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「薄葬令」が出された時期について


(未採用論文。投稿日付は二〇一二年十一月八日。)

「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」

 以下は「六世紀後半」に確認される「前方後円墳」の築造停止と、「七世紀半ば」の「薄葬令」が強く関連していることを述べるものです。

 「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。
 この「前方後円墳」の「築造停止」という現象については色々研究がなされ、意見もあるようですが、仏教との関連が考えられるのはもちろんです。何らかの仏教的動きと関連しているとは考えられていますが、それが「一斉」に「停止」されるという現象を正確に説明したものはまだ見ないようです。
 このように「一斉」に「前方後円墳」の築造が停止されることについては、拙稿(注一)でも論じたようにこの段階で列島に「強い権力者」が登場したことを意味すると思われ、「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させます。また、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、そのような「詔」の類が「二回」出されたことを意味するとも思われます。
 そのように二回に分かれる原因としては、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなく「筑紫」であったと考えられることと、「東国」の「行政組織」が「未熟」であったことがその理由として挙げられます。
 この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由がやや不明ですが、「発信源」が「筑紫」にあったと考えると「時間差」はある意味必然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われ、「倭国」の本国及び近隣の「諸国」と、「遠距離」にある「諸国」への「統治力」の「差」がここに現れるものとなったと考えられます。
 この時点では「東国」に対する「統治機構」の整備が「不十分」で「未発達」であったと推察され、「統治」の実務執行体制が未整備・未発達であったと思われるものであり、それが「詔」が二回出されることとなった理由であると思われます。
 しかし、出されたはずの「詔」に類するものが『書紀』の該当年次付近では見あたりません。ただし、それに「近い」と思えるものとしては、「推古二年」に出されたとされる「寺院造営」を督励する詔があります。

「(推古)二年(五九四年)春二月丙寅朔。詔皇太子及大臣令興隆三寶。是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舎。即是謂寺焉。」

 この「詔」は、六世紀末付近に各地に多くの寺院が建築される「根拠」となった「詔」であると考えられています。従来この事と「前方後円墳」の築造停止には「関連」があると考えられていました。つまり、「前方後円墳」で行われていた(と考えられる)「祭祀」がこの「詔」の制約を受けたと言うわけです。ここで行なわれていた「祭祀」は「当初」(「竪穴式石室」の段階)「円頂部」で行なわれ、後には(「横穴式石室」へ変遷して以降)「方」と「円」の「つなぎ目」付近で行なわれたと見られますが、これは「倭国中央」と「諸国」の王との間の「統治−被統治関係」を表す非常に重要なものであったものであり、上の「詔」を承ける形で書かれている「諸臣連等各爲君親之恩。」という言葉に象徴されるように、その「祭祀」は「君」や「親」に対する「敬意」の表現であると同時に、「統治−被統治」の関係を確認する「服属儀礼」の意味合いが強いものであったと考えられています。ですから、「寺院」を造営する、ということは、そのようなものを今後は「仏教形式」で行うように、という指示をも意味すると思われ、このことが「前方後円墳」の築造に関わる動きに非常に重大な影響を与えたことは間違いないとは考えられるものの、他方この「詔」が「前方後円墳」の「築造」を「停止」するように、という「直接的」なものではなかったことも重要です。なぜならば、「前方後円墳」は結局は「墓」であるのに対して、「寺」は「墓」ではなかったからです。かなり後代まで「寺院」では「墓」も造られず、「葬儀」も行われなかったものであり、「寺」と「墓」とは当時は直接はつながらない存在であったものです。つまり、この「詔」では「墓」について何か述べているわけではないと考えられ、直接的に「古墳」築造停止にはつながらないと考えられますが、であればそのような「墳墓造営」に関する指示や「詔」が別に出ていた、と考えざるを得ないものです。
 しかし、資料上ではそのようなものが見あたりません。「何」を根拠として「前方後円墳」の「築造」が「一斉」に停止されることとなったのかが従来不明であったのです。

