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「改新の詔」の時期について −「庚寅年」の改革とは


「改新の詔」の時期について −「庚寅年」の改革とは(未採用論文。投稿日付は二〇一二年七月二十五日。)

 以下は「改新の詔」について、その「真」の時期について考察するものです。

一.「改新の詔」の時期について
 『書紀』の「孝徳紀」に「改新の詔」が出されたことが記されています。

「大化二年(六四六年)春正月甲子朔。(中略)其三曰。初造戸籍。計帳。班田收授之法。凡五十戸爲里。毎里置長一人。掌按検戸口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅歩。廣十二歩爲段。爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。」

 ここでは「初造戸籍。計帳。班田收授之法」とされています。確かに「正倉院文書」中の「西海道戸籍」(「大宝二年戸籍」)の解析からは「庚寅年」(六九〇年)以降「六年一造」で戸籍が造られ始めたことが確認されており、また、それはそれ以前に遡るものではないと言う事もほぼ明らかになっています。(注一)
 つまり「六年一造」という形式においては、「庚寅年」という年次で「戸籍」が「初めて」造られたのというのは確実なわけですが、それはまた「詔」で触れられているように「班田収受法」(と「公地公民制」)の施行と深く関係しています。これらに付いては「戸籍」と「暦」が整備されていることが「必須」の前提となるからです。
 その「戸籍」(庚寅年籍)と共に「暦」(元嘉暦)の使用開始も「六九〇年」付近であることが明白となっています。
 「二〇〇三年二月」に石神遺跡より出土した「具注歴木簡」の解析により、そこには「持統三年」(六八九年)の「元嘉暦」が書かれている事が確認されており、これが現在確認できる最古の暦とされています。
 また、「持統紀」には以下のような「班田大夫記事」があります。

「持統六年」(六九二年)「九月癸巳朔辛丑。遣班田大夫等於四畿内。」

 これに加え「二中歴」の「朱鳥」の細注に「仟陌町収始又方始」とあることからも、「持統朝」において「班田支給」が開始されているように見えます。
 これらの事は、いわゆる「改新の詔」が実際には「庚寅年」という「持統朝」期で出されたのではないか、という考えに強く傾くものです。

 また、「常陸」にある「香島神宮」の「神戸」の戸数の変遷にも「庚寅年」の改革に関連していると考えられる記載があるのが確認されています。
 「常陸国風土記」(香島郡の条)に以下の記述があります。

 「…大中臣神聞勝命 答曰 大八島国 汝所知食国止 事向賜之 香島国坐 天津大御神乃挙教事者 天皇 聞諸 即恐驚 奉納前件幣帛於神宮也 神戸六十五烟 本八戸 難波天皇之世加奉五十戸 飛鳥浄見原大朝加奉九戸 合六十七戸 庚寅年編戸減二戸 令定六十五戸 淡海大津朝初遣使人造神之宮 自爾已来 修理不絶…」

