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『日本帝皇年代記』を見て気がついたこと


(未採用論文。投稿日付は二〇一二年十一月八日。)

『日本帝皇年代記』を見て

 「二〇〇四年」と「二〇〇五年」に相次いで発表された「『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介」(「山口隼正」長崎大学教育学部社会科学論叢)という研究報告があります。
 「入来院家」というのは「鹿児島県」の旧家であり、「鎌倉時代」にこの地に「地頭」として移り住み、その後「当地」で地位を高めた存在となっていったとされており、「入来院文書」というものを残したものです。それらの文書は現在「東京大学史料編纂所」にて所蔵されているようです。しかし、この「史料群」には「欠番」があり(インデックスが作成されており、その中の番号と実際の書類に付された番号との間に対応のないものがあった)、「史料編纂所」で改めて「入来院家」にて捜索したところかなりの部分が残されていることが確認され、その中に『日本帝皇年代記』(以下「年代記」と略す)という史料があったものです。
 今般この「年代記」の内容を、「ネット検索」で閲覧・確認したところ、以下の点につき気がついたので、考察してみました。

一.「日本書紀」の不在について
 この「年代記」は「新旧」各種の資料を校合していると思われます。たとえば、「年代記」の中の「白鳳十年」(庚午)の項に「鎮西建立観音寺」とあって、「観世音寺」の「創建年」が「六七〇年」であると言う事が述べられていますが、(これは「古賀氏」などにより明らかにされつつあった「観世音寺」の創建時期について、更に「補強」されたこととなると思われます。)ここでは「観音寺」というように「本来」の「観世音寺」という名称ではなく、「唐」の「太宗」の諱「李世民」の「世」が避けられています。それに対して、同じ「年代記」中の「和銅二年」の条には「詔筑紫大宰府観世音寺…」とあり、ここでは「世」が避けられていません。これは当然、避けられていない方が「古い史料」(「唐」と正式に国交がない時代)から採ったもので、避けられている方が「新しい史料」(「唐」と国交が開かれて以降)から採ったものと判断されます。(「記事の時系列」とは逆になるわけです)
 このように性格の異なる各種の資料から「再構成」されて「年代記」が書かれていると思われるわけであり、それはこの「年代記」という史料を考察する上で重要な意味を持っていると考えられますが、現行「日本書紀」を「原資料」とはしていないのではないかと疑われる余地があります。それはたとえば「壬申の乱」の記述を見ると明らかです。
 「天武天皇」の「(白鳳)壬申十二」の条の欄外上部には以下のようにあります。

「或記云、天智七年東宮出家居士乃山之時、大友皇子襲之、春宮啓伊勢国拝、大神宮発美濃・尾張之兵上洛、大友皇子発兵而於近江之国御楽之皇子遂被誅畢、其後東宮還大和州即位云云」

 この記事からは「或記云」という形で「壬申の乱」に触れられており、しかも『書紀』と違い、「春宮」が「伊勢神宮」に知らせ、その結果「伊勢神宮」(大神宮)が「尾張」「美濃」の軍勢を派遣したとされています。「大友皇子」も「近江」で「御楽之皇子」という正体不明の人物に追われて最後を迎えるとされています。(ここは少々文脈が不明であり「御楽」が「近江」の地名であるという可能性もあります)
 また、その直前の「白鳳十一年」(辛未)にも以下のような書き方がされています。

「(白鳳)辛未十一 役行者上金峰山、…天智之皇子出家入吉野宮、此義未審」

 この文章の末尾に「此義未審」つまり、「詳細不明」と書かれているわけですが、これは「大海人」が「吉野」に出家したという「壬申の乱」の発端となる話のことと理解されるものであり、ここから始まる「壬申の乱」についての「現行日本書紀」の記事は「内容」が最も詳しく、最も行数を割いて書かれており、これを「未審」という一語で済ますことは本来出来ないはずです。

 また、この「壬申の乱」について古代において異説があり、事実関係に混乱があったことは「年代記」中の他の以下の二つの記事でも分かります。

 「(白鳳)乙卯十九 或云此年大友皇子起叛逆」

 「(朱雀)甲申 依信濃国上赤雀為瑞、去年十一月受禅、不受出家居吉野山、大友皇子事也…」

 これらの記事はいわゆる「壬申の乱」が、「壬申」ではない年次に起きたという複数の「説」或いは「伝承」があったことを示すものです。
 また、記事中には以下のものもあります。