 他方、『書紀』によれば「薄葬令」というものがその後(「孝徳朝」期)出されています。
(以下「薄葬令」を示します。ただし「読み下し」は「岩波」の「日本古典文学大系新装版」に準拠します)

「(大化)二年…甲申。詔曰。朕聞。西土(もろこし)之君其の民を戒めて曰く、古の葬(はぶり)は、高きに因りて墓とす。封(つちつか)ず樹(きうえ)ず。棺槨(き)は骨を朽すに足るばかり。衣衿(きもの)以って宍を朽すに足るばかり。故、吾此の丘墟(おか)不食(いたづら)之地を營りて、代を易(か)へむ後に其の所を知らざらしめむことを欲す。金(こがね)銀(しろがね)銅(あかがね)藏むること無。一(もはら)に瓦の器(うつはもの)を以て、古への塗車(くるまかた)蒭靈(ひとかた)之義(ことわり)に合(かな)へ。棺(き)は際會(ひまあひ)に漆(うるしぬ)ること三過(みたび)せよ。飯含(むる)に以ってする珠玉(たま)無。珠襦(たまのこしころも)玉?(たまのはこ)施くこと無。諸の愚俗の爲る所也。』といへり。又曰へらく『夫葬(はぶり)は藏(かくす)也。人の見ること得ざらむことを欲す』といへり。迺者(このごろ)我が民(おほみたから)貧しく絶しきこと、專墓を營るに由れり。爰に其の制(のり)を陳べて、尊さ卑さ別(わき)あらしむ。夫王以上之墓者。其の内の長さ九尺。濶(ひろ)さ五尺。其の外の域(めぐり)は方九尋、高さ五尋。役(えよほろ)一千人。七日に訖らしめよ。其葬らむ時には帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には、白布(しろぬの)を用ゐよ。轜車(きくるま)有れ。上臣の墓は、其内の長さ濶さ及高さは皆上(上)に准(なずら)へ。其の外の域(めぐり)は方七尋。高三尋。役五百人、五日に訖らしめよ。其の葬らむ時の帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には白布を用ゐよ。擔(ひて)行け。盖し此は肩を以って與を擔ひて送るか。下臣の墓は。其の内の長さ濶さ及高さは皆上に准(なずら)へ。其の外の域(めぐり)は方五尋、高さ二尋半、役二百五十人、三日にして訖らしめよ。其の葬らむ時には帷(かたびら)帳(かきしろ)の等(ごとき)には白布を用ゐること亦上に准(なずら)へ。大仁。小仁の墓は、其の内の長さ九尺。高さ濶さ各四尺。封(つちつかず)して、平(たいらか)ならしめよ。役一百人。一日に訖らしめよ。大禮より以下小智より以上の墓は。皆大仁に准へ。役五十人。一日に訖らしめよ。凡そ王以下小智以上の墓は、小さき石を用ゐよ。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其の帷(かたびら)帳(かきしろ)等には麁布(あらきぬの)を用いるべし。一日も停むること莫かれ。凡そ王より以下、及庶民(おほみたから)に至るまでに、營ること殯(もがりや)得ざれ。凡そ畿内より諸の國等に至るまでに、一所に定めて、收め埋めしめ、汚穢(けがらは)しく處處に散し埋むること得じ。凡そ人死亡ぬる時に、若(も)しは自を經きて殉(したが)ひ、或いは人を絞りて殉しめ、強ちに亡人(しにたるひと)の馬を殉はしめ、或いは亡人の爲に寶を墓に藏め、或いは亡人の爲に髮を斷り股を刺して誄す。此の如き舊俗(ふるきしわざ)一(もはら)に皆悉くに斷めよ。…」

 これは『書紀』では「七世紀半ば」の「孝徳紀」に現れるものですが、従来からこの「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されていました。この「薄葬令」を出したとされる「孝徳」の陵墓とされる「大阪磯長陵」(円墳です)でさえも、その直径が三十五メートルほどあり、規定には合致していないと考えられています。そのため、この時点で出されたものではないのではないかという見方もあり、より遅い時期である「持統紀」付近に出されたものではないかと考える向きもありました。(注二)その場合「持統」の「墓」が「薄葬令」に適合しているということを捉えて、「持統紀」に出されたものと考えるわけですが、しかし、この「薄葬礼」には『書紀』によれば「六〇三年」から「六四七年」まで使われたとされる「冠位」が書かれています。