 この「香島神宮」についての縁起由来を書いた中に「神戸」の戸数の変遷が書かれています。
 それによれば「本八戸」であったものが(注二)、「難波天皇の世」に「加奉五十戸」となり、その後「飛鳥浄見原大朝」に「加奉九戸」され、「庚寅年」に「編戸減二戸」となったと書かれています。そして(最終的に)「令定」として「六十五戸」となったとされています。
 ここで、「庚寅年」(六九〇年)に「編戸減二戸」とされていることに注目です。ここでは「朝廷名」も、何らかの「令」が定められたものなのかも一切書かれておらず、なぜこの年に「編戸」がなされたのかは説明もありません。
 しかし、ここで言う「編戸」が「庚寅年籍」の「造籍」を示すものであることは間違いないものと見られ、ここで「戸籍」の改訂がなされ、それに伴い「減戸」されたものと見られます。
 このような「編戸」(特に「減戸」という場合)が何らかの「令」なり「詔」等による「政治方針」の改定・変更を伴うものであることは当然であると考えられ、この「庚寅」という年次に何か「画期」となる出来事があった事を示唆するものと言えます。
 これを裏書きするように『播磨国風土記』には「餝磨郡小川里条」に「地名変更」に関する話が書かれてあり、それによれば「(志貴)嶋宮御宇天皇世」の時に定められた地名を「上(野)大夫為宰之時」という「庚寅年」に改名した、と書かれています。また同じく「播磨風土記」によれば、「餝磨郡少宅里条」にもそれまで「漢部里」であったものが「庚寅年」に「少宅里」に変えられたことが記されています。
 これらから分かるように「庚寅年」という時点で全国で大規模な「制度」等に対する見直しが進められていたものと考えられ、「里名」などが変更されたり、「編戸」されたりしていることは即座に「戸籍」の改定や「行政制度」の「改定」があったことを推定させるものです。
 また「木簡」から確認されることは、この段階まで「里」ではなく「五十戸」制であったらしいことです。多くの木簡から「庚寅年」以前には「里」制が確立されておらず、「五十戸」制であったことが確認されています(注三)。この事から「播磨風土記」の記載はそれまで「五十戸制」であったことを「隠蔽」していると考えられ、この「庚寅」という年次に、ただ「里名」が変更されたというものではなく、「五十戸」制であったものが「里」制に変更され、その際に「改称」されたという事を示すものではないかと推量されます。
 この事は「改新の詔」に書かれた「里制」がここで実施されたことを示すものであり「改新の詔」の「真の時期」が、「庚寅年」であることを証しているとも言えます。
 また、このように「庚寅年」に行われた変更(減戸)が『大宝令』にそのまま受け継がれているとされている事は、「続日本紀」に記された『大宝令』の新纂記事の中で「飛鳥浄御原令」を准正としたという記載があることと合致します。
 また同様のことは、「大宰府」から最近(二〇一二年六月)出土した「戸籍木簡」が如実に示しています。そこには「丁女」「兵士」「政(正)丁」「戸主」「老女」など一般に『大宝令』で定められたとされている「用語」が使用されているのが確認され、「七世紀末」と推定される段階で『大宝令』と同様の「戸令」「軍制」などが(少なくとも「筑紫」には)施行されていることが明らかになりました。 
 これらのことは「庚寅年」という年次(段階)において、「画期」となる「詔勅」の類が出されたことを示すと考えられ、「改新の詔」が出された「真の年次」は「庚寅年」(六九〇年)であると考えざるを得ないものです。
 そう考えると『書紀』に記載された「改新の詔」の年次である「大化二年」(六四六年)の記載年次とは「四十四年」離れていることとなります。

 しかし、これについては「改新の詔」の本来の年次は「九州年号」の「大化」の元年である「六九五年」であり、つまり『書紀』に書かれた年次とは「五十年」離れているという理解が(特に)「古田史学会」の中では優勢であるようです。
 それは「改新の詔」が出されたとされているのが「孝徳紀」の「大化」年間であり、それは「九州年号」「大化」との関連を示唆するものとされ、また「郡制」の切り替え時期、「藤原京」の完成時期との関連などからであると考えられます。(注四) これらのことから、「改新の詔」を「六九五年」という理解には「一理」あるとは言えるかもしれませんが、それは「九州年号論」に重点が掛かりすぎて、実際の出土資料などに目が正確に向けられていないのではないかと思料されるものです。つまり、このような理解では先に挙げた「暦」「戸籍」「班田」などの実施時期としての記録や「出土」した遺跡史料を「説明」できないと思われるのです。
 たとえば「古賀氏」によれば「改新の詔」にある「造籍」記事は「六九六年」の「庚寅年籍」から「二回目」の造籍記事と判断されているようですが、(注五)それまで「六年一造」ではなかった戸籍が「六年一造」となるのは「庚寅年籍」が最初なのであり、この「造籍」の段階が「画期的」なものであって、「倭国王権」にとっては「重大」な方針の変更が為された時期であるのは「明白」であると考えられますが、この時の「造籍」が「改新の詔」の中のものではなく、「その次の」「造籍」というような判断に傾くとするとそれには「大いに」疑問を感じるものです。それは「六九五年」という年次に「倭国」−「近畿王権」の政権交代があったということを「前提」とした論理展開なのではないでしょうか。
 「庚寅年籍」の「次」の造籍(丙申造籍)が「画期」を成すものとする根拠としては、「藤原宮」完成という「イベント」を想定すると言うことなのでしょうが、この『書紀』の「藤原宮」完成記事は「不審」であり、「続日本紀」の「七〇四年の条」に書かれた記事とは矛盾しますし、「木簡データベース」に納められている「藤原宮」跡から出土した木簡の示す年次の一番古いものが「慶雲元年」(七〇四年)である(以下に示すもの)であるということとも矛盾すると言えます。