「(命長)六 或本大化元年、六月帝即位…」

 ここでは「蘇我」を打倒した「大化改新」(乙巳の変)についての記事が「本文」として一切ありません。僅かに「或本」という表現で「現行書紀」の内容を彷彿とさせることが書かれていますが、重要な位置付けとしては扱われていないと見られます。
 「大化の改新」も「壬申の乱」も「八世紀」以降の「新日本国」にとっては重要且つ画期的な出来事であったはずであり、(それは「続日本紀」において、これらの事に関する功績に対して褒賞が行われていることでも明らかでしょう)これらのことが明確・詳細に記されていないということを考えると、この「年代記」の「編集」には「現行日本書紀」は参照されていない可能性が高いと思われます。
 「帝皇」の「年代記」を書こうとする人物が『書紀』を見ないとか知らないとか、或いは知っていても「或記」というような表記、表現を『書紀』に対して使用するというようなことは全く考えられるものではなく、このように「年代記」の中で『書紀』の存在が希薄であるのは、この記事の原資料となったものが「現行書紀」が編纂される「以前」のものであるという推測が可能であると思われます。
 つまり、この「編集時点」(年次としては不明ですが)において参照された「現行日本書紀」の以前の「記録」(資料)には「大化の改新」もなければ、「壬申の乱」もなかったと考えざるを得ないこととなります。
 
 以上から、この「年代記」の原資料の一部については、「現行日本書紀」が編纂され、まとめられる以前のもの(これがいわゆる「日本紀」かどうかは不明ですが)と考えられ、逆に言うと「現行日本書紀」及びそれと「連続性」が保たれている「続日本紀」の編纂は、従来考えられているよりかなり遅い時期に行われたのではないかと推察されることとなります。


二.「藤原京」の完成年次に対する疑義について
 またこの「年代記」の「和銅三年」(庚戌)の条には以下のように書かれています。

「(和銅)庚戌三 三月不比等興福寺建立、丈六釈迦像大職冠誅入鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良」

 ここでは「三月従難波遷都奈良」とあり、あたかも「平城京」の前の「キ」は「難波」にあったかのようです。そこには「藤原京」という存在が抜け落ちているようです。
 この記事は「現行書紀」にある「六八六年」(朱鳥元年)のこととして書かれている「難波宮殿」の「焼亡記事」と明らかに「矛盾」するものですから、上に述べたように「現行書紀」を参照していないことと併せ、この「焼亡記事」に対する「疑いの念」を起こさせるものです。
 「難波宮」は考古学的には「火災」に遇ったのは間違いないと考えられますが、それが「六八六年」のことであったのかどうかは実は「不明」であり、実際の火災の年次は異なっていたという可能性も考えなければなりません。それと関連していると考えられるのが「藤原宮」の完成が非常に遅かったと考えられていることです。
 ご存じのように「七一〇年」に「平城京」へ「遷都」することとなるわけですが、その「遷都」の理由としてはいろいろ言われています。
 京内を流れる川が「内裏」(宮殿)近くを流れていたため、河川への汚物の流入により、内裏の衛生状態がかなり悪化したという事その理由の一つとも言われています。
 また、「遣唐使」を派遣したことにより、「唐」のキ「長安」の「築城」の形式を学んだこともその理由の一つとされています。「藤原京」は「宮殿」が「京の中心域」にある、古いタイプの都城形式であり、「長安」などの、「宮殿」が「京」の「北辺」にある形式の存在を知り、それを模範とするべきと考えたかもしれません。(平城京はまさにそのような「北辺」に「宮殿」があるタイプです)
 しかし、それらの事情があったにせよ、「藤原京」が出来てから余り「時間」が経っていないにも関わらず、「新京」を作る意味についてはわかりにくいものがあります。
 『書紀』によれば「六九五年」に「藤原京」へ「遷都」しているように見えますが、「続日本紀」の「七〇四年」の条には「藤原の宮地を定めた」という記事も見えますし、実際の「藤原京遺跡」の発掘の状況から見ても、かなり「京」の築造には時間がかかったものと思慮され、そうであれば、「完成間もない」にも関わらず「新京」築造を開始したこととなってしまいます。

