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「筑紫都城」の変遷について


「筑紫都城」の変遷について(未採用論文。投稿日付は二〇一二年八月十四日。)

以下は「筑紫都城」の「変遷」を考察したものです。

一.「大宰府政庁遺跡」発掘の結果からの「都城」の変遷の推定について
 昭和四十三年から始められた「大宰府政庁」の発掘調査の結果によると、現在地上に見える礎石の下に同じような配置の礎石が確認され、さらにその下層に「掘立柱建物」の柱穴があり、「三期」に及ぶ遺構であることが明らかになっています。(注一)
 「通説」では、この「掘立柱建物」は「白村江の戦い」の「後」の建造であり、その上層の礎石建物は『大宝令』施行の「七〇二年」頃に建造されたものとされ、この建物はその後「九四一年」に起きた「藤原純友」の乱により焼失し、現在地上に見えている礎石は、その後再建された建物のものである、というのが「通説」でした。
 しかし、その後の発掘調査により、この「大宰府政庁遺跡」が「条坊」と「ずれている」事が判明しています。
 このことから、「条坊」と「政庁」が同時に造られたわけではないことが分かりますが、どちらが先かというのは「条坊」が先行するとされているようです。「条坊」構築後に「政庁」が作られたと考えられているわけですが、このことから「条坊」が作られた当初の「政庁」はこの場所にはなかったこととなり、元々の「宮域」は「都城」の「別の場所」(「中心部付近」)にあったことが推定されています。(注二)
 すると、この「最下層」建物の「柱穴」は当然「中心部付近」にあった「宮域」が「北辺」に移動した際に形成されたこととなるでしょう。つまり、「通説」に従ったとしても、「中心部」付近に「宮域」があった時点というのは、「白村江の戦い」の前(六五〇年代ないしはそれ以前)であると言う事とならざるを得ません。

 また、川端俊一郎氏の研究により(注三)「大宰府政庁遺跡」に残された柱穴間の寸法などから、その設計に際して「営造法式」(注四)が適用され、「南朝」の一尺(=24.5センチメートル)をそのまま「基準寸法」として採用しているものと考えられています。このように「南朝」に基準尺を求めていることから考えて、この「宮域」の設計が成されたのは「遣隋使」帰国以前のことではなかったかと考えられるものです。つまり、実際に「隋」の制度等を学ぶために多数の人間が送り込まれたのは「六〇七年」の遣唐使が最初であったと考えられますから、これ以前に既に設計が始められていたという可能性が高いのではないでしょうか。
 「六〇七年」に派遣された遣唐使が「日出ずる国」に始まる「国書」を携え、「天子の多元性」の主張を行なったわけであり、また、半島諸国が「隋」に「封じられた」中で「倭国」だけが「柵封」されなかったという経緯から考えても、この時点の「倭国王」が「隋」の権威を認めていなかった事は間違いないと思われ、それは自らの権威を高く考えたものであると同時にその根拠としての「南朝」の皇帝の権威を高く考える姿勢があったからではないかと考えられるものです。このことは国内で使用する「度量衡」においてもこの時点ではまだ「南朝」の制度によっていたと考えるべきと推量されます。
 その姿勢が変わったのは、派遣した「遣唐使」からの帰国報告を受けた後のことと思われます。倭国から派遣された「遣唐使」の一部はその年のうちに「倭国」の「遣唐使船」により帰国し、報告を行なったと考えられますが、その際に「隋」の実情についてその「国力」の高さなどを報告すると共に、翌年「隋使」が返答使として「来倭」の予定であることなどが伝えられたものと推量します。これ以降、倭国王は判断を改め、国内に「隋」の制度等を「模倣」したり、あるいはそのまま「導入」するような動きになっていったものと思料されるものです。
 そのようにまだ南朝の権威を重く考えていた時代に「大宰府政庁T期」(筑紫宮殿)は設計されたと考えられます。(その完成は「倭京」改元の年である「六一八年」付近であったと推定されます。)