(参考)「続日本紀」
「慶雲元年(七〇四)十一月壬寅廿の条 壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。」

「藤原宮跡木簡」(奈文研木簡データベースより)
「皇太妃宮職解卿等給布廿端日下(中略)慶雲元年十」 (藤原宮跡東面大垣地区出土木簡)
「慶雲元年七月十一日 」(同上)

 つまり、これらによれば「藤原宮」の完成は一般に考えられているよりははるかに後代であり、「六九六年」という時点では「宮」の位置さえまだ決まっていなかった可能性が高くなったわけですから、ここで「改新の詔」が出されたとすると実態と大きく齟齬するものとなるものと思われます。
 また、「大化年号」については後述しますが、たとえば「評制」から「郡制」への切り替え時期の件でいうと「続日本紀」によると「諸国郡司」の任命に関する記事が出現するのが「六九八年」とされています。

「続日本紀」
「文武二年(六九八)二月己巳。詔。筑前國宗形。出雲國意宇二郡司。並聽連任三等已上親。
庚午。任諸國郡司。因詔諸國司等銓擬郡司。勿有偏黨。郡司居任。必須如法。自今以後不違越。」

 この「記事からは「諸国」以外(つまり「畿内」)への「郡司任命」はそれ以前に行われていたことを示唆するものですが、そのことだけでは「六九五年」というように「年次」を特定するものではありません。というより「郡制施行」が段階的であったことを示唆するものと考えられます。
 また先に見た「班田大夫記事」では、「範囲」として「四畿内」と指定されていますが、これが出されたのが「六九二年」であり、しかも「畿外諸国」はその対象ではないように見えます。
 これらのことは「改新の詔」で示された事はまず「畿内」に適用され、それから「畿外諸国」というように「二段階」で改定施行された事を示すと考えられます。その最初に「畿内」に関する改定が行われたのが「詔」が出されたその年以降至近の年であり、続いて「諸国」に対するものとして第二弾が出され(六九八年頃か)それが実施されたのが「七〇一年」であったのではないかと思料されるものです。

 また多くの論者が「乙巳の変」を「六九五年」に想定していることも、その年の「改新の詔」と連結させようとする動機となっているのかも知れません。しかし、そうは考えられないと思われます。それについては「斎藤里喜代氏」が述べられたように(注六)「三韓」「十二門」「乙巳功田」のいずれも説明の付かないものです。これに対し各氏が反論されていますが、(注七)以下の点が変わらず疑問と思われます。(もっとも「斎藤氏」は「改新の詔」と「乙巳の変」は切り離してお考えのようですが(注八))
 つまり、「六九五年」には「三韓」はすでに存在しないわけですし、「潤色」であると言おうとしても『書紀』の「潤色」は基本として「八世紀」段階に存在する事物で代替するのであり、その「八世紀」には「三韓」がなかったことは明白ですから、これを「潤色」とするわけには行かないものです。「八世紀」段階でもなかったものをあったように「書き換え」たとするにはそれなりの証明が別途必要と考えられます。また、上に見たように「藤原宮」完成がもっと遅かったとするとこの「六九五年」段階では「十二門」が(実際には)なかったという可能性も出て来ます。(これが「六四五年」段階であったとすると「十二門」は他の多数の例と同様「八世紀」時点における「潤色」と見なさざるを得ないと思われますが、これならあり得るわけです)
 更に「乙巳功田」の件でも「乙巳」という「干支」が書き換えられた可能性を考えられているようですが、それもまた「別途証明」が必要な事項と思われますし、この時(「天平宝字元年」(七五七年)の「太政官」の言葉)に同時に触れられている「壬申の乱」「古人大兄皇子の乱」などについての「功田」については「書き換えではない」とすると「恣意的」ではないのか、説明が必要となると思われます。
 つまり、「乙巳」が「六四五年」であった場合、時間の経過が長すぎて、その功田についてこの時点で太政官が「奏する」意義がないとすると、それは同じ「太政官」の「奏」の「文章」中に現れる「壬申の乱」「古人大兄皇子の乱」の功田についても同様に言えることであり、「乙巳」だけが「干支」を変えられて記載されていると推測する根拠がないこととなります。
 これらのことは「乙巳の変」が「六九五年」である、という積極的理由にはならないと考えられます。