「王以上之墓者…」「上臣之墓者…」「下臣之墓者…」「大仁。小仁之墓者…」「大禮以下小智以上之墓者…」

 このように「薄葬令」の中では「六四七年」までしか使用されなかった冠位が使用されていることから、これを捉えて「薄葬礼」が「持統朝」に出されたとは言えない、とする考え方もあり、それが正しければ、「孝徳紀」以前に出されたものとしか考えられないこととなります。(もちろんこれを「八世紀以降」の「潤色」という考え方もあるとは思われますが)

 これについては、「前方後円墳」の築造停止という現象と関係していると考えられ、「七世紀半ば」というタイミングで出されたものでは考えにくいものです。
 この「薄葬令」の中身を正視すると、「前方後円墳」の築造停止に直接つながるものであると判断できます。
 この「詔」の中では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。(注三)「体系」の「注」でも「方形」であると明言しています。もっとも、この「方〜」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども当然含むものです。
 ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていたものです。

「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」

 この「方」で外寸を表す表現法は「円形」も含め、この「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションが考えられる表現であることは確かでしょう。
 ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、「倭人伝」の卑弥呼の墓の形容にあるように「径〜」という表現がされていないことからも明らかです。この表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないことから、「円墳」を主として想定したものではないことは明白です。
 しかしいずれにせよ、明らかに「前方後円墳」についての規定ではないことも分かります。
 この「薄葬礼」の規定に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなると思われます。「前方後円墳」は「縦横」のサイズが異なり、「方」で表現するのにはなじまない形です。
 このことから考えて、「墳墓」の形と大きさを規定した「薄葬礼」が出されたことと、「前方後円墳」が築造されなくなるという現象の間には「深い関係」があると思われます。
 
 さらに、この「薄葬令」が「七世紀半ば」に出されたとすると「矛盾」があると考えられるのが、この「薄葬令」の後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定です。

「凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。」

 そもそも、「殉葬」は「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたものと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは各地で確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
 このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かです。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには、「殉葬」がまだ行われていると云う現実が必要であるわけであり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は、「詔」の内容とは整合しないものです。

 このように推定した場合、実際に「詔」が出されたのは「前方後円墳」の「終焉」の二つの時期のうち、どちらの時期に対応するのかという問題があるでしょう。
 上の「殉葬」についての禁止規定から考えると、「六世紀後半」の「西日本」における終焉に対応しているようにも見えますが、他方、その内容の一部についてはそれと矛盾することも書かれています。
 例えば「殯」の期間について見てみると、「隋書倭国伝」には「貴人については三年間」と書かれていますが、「薄葬令」では「殯」自体が禁止されています。さらに「古墳造営」に必要な労働力である「役(えだち)」についても「五十人」の定数倍の人数が書かれており、これはこの時点で「一里五十戸制」である事が想定されますが、同じく「隋書倭国伝」では「一里八十戸制」と理解されることが書かれており、食い違っています。
 これらの「五十戸制」を示す記述や「殯の期間」に関する記述は「七世紀以降」の時点の事実と考えられるのに対して「殉葬規定」は「六世紀代」がふさわしい事を示しています。
 つまり「矛盾」を含んだ内容となっているわけですが、これは、この「詔」が「時期」の異なる「二回」の「詔」を含んだ(まとめた)内容となっていることを示すと考えられ、「七世紀」の東国に対する規定が書かれている中に、「六世紀後半」の文章が遺存していると見る事ができると思われます。
 