 この「続日本紀」の「七〇四年」の記事によれば「宮域」とされた場所には多数の「烟」(戸)があったことが記されています。

「慶雲元年(七〇四年)十一月…
壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。」

 この記事は、この地域、場所においてそれまで全く「宮域」の選定と工事が行われていなかったことを示すものであり、『書紀』に示す「藤原京」建設に関する工程の「信憑性」を疑わせるのに十分であると思われます。
 ちなみに、「遺跡」として確認される「藤原京」の「宮域」の面積としては、大筋「縦千メートル」×「横三百メートル」程度と考えられ、この中に「千五百余戸」の民衆が居住していたとされているのですから、一戸当たりの宅地面積として(道路面積として二割を減じて計算すると)百六十平米程度となります。
 後に「平城京」において行われていた「宅地班給」の際の「基本地割」としては、一町(百九メートル四方)の一/六十四であったろうと推定されており、その場合一戸当たり「百八十五平米」程の広さがあったと推定されることとなりますが、これと上で見た宅地面積とはほぼ同等の広さとなります。
 このことは、ここに書かれた「戸数」が、「宮域」の広さとの関係ではリアルなものであるといえ、記載内容の信憑性を証するものと言えそうです。
 これに関しては「西方官衙地区」の発掘の結果とも合致しています。それによると「宮域」と推定される場所から条坊道路と「同等規格」の道路遺構が見つかっており、それらは「宮」の建物に先行して存在していたものであり、完全に「重なって」いたことが確認されています。それらの道路遺構や宅地などを「廃絶」させたその上に「宮」の建物群が建築されていたことが確認されており、これは「七〇四年」の記事を裏付けています。 
 これらのことは「藤原京」遺跡から出土した「木簡」によって「東面回廊」の完成が「七〇三年以降」であることが明らかになっていることからもいえそうです。つまり、「七〇三年以降」に「回廊」が造られ、また「宮殿」などはもっと遅れるというわけですから、この「宮地」に「宮殿」が完成するまで更に複数年要することと思料されるわけであり、「藤原宮」としての全体の完成は「七〇五年」を下る可能性が高いのではないでしょうか。そのことは即座に「平城京」の移転年次と「藤原京」の完成年次が「異常に」接近することを意味します。つまり、非常に急いで新京造営が決まり、また移転したこととならざるを得ないこととなります。
 「平城京」造営を計画したのは「続日本紀」によれば「和銅元年」(七〇八年)の事であり、既にその時点で「候補地」の選定が終わっていたらしいことを考えると、実際には「藤原京」の「完成」と「移転」(遷都)の計画の立ち上げがほぼ同時であったこととなります。そのようなことがあり得るのでしょうか。
 「新京」が完成するかしないかという段階で、別に「新京」を造ろうしていたのです。
 これが「副都」ないし「副宮殿」というようなものでないことは、「平城京」への「遷都」と共に、「藤原宮」の「解体」が行われたことからも明白です。
 「平城京」の遺跡からは「藤原京」から運んだと思われる「部材」が多数確認されています。たとえば「藤原京」で「宮殿」の周囲を囲う「築地塀」に使用された「柱」部材が、「平城京」の「樋」の部材として使用されている例があります。この部材は総数「千本以上」ありますが、全て「引っこ抜かれ」運搬されています。後には「穴」しか残っていないわけです。
 通例「新京が」でき、「遷都」が行われても、「前京」を必ず「解体」しなければならない理由はありません。現にその後の「長岡京」でも、(後期)「難波京」でも、「平安京」でも、以前の「京」を、しかも「一切合切」解体し、運んで再利用した、ということは確認されていないわけです。
 これは「藤原京」に限って行われたことなのです。
 これを「古代のリサイクル」と称する向きもあるようですが、そうは思えません。それではその後の「新京」を作る際にも「継続的に」前京を解体することが行なわれなかった、つまりこれが「前例」とならなかった理由を説明する必要があります。
 「新京」に移ったからと言って、「前京」の部材を「全て」持って行き、再利用したり、廃棄したりするような行動は明らかに「不審」であると思われます。
 「時系列」から考えると、「藤原京」が「未完成」(「未使用」)のまま「解体」され、その施設資材が「平城京」建設に転用されたという可能性さえ考える必要があるほどです。
 このようなことが行われなければならなかった意義についての「疑問」は当然わき起こるところですが、それとは別にその場合、「藤原京」では「国家統治」の「実務」が行われていなかったこととなるわけですから、その前に「実務」を行っていた「宮」(京)はどこであったのかと云うことも疑問となるわけです。「飛鳥宮」では「首都機能」が貧弱であり、ここでは官僚達が公的業務をこなすことは出来なかったものと思われます。
 しかし、『書紀』の難波宮殿火災記事によると「大蔵省」「兵庫職」という「職名」「組織名」が書かれています。

「朱鳥元年(六八六)正月乙卯一四 酉時難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰 阿斗連藥家失火。之引及宮室。唯兵庫職不焚焉。」