 以上から、「改新の詔」はその本来の位置から移動して書かれていると判断できますが、それは「五十年」の移動ではなく「四十四年」ではないかと強く疑われるものです。


二.『書紀』の「四十四年」記事移動
 「持統紀」の「庚寅年」(六九〇年)に「改新の詔」が出されたものと考えられることを推定したわけですが、それ以外の「皇極紀」付近の記事を子細に見ると、「皇極紀」と「持統紀」とで「四十四年」離れて対応していると考えられる記事が他にも確認される事が解ります。
 この記事移動の「起点」は「朱鳥元年」(六八六年)記事と考えられ、この記事を「皇極天皇即位元年」(六四二年)に移動させたと疑われるものです。そのような「四十四年差」を持って対応する記事をいくつか確認してみます。

(1)「皇極元年」(六四二年)に「宮殿造営」の詔が出されています。

「(皇極)元年(六四二年)九月癸丑朔(中略)辛未。天皇詔大臣曰。起是月限十二月以來。欲營宮室。可於國國取殿屋材。然東限遠江。西限安藝。發造宮丁。」

 これについては「体系」の注によれば「飛鳥板蓋宮の造営のこと」とされています。しかし、この造営のために徴発するとされる「人夫」等の招集の範囲の広さと(つまり、想定される宮殿の規模がかなり大きいと考えられることと)、発掘されている「飛鳥板蓋宮」の規模が食い違っているのが問題とされているようです。
 発掘された「宮殿」の規模ならば、九月から十二月までで完成することもあり得るかもしれませんが、それでは「徴発」する対象範囲の広さと「齟齬」していると考える「論」もなされています。(注九)
 この「詔」がもし「四十四年」移動させられているとすると「朱鳥元年」である「六八六年」記事として「復元」できます。
 この年の正月に「難波宮殿」は火災により「焼亡」したとされていますから、「新宮殿」造営を考えたとするのは大変自然な事となります。
 また、「詔」の中では「十二月」という時期を区切っていますが、これは「大嘗祭」のための「大嘗宮」であったと考えられます。それを示すように、この記事の直後に「新嘗祭」実施の記事があります。つまり「宮丁」の徴集範囲が広いのは「大嘗祭」に参加する人数と範囲を大量且つ広範囲にするためであり、「難波副都」を造るなど「近畿」にその統治の重心を移していた当時の「倭国王」として、周辺の国々に「倭国王」の統治を認識させ、従わせることを意識したためのものであり、「権威」の発揚に利用しようとしたものと考えられます。

(2)そして、この記事の直後に「新嘗祭」実施の記事があります。

(皇極)元年(六四二年)十一月壬子朔(中略)丁卯。天皇御新甞。是曰。皇太子。大臣各自新甞。

 これについては「体系」の注によると「大嘗祭」ではないかという指摘がされているようです。それは実施の日程が『大宝令』中の「神祇令」による「大嘗祭」についてのものと全く同じだからであるとされています。(仲冬中卯の日)
 そして、この記事を「四十四年」移動させると前述したように「宮殿」造営の「詔」を出した年と同じ年の出来事であり、「六八六年」の「天武」死去後「即位」し、その年の「大嘗祭」実施となった、と考えると良く合致します。
 この記事移動の際には「日付干支」については保存されておらず、その年次の中で整合するように書き換えていると考えられます。つまり「六八六年十一月」に原位置を復元すると「丁卯」という日付干支は十一月にはなく翌十二月の事となってしまい「大嘗祭」の日程としては「不適」であると考えられたのでしょう。そのため「中卯の日」の日付干支が新たに選ばれて書かれてあると考えられるものです。以下においてもこれは同様ではないでしょうか。

(3)「天武紀」の(六八六年)「難波宮殿火災」記事を見るとその日付は以下のように書かれています。

朱鳥元年春正月壬寅朔(中略)乙卯。酉時。難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰。阿斗連藥家失火之。引及宮室。唯兵庫職不焚焉。