 この「薄葬礼」は中国に前例があり、最初に出したのは「魏」の「文帝」(曹丕)です。倭国でもこれを踏まえた上で出したものと考えられます。
 このような「令」を出した背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようですが、「前方後円墳」に付随の「祭祀」を禁止するためという目的もあったと考えるべきでしょう。
 というのは、この「前方後円墳」で行なわれていた祭祀の内容については「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられており、このようなものを「忌避」しようとしたとも考えられます。それはこのような祭祀が仏教的観念からは遠く離れたものであり、それが仏教布教を推進するのに障害となると考えられたことと、「王」の交代というものが「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することを恐れたということもあり得ます。
 この時「倭国王」は「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されるからです。そのことは「冠位」の制定と関係していると考えることができます。
 『書紀』によれば「冠位」の制定は「六〇四年」とされています。しかし「隋書倭国伝」には「六〇〇年」に訪れた「遣隋使」からの情報として「隋代」開始時点付近の「冠位制定」が記されています。
(以下隋書倭国伝の一節)

「開皇二十年(六〇〇年)…上令所司訪其風俗。使者言…頭亦無冠 但垂髮於兩耳上。 至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾。…」

 これによれば、「六〇〇年」に派遣された「遣隋使」が述べた「風俗」の中に「冠位制」について記されており、そこでは「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠位制」が施行されたことを意味していると考えられます。
 それはすなわち「諸国」の王達も「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められたことになったものとなるわけであり、「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を構築しようとしていたと考えられるものです。
 そうであれば「王」の交代というものに「倭国王」が介在しない形の「祭祀」が存在するのは問題であったかも知れず、これを避けようとするのは当然かも知れません。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
 そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」の重要な要素であると言う事と、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止されたことに付随する現象であると考えられるものです。

 以上のことから「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階にわたり、「薄葬令」が出されたと考えて「事実」をよく説明できるものと思われ、これは『書紀』に書かれた年代から「後期薄葬令」までと考えると「約三十年」の記事移動の可能性が高いと言えるでしょう。

 また、古田史学会報七十四号(二〇〇六年六月六日)で「竹村順広」氏が「放棄石造物と九州王朝」という題で触れられた「益田岩船」(奈良県橿原市白橿町)や「石宝殿」(兵庫県高砂市竜山)などの「巨大建造物」は、明らかに「工事途中」の「古墳」の一部であり(外形はどのようなものになる予定であったかは不明ですが)、これは「竹村説」とは異なり、「六世紀終末」という時点で「薄葬令」が出されたことにより、その工事が途中で「放棄」されたものであると見る事ができるでしょう。
 この「古墳」が(竹村氏も引用するように)『播磨国風土記』の中で「聖徳王御世、弓削大連所造之石也。」とされているように「聖徳王」つまり「阿毎多利思北孤」(ないしはその太子「利歌彌多仏利」)の時代のこととされ、また「物部守屋」と関連して語られていることなどからも、この「石造物」が「六世紀末」のものであることを強く示唆しています。


「結語」
「前方後円墳」の築造停止には「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階あり、各々についてのその「停止」に関する「詔」が出されたと考えられること。
「孝徳紀」の「薄葬令」の内容分析から、これが「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。その内容から「二回分」の「詔」を含んでいると考えられること。

 以上を考察しました。


(補足)
 『書紀』によると「薄葬令」は「改新の詔」と同じタイミング(直後)で出されたものであり、「改新の詔」の「直前」に出された「東国国司詔」などと「一連」「一体」になっているものですから、上の考察により、「改新の詔」を含む全体がもっと早期に出されたものと考える余地が出てきますが、その詳細については機会を頂ければ詳述したいと思います。

(注)
一.阿部周一『「国県制」と「六十六国分国」(上)(下)』古田史学会報一〇八号及び一〇九号
二.中村幸雄氏などが「持統」の墓が「薄葬」の規定に則っていると指摘しています。(『新「大化改新」論争の提唱 −日本書紀の造作について』中村幸雄論集所収)
三.「外域」とは「墓域」全体を指すものか「墳墓」自体の外寸なのかやや意見が分かれるようですが、上では「墳墓」の外寸として受け取って理解しています。但しいずれでも論旨には変更ありません。