺す可(べ)しと云ひて進むる、即ち天の若日子、天つ~の所賜へりし天之波士弓、天之加久矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。爾に其の矢、雉の胸自り通りて、逆(さかしま)に射上げらえて、天安河之河原に坐す、天照大御~、高木~之御所(みもと)に逮(いた)りき。是に高木~は、高御産?日~之別名ぞ。故、高木~、其矢を取りて見たまへば、血其の矢羽に著けり。是に高木~、此矢は、天若日子に賜へりし矢ぞ、と告りたまひて、即ち諸の~等(たち)に示(み)せて詔りたまひしく、或し天の若日子、命を誤たず、惡しき~を射つる矢之至(きた)りしならば、天若日子に中らざれ。或し邪(きたな)き心有らば、天若日子、於此矢に麻賀禮(まがれ)。此三字以音。と云ひて、其矢を取りて、『其の矢の穴より衝き返し下したまへば』、天の若日子が朝床に寢ねし高胸坂に中りて死にき。此還矢之本也。亦た其の雉(きぎし)還らざりき。故今に諺(ことわざ)に雉之頓使(ひたづかひ)曰ふ本是也。」
ここでは「穴」から矢を「返下」したとされていますから、地上から射た矢が天上世界に届いた際に、「天上」とこの世界を隔てる「壁」に「穴」を空けたことを示しています。つまり、この「壁」はその様な性質があると考えられていたわけです。そして、この「穴」を「星」として認識していたものです。これが理由で「星」のことを「つつ」(筒)というものと考えられます。つまりこの「穴」は「筒」状のものであるというわけです。「古星図」などでも「星」は「○」で表示される例が多いのですが、それは「筒」つまり「円柱」の端面の形状を示すものだからだと思われます。
「住吉三神」は「神功皇后」の「新羅征伐」の際に「水先案内」を努めますが、これが「三つ星」であれば先にも述べたように「東西」が正確に把握できるものであり、航海の「アテ星」(目標とする星)としては最適であったと思われます。(航海のアテ星としては「オリオン座の「三つ星」や「北極星」或いは「北斗七星」がよく使われたようです)
また、この事は「新羅征伐」の航海が「昼」だけではなく「夜」も行われた事を示していると考えられ、「夜襲」をかけたという可能性を示唆します。「満潮」であれば「海岸」近くまで船が行ける可能性が高く、「月夜」を待って「夜襲」したとも思えます。
また「丹後国風土記」には「浦島太郎伝説」の一つである「浦嶼子」伝説が語られており、そのに中にも「昴」(すばる)と「畢」(あめふり)が出てきます。
「…女娘、「君、且(しま)し此處に立ちませ」と曰ひて、門を開きて内に入りき。即ち七たりの竪子(わらは)來て、相語りて「是は龜比賣の夫(をひと)なり」と曰ひき。亦、八たりの竪子來て、相語りて「是は龜比賣の夫なり」と曰ひき。茲(ここ)に、女娘が名の龜比賣なることを知りき。乃(すなは)ち女娘出て來ければ、嶼子、竪子等が事を語るに、女娘の曰ひけらく、「其の七たりの竪子は昴星(すばる)なり。其の八たりの竪子は畢星(あめふり)なり。君、な恠(あやし)みそ」といひて、即ち前立ちて引導(みちび)き、内に進み入りき。…」
ここで言う「昴」は上で見たように「プレアデス星団」ですが「畢」(あめふり)というのは「ヒアデス星団」を言い、上に出てくる「猿田彦」の顔の部分が該当します。
これらの「星」と「神話」をつなげる数々の例は、実際に夜空を眺めたり「三つ星」が水平線から昇ってくるところを見ると「実感」できると思われ、これらのことは、「夜空」の星をしばしば見上げる人々がいて、彼等により作り出された物語であると考えられますが、「星」や「月」は「航海」の上で非常に重要な道案内役であり、これらを題材にして神話、民話を形作るのは「海人族」であるという可能性が非常に高いものと考えられます。
他にも「記紀」の成立に関係して「海人族」からの情報が多く盛り込まれている可能性が高いと思われ、古代史の中での「海人族」の重要な役どころが窺われるのです。
『書紀』の国生み神話でも「天照大神」や「素戔嗚尊」よりも先に「宗像三女神」が生まれています。また、「住吉三神」も同様に生まれており、『書紀』に海人族が持ち来たった神話が大量に注入されていることがわかります。
このように「星」に関する話は「神話」「伝承」などに多く登場し、古代の人々と「星」の関わりが深いことを示すものです。その様な事を想定の範囲の中において「神話」を理解するというアプローチも必要なのではないでしょうか。
参考資料
勝俣隆「星座で読み解く日本神話」大修館書店二〇〇〇年(初出は「一九八八年」から「一九八九年」にかけて「星の手帖」(河出書房新社)に連載していたものです)