 これによれば「火災」は「一月十四日」の出来事のようです。
 それに対し「四十四年」記事移動させられていると考えられる「皇極」の即位は以下のように書かれています。

「六四二年」元年春正月丁巳朔辛未。皇后即天皇位。

 この「即位」の日付は「一月十五日」となり、これは上で見た「火災記事」の翌日のこととなります。(ここに書かれた日付干支は上で見たように「新たに選ばれた」日付干支であると見るべきであり、本来は朱鳥元年記事の日付である「乙卯」の次の「干支」の「丙辰」が書かれていたと考えられますが、「六四二年一月」には「丙辰」がないため、「一月十五日」を表す「辛未」が書かれたものと見られます)
 ここでは「火災記事」に引き続いて「即位記事」があると言うこととなるわけですから、「火災」による「倭国王」の死というものについて考慮する必要が出てきます。
 そもそも『書紀』の「難波宮殿火災」記事を良く見るとこの当時の「国家」の「中枢機能」がこの段階で「難波宮殿」に集まっていたことが分かります。
 この難波宮殿の火災記事によれば「大蔵省」「兵庫職」という官職(職名)が書かれています。一般的にはこの当時は「難波宮殿」は使用されておらず、「飛鳥宮殿」にいたことになっています。しかし、この記事のように「大蔵省」があり「兵庫職」があるなど、実際には「難波宮殿」が「政府機関」として機能していたのではないかと考えるのが相当です。
 また、「阿斗連藥家失火。之引、及宮室。」と書かれていることから、「宮殿」付近に「官人」の住居があったことを示していると考えられます。このことは「飛鳥宮殿」の「近辺」には官人がいなかったのではないかと考えられる事と対象的です。つまり、飛鳥宮殿付近には「各豪族」に対する土地の付与がなかったものと考えられ、また「宮殿」の「至近」に有力豪族や官人などの住まいがあったようにも見えません。
 さらに「飛鳥宮殿」には「条坊制」が布かれた形跡はなく、「飛鳥宮殿」の「政府中枢機関」としての機能は「限定的」であったことが読み取れます。
 しかし、「難波宮殿」や後の「藤原京」は「統合」された政府機関であり、その中に「国家」の中枢としての全ての機能が集まっていました。このような「宮殿」とそれを取り巻く周辺施設がありながら、あえてそれを使用せず、「飛鳥」にとどまる理由が従来は正確に説明できていません。
 つまり、この段階では「国家」の中枢が「難波」にあり、またそれは実際に「機能」していたと見るのが相当と考えられ、そのことは「倭国王」がこの時(火災時)「難波宮殿」の中にいたことを推察させます。
 『書紀』によれば「六八六年正月」の「難波宮殿」火災記事以降『書紀』には「天武」の「死」を予期させるような記事ばかりが並び、結局その年の十月に死去した、ということとなっています。

「朱鳥元年」(六八六年)正月己未(十八日)朝庭大餔。是日御御窟殿前而倡優等賜禄有差。亦歌人等賜袍袴。

 この記事は「火災記事」の直後の記事ですが、すでに「御窟殿」という「正体不明」の場所名が書かれています。ここで使用されている「窟」という文字は「岩屋」や「洞穴」の類に使用される文字であり、「殯宮」(死んだ後の「喪がり」を行う場所)を連想させるものです。また「倡優」や「歌人」がその前で、「演技」(所作)を行ったり「歌」を歌ったりしていますが、これは「葬送儀礼」を連想させます。
 『大宝令』の「解釈集」である「令集解」には「遊部」という項目があり、それによれば「隔幽顕境。鎮凶癘魂之氏也」とされ、天皇の崩御の際に「魂」が「凶癘」に伴う「喪がり」に奉仕することであり、「鎮魂歌舞」つまり「歌」や「舞」を「喪がり」の場で行うのが職掌でした。

「太政大臣。方相轜車各一具。皷(鼓)一百?面。大角七十口。小角一百?口。幡五百竿。金鉦鐃鼓各四面。楯九枚。発喪五日。以外葬具及遊部。
謂。葬具者。帷帳之属也。遊部者。終身勿事。故云遊部也。釈云。以外葬具。帷帳之属皆是。遊部。隔幽顕境。鎮凶癘魂之氏也。終身勿事。故云遊部。古記云。遊部者。在大倭国高市郡。生目天皇之苗裔也。所以負遊部者。生目天皇之?。円目王娶伊賀比自支和気之女為妻也。凡天皇崩時者。比自支和気等到殯所。而供奉其事。仍取其氏二人。名称祢義余比也。祢義者。負刀并持戈。余比者。持須(酒)食并負力(刀)。並入内供奉也。唯祢義等申辞者。輙不使知人也。後及於長谷天皇崩時。而依〓(手篇に蔡)比自支和気。七日七夜不奉御食。依此阿良備多麻比岐。尓時諸国求其氏人。或人曰。円目王娶比自岐和気為妻。是王可問云。仍召問。答云。然也。召其妻問。答云。我氏死絶。妾一人在耳。即指負其事。女申云。女者不便負兵供奉。仍以其事移其夫円目王。即其夫代其妻而供奉其事。依此和平給也。尓時詔自今日以後。手足毛成八束毛遊詔也。故名遊部君是也。但此条遊部。謂野中古市人歌垣之類是。古記云。注。以外葬具。謂上条注云。殯斂之事是。一云。葬具。謂相従威儀細少之物。衣垣火炉等之類是也。問。遊部何人。答云。見釈。穴云。遊部並従別式。謂給不之状。遊部。謂令釈云。隔幽顕境。鎮凶癘魂之氏。謂佰姓之中有人。鎮凶癘魂。是人云氏也。事細在古和記(古私記)也。又其人好為鎮凶癘故。終身无事。免課役。任意遊行。故云遊部。終身課役无差科。故謂之終身勿事。」(『令集解』喪葬令太政大臣条)

 これらの記述から考えて、この時「御窟殿」の前で行われた「倡優」による「演技」や「歌」は「遊部」によるものと考えられ、「天武」(というより当時の「倭国王」)がこの段階ですでに死去していることを意味していると考えられます。
 つまり、彼は「難波宮殿火災」により死去し、その「翌日」に皇后が「即位」し、その年の「十一月」の「中卯」の日に「大嘗祭」を行ったことと考えると、流れとして非常に整合的となると思われます。またこの事は「朱鳥元年」が本来の「持統元年」であることをも意味すると考えられます。
 これに関しては『万葉集』に以下のように「朱鳥四年」の年次が付された歌があり、それが「庚寅年」のこととされています。

(万葉集三十四番歌)
紀伊の国に幸しし時に川島皇子の作りませる御歌 或は伝はく、山上臣憶良の作

白波の浜松が枝の手向草幾代までにか年の経ぬらむ(一は伝はく、年は経にけむ)(白浪乃 濱松之枝乃 手向草 幾代左右二賀 年乃經去良武 [一云 年者經尓計武])

 日本紀に曰く「朱鳥四年庚寅の秋九月、天皇紀伊国ら幸す」といへり。

 このことは『万葉集』が編纂された当時において、「朱鳥元年」が「持統元年」であるという記憶ないしは伝承が遺存していたことを示すものです。ただし「朱鳥元年」が「持統元年」に等しいのかその逆かで話は少々変わります。つまり「六八六年」が「朱鳥元年」であり「持統元年」であったはずですが、『書紀』の記載により「持統元年」の紀年の方が優先してしまい、「朱鳥元年」が引きずられて移動し「六八七年」のこととなった「改定『朱鳥』」があったこととなります。
 これが『万葉集』に記載されているのではないかと思料します。実際には「朱鳥」という年号はその元年が「六八六年」であるのは「古賀氏」が研究されたように「徳政令」の発布とリンクしたものであり、(注十)「借金証文」に「干支」も書いてあったと考えると「朱鳥元年」は「六八六年」(丙戌年)で固定されるべきものであったと考えられ、動かすことはできなかったと思われます。

(4)「持統紀」の「大嘗祭」は『書紀』では「六九一年」のこととして書かれており、これが事実ならば「即位」から二年近く経ってからのこととなり、「神祇令」には合致していませんし、はなはだ「不自然」です。このことから、この「大嘗祭」の年次は以前から「不審」とされていました。
 しかし、「洞田一典氏」の研究の成果によれば、本来「六九〇年十一月」に行なわれたものであったと推定されることが「復元」されています。(注十一)つまり「大嘗祭」実施と共に「暦」の改定(「周正」へ変更)を行ない、「十一月」を「歳首」(年の初め、つまり「一月」)と変更したため、結果的に「大嘗祭」は一月に行なわれたこととなったと推測されます。そして、そのような原資料の状況を、「八世紀」の『書紀』編纂者が「不審」として「翌年の」「六九一年十一月」と「誤って」表記されたと考えられます。つまり彼は「大嘗祭」は「仲冬中卯の日」に行なわれたはずであるという「観念的解釈」に縛られた結果「一月」のはずがないと考え、一年繰り延べた記事を作成したと考えられるのです。(またこの時の「歳首」変更は、「唐」の「武則天」が行なったものに倣ったものという推測もされています(注十二))
 そう考えると、「東国国司発遣の詔」(六四五年八月)と、その翌年(六四六年)三月に出された、この「国司」の勤務状況の報告(「朝集使」によるもの)とその賞罰に関する「詔」について、行われるはずだった「処罰」が「二つの理由」により、見送りとなっている点についても、納得できるものです。
 これらも「四十四年」移動して「復元」すると、各々「六八九年八月」と「六九〇年三月」のこととなり、挙げられている理由である「始處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。」や「又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。」というものについては、「その年の十一月」つまり「六九〇年十一月」に行なわれるはずであった「大嘗祭」の準備や人手が必要だから、という理由であり、農事があるにも関わらず人手を割かなければならない、という事情として理解しうるといえます。