 一般的にはこの「火災記事」時点では「難波宮殿」は使用されておらず、「飛鳥宮殿」にいたことになっています。しかし、この記事のように「大蔵省」があり「兵庫職」があるなど、実際には「難波宮殿」が「政府機関」として機能していたものと推定できます。
 また、「阿斗連藥家失火。之引及宮室。」と書かれていることから、「宮殿」付近に「官人」の住居があったことを示していると考えられますが、「発掘調査」の結果からは「飛鳥宮殿」には「都市機能」つまり「条坊制」などが布かれた形跡はなく、また「宮殿」の「至近」に有力豪族や官人などの住まいがあったようにも見られません。つまり、「飛鳥宮殿」の「政府中枢機関」としての機能はかなり「限定的」であったことが読み取れます。
 それに対し「難波宮殿」はそもそも「首都」(筑紫)と同格の「副都」として計画されたものですから、当然「統合」された政府機関がそこに存在していたものであり、その中に「国家」の中枢としての全ての機能が集まっていたことは確実です。
 「壬申の乱」収束時に「大伴吹負」が「以西の国司」達から「官鑰騨鈴傳印」つまり「税倉」等の鍵や「官道」使用に必要な「鈴」や「印」などを押収していますが、それがわざわざ「大阪」を越えた「難波小郡」で行われたことに意味があるでしょう。

(天武紀)壬申(六七二年)の条
「辛亥。將軍吹負既定倭地。便越大坂往難波。以餘別將軍等各自三道。進至于山前屯河南。即將軍吹負留難波小郡。而仰以西諸國司等。令進官鑰騨鈴傳印。」

 これによれば、この当時「近江京」に全ての政府中枢機関があったわけではないこととなり、それらが「難波小郡」にあったことを示すものと考えられますが、この「難波小郡」が「前期難波宮」を指す用語であることがこの場合強く推定され、そうすると(首都である「筑紫」を除けば)集約的で、官僚による統治機構が備わっていたのは、この段階では「難波京」しかなかったこととなります。つまり、もし「副都難波」は『火災にさえ遇わなければ』そのまま存続していたはずですから、『書紀』に書かれた「火災」年次が「虚偽」であったなら、(火災そのものは「遺跡」の状況から事実とは考えられますが、それが間違いなく「六八六年」であったかは別の話です)、この「年代記」が言うように「平城京」の前の都は「難波」であったという可能性も考えられるところです。そして「藤原京」の遺跡が物語る事実はそれを裏付けるものではないでしょうか。
 そのことは即座に「藤原京」の「正体」、つまり「藤原京」とは何だったのかという疑いにつながるものですが、それについてはさらに論を深めて、別に言及したいと思います。


結語
一.この「日本帝皇年代」の編纂者(というより原資料作成者)は「日本書紀」を見ていないと考えられること。そのことから「現行日本書紀」の成立が一般に考えられているより「遅かった」と推定されること。
二.「藤原京」の造営年次が一般に考えられているより「遅かった」と推定できること。また『書紀』の「難波宮殿」の焼亡記事はずっと後の事であったと考えられること。

以上二点、「年代記」を概観して気の付いた点を書いてみました。

(付記)
 上に見るようにこの『日本帝皇年代記』は「二〇〇四年」「二〇〇五年」に上・中・下に分け「学内」に向け発表されたわけであり、その後「デジタル化」されたものです。
 大学紀要等への発表の場合は「学外」の部外者はなかなか見ることが出来ないわけですから、この「リポジトリ」システムは非常に有用です。
 この「学術機関リポジトリ(Institutional Repository)」とは、「大学等の学術機関で生産された知的生産物を保存・公開することを目的とした,電子アーカイブシステム」と定義されています。
 「二〇〇六年」に「国立情報学研究所」から「学術機関リポジトリ構築ソフトウェア実装実験プロジェクト報告書」というものが出され、それ以降このシステムが実際的に「各大学」等で運用されるようになり、急速に登録コンテンツが増えています。(二〇一二年三月末現在で国内学術機関によりアクセス可能なコンテンツ数は「学術雑誌論文約二十九万件」「紀要論文約五十五万件」「学位論文約七万件」等々、計約百三十万件に達しています。)
 また他に「法制史学会」などにおいても「論文」がダウンロードできるシステムもあり、私たちもこれらを利用すべきと思われますので、インターネット「検索システム」等をうまく使い、これら「リポジトリシステム」に「埋もれている」研究成果を享受し、自からの研究の一助とする事は非常に重要でありまた有益であると考えるものです。