 このように「七世紀初め」から「筑紫宮殿」は存在していたと考えられるわけですが、それが「都城」の中心部から北辺に移動することとなったことには「難波副都」建設ということが深く関わっていると考えられます。
 「筑紫」の周辺には「朝鮮式山城」というように呼ばれる「大野城」や「基肄城」などの「城郭」遺跡が確認されています。この「大野城」は「太宰府」の「前面」つまり、海側にあり、海上から上陸侵入してくる外敵の防御の一端を担っていたものと考えられています。これら「大野城」などの周辺施設は「通説」では「白村江の戦い」後に「修造」されたこととなっています。しかし、この「大野城」の遺跡から発掘された「柱」と考えられる木材は「年輪年代測定法」により「六四八年以降伐採」と鑑定されています。(注五)
 このことから、実際には「白村江の戦い」の「前」に「修造」されていた可能性が強く、そのことは「戦術的」に見ても、合理的であると考えられると同時に、「時期的」に見てこの時の「修造」は「難波副都」遷都と関連して行われた「一連」の作業であったものと考えられるものです。

 この時行われたと考えられる「難波副都」整備事業は、「対唐」「対新羅」という戦略的なことを考慮したものと考えられるものであり、そのことは「水際」である「筑紫」の防衛というもの必要性が当然のこととして発生するわけですから、そのために「筑紫」周辺の防衛線である「大野城」などの「修造」がおこなわれたと考えるべきでしょう。
 しかもこの「大野城」遺跡は「礎石造り」であったことが確認されています。仮に「通説」のようにこの時点で「大宰府政庁T期」が「新築」されたと考えると、同時に整備された「大野城」などが「礎石造り」であることと齟齬すると考えられます。「掘立柱建物」と「礎石建物」とは本来「時間差(時代差)」があって然るべき建築様式であり、その違いを説明できるのは、この時点の「筑紫宮殿」の「北辺」への「移動」はまさに「移動」であって、以前の「筑紫宮殿」を「移築」したものであると言う事です。以前の建物をそのまま使用するわけですから、「時代差」があって当然であり、一見すると「矛盾」と言えるような事態が出現することとなったものと考えられます。
 また、そう考えた場合、その時期としては「難波宮殿」完成直後という可能性が高いものと考えられます。それは「難波宮殿」が「都城」の「北辺」に位置する北朝形式であること、「掘立柱」に「板葺き」の建物であると推定されていることなど、遺跡から推定される事実が「筑紫宮殿」と共通であることから想定できることです。
 「筑紫宮殿」も「移動」(移築)の結果「北朝形式」となったこと、以前から「掘立柱」に「板葺き」であったと推定され、(規模は違いますが)この両宮殿の「近似性」から「難波宮殿」の完成時期と「筑紫宮殿」の移築時期が「近接」していると考えられるものです。
 また、共にこの時点で「正方位」を取っていることもその推測を補強します。つまり、建設するあるいは移築する際に、建物の方向を「南北方向」(「磁極」ではなく「地軸」の方向)に「正確に」向けているようであり、これは(「磁石」によらず)太陽の運行から地球の自転軸を観察、測定し、それにより方向を定めたものと推察され、そのような「測量技術」というベースとなる技術が「筑紫」と「難波」で共通であるということからも、これらの事業が同一権力者により行なわれたことが推定されるものです。(「筑紫宮殿」の場合は「真の北極」に対して「一度」以内の誤差となっているようであり、高い精度で「正方位」が実現しています。)

 従来の見解のように「筑紫都城」の再整備により「宮域」が「北辺」に移動したのが「白村江の戦い」の後であったとすると「難波宮殿」完成から二十年以上経過していることとなり、年月が「空きすぎている」ように感じられます。この時点になるまで「筑紫都城」整備が実施されずにいて、この時点になってから(ある意味突然として)「宮域」を「北辺」に移動したとすると、それらを「整合的」に説明できる理由や動機などにどのようなものがあるかはなはだ「疑問」です。 そもそも「副都」の方が「新形式」(北朝形式)を採用したにも関わらず、「首都」が「旧形式」のまま「長年月」放置されていたこととなってしまいますから、その点でもそのような想定が成立しにくいものと考えられます。
 「難波副都」建設以下それに続く事業についてはかなり計画性の高いものであり、そう考えると「難波副都整備」と「筑紫首都整備」が「一連」で「一括」のものとして行われたものと理解