(5)『書紀』では「皇極天皇四年」が「大化元年」とされています。この事は「二中歴」の「大化」の項の直後に書かれた「覧初要集皇極天皇四年為大化元年」という文章とも合致しています。ところで、この「二中歴」に書かれた上の文章は「大化」についての「補足情報」として書き加えられたものと推量されますが、そこで「覧初要集」という書物から引用していると言うことに「意味」があると思料されます。というのはこの文章は『書紀』と同じ内容ですから、別にわざわざ「『覧初要集』による」という必要がないものと考えられるのです。つまり、著者である「三善為康」はこの「二中歴」に書かれた情報の元資料となったもの(どのようなものかは不明です)を複数校合して書いていたと考えられ、そのうちの一つが「覧初要集」であったと思われます。そして、この「覧初要集」とそれ以外の資料の記載が異なっていたため、「二中歴」本文以外に追加として一言「覧初要集」からの引用を書き加えたと見るのが相当でしょう。
 このことは、ここで書かれた内容が『書紀』以外にも「皇極」と「大化」という組み合わせに信頼すべきものがあるということを示すものと推測され、逆に言うと「大化」という年号についての「二中歴」の年代歴に書かれた内容について「疑義」があることを著者自身が表明したものといえます。
 つまり「二中歴」に書かれた「大化」の「元年干支」である「乙未」(六九五年)については、「他の年次」の可能性もあると言う事を示すものであり、そう考えると、「皇極」と「持統」の間の「記事移動」とを関連させて考えることが可能です。
 上で見たように「皇極紀」が「四十四年記事移動」されていると考えると、この「大化」についても同様ではないかと思料され、「持統元年」が実は「朱鳥元年」を意味すると考えると、「持統四年」は「六八九年」となり「改新の詔」が出された「大化二年」は「六九〇年」つまり「庚寅年」のこととなって、上で試みた一連の「推論」と齟齬しない結果となります。つまり「本来」の「大化元年」は「朱鳥四年」つまり「六八九年」であったのではないでしょうか。
 
 繰り返しになりますが、「庚寅年」という「年次」に何の「詔」もなく、「令」も定められないのに「暦」が造られ、「戸籍」が造られ、「班田」が頒布されるなどのことがあったとは思われないわけですから、この「庚寅年」という年次に確たる何かがあったことは間違いないものと考えられ、それはその前年の「即位」「改元」から引き続く「改新の詔」であったと思われます。(注十三)


結語
一.「孝徳紀」に出されたとされている「改新の詔」が出された真の時期としては「庚寅年」(六九〇年)が相当であると考えられること。
二.「皇極紀」・「孝徳紀」の主要な記事は「四十四年」移動させられているものであり、本来「持統紀」の記事であると考えられること。

以上について述べました。


「注」について
一.岸俊男「十二支と古代人名−籍帳記載年齢考−」及び「造籍と大化改新詔」「日本古代籍帳の研究」所収 塙書房
二.これについては「隋書倭国伝」で「伊尼翼」の管轄している戸数が「八十」とされていることと関係している可能性がありそうです。つまり「里」の「十分の一」という下層基礎単位があったのではないかと推測され、後の「唐制」の「保」に相当するものではないかと推察されます。
三.「五十戸」から「里」への切り替え時期を示唆するものとしては、藤原宮跡出土木簡の中に「癸未年七月 三野大野評阿漏里」とある「癸未年」(六八三年)が一番早いものですが、飛鳥池遺跡出土の木簡には「丁亥年若狭小丹評木津マ五十戸」と、「丁亥年」(六八七年)でも「五十戸」の表記が引き続き使用されており、「一斉」に切り替わったと言うよりは各地で「暫時」切り替わっていったと考えられ、最終的に「五十戸」から「里」へと変更されるのは、「庚寅年」(六九〇年)以降と推定されています。
四.正木裕『「藤原宮」と大化の改新についてV なぜ「大化」は五〇年ずらされたのか』古田史学会報八十九号 二〇〇八年一二月及び古賀達也「大化二年新詔の考察」古田史学会報八十九号 などで「改新の詔」の「五十年」記事移動を言及されています。
五.古賀達也「古賀達也の洛中洛外日記第四三九話 −大化二年改新詔の造籍記事−」二〇一二年七月十二日
六.斉藤里喜代「入鹿殺しの乙巳の変は動かせない」古田史学会報一〇三号二〇一一年四月
七.西村秀己「乙巳の変は動かせる −斎藤里喜代さんにお答えする−」古田史学会報一〇四号二〇一一年六月及び水野孝夫「斎藤里喜代さんへの反論」一〇五号二〇一一年八月
八.斉藤里喜代「中大兄は何故入鹿を殺したか」古田史学会報一〇七号二〇一一年十二月
九.正木裕『「藤原宮」と大化の改新についてU 皇極紀における「造宮」記事』古田史学会報八十八号 二〇〇八年十月十五日
十.古賀達也「朱鳥改元の史料批判」古代に真実を求めて第四集二〇〇一年十月
十一.洞田一典「持統・文武の大嘗を疑う −『持統周正仮説』による検証」「『新・古代学』古田武彦とともに」 第五集 二〇〇一年 新泉社
十二.これに関しては「那須直韋提」の碑文に「永昌元年」という「唐の武則天」時代の年号が書かれていることと関係があると思料されます。この改元はその前年の「六八八年四月」に「唐」の「洛水」から「聖母臨人 永昌帝業」と書かれた「図」が出たことを記念したものです。(ただし、これは言ってみれば「詐欺」のようなものでしたが)
 そして、この「改元」に先だって前年(六八八年)五月に「内外」に「祝賀の儀」への参加の「招集」が「詔」として発せられました。その後同年十二月になって「招集」された内外諸官が「洛水」に集められ、「祝賀」の儀が行われています。(明けた六八九年「正月」に改元されたもの)

(以下『資治通鑑』による。)
「己酉,太后拜洛受圖,皇帝皇太子皆從,内外文武百官蠻夷各依方敍立,珍禽奇獸雜寶列於壇前,文物鹵簿之盛,唐興以來未之有也。」

 「内外文武百官蠻夷」という表現からは、「唐」国内だけではなく、周辺諸国にも「招集」がかかり、かなりの数の「祝賀使」が集められた様子が窺えます。この頃の「唐」の「勢威」はかなり強く、また「武則天」の性格から考えても、このような祝賀のセレモニーが「大々的」に行われたであろう事は想像できるものであり、「唐興以來未之有也。」つまり、唐が興って以来今までで見たことがないぐらいだ、というわけですから、想像を絶するものであったと思われます。
 このようなセレモニーに「海外諸国」に声が掛らないはずがないと考えられ、その年(六八八年)の五月に「招集使」が内外に派遣された際、「倭国」にも「使者」が来たのではないかと考えられます。そして「倭国」でもそれに対応するため急ぎ使者を派遣したのではないでしょうか。
 この時の使者は言ってみれば単なる「祝賀使」であり、「献上物」の持参と儀式への参列のみ行ったものと考えられます。このため、唐側資料には記載されていないのでしょう。(これは他の夷蛮諸国も同様ですが)そして、この時に「武則天」より「来年」「周正」へ変更するという「詔」が出されたのではないかと考えられます。このようなものは(特に海外諸国には)事前に通知すべきものであり、「諸外国」を含む多くの「来賓」が参列している中でそのような発表があったとしても不思議ではありません。帰国した「使者」からこれを聞いた「倭国王権」は「永昌」という年号を「公的文書」などに使用することし、(その故に「碑文」に「永昌元年」と彫られることとなったもの)翌年以降「周正」を取り入れた「暦」の使用を開始したものと思料しますが、詳細は別稿とします。
十三.この時の「即位」と「大嘗祭」については「持統」つまり「前倭国王」の「皇后」ではないことは、(3)に述べたことにより明らかであると思われますが、(既に朱鳥元年に即位しているため)では一体誰の即位であったのかと言う事を言う必要があると思われますが、それについては別稿で論を尽くしたいと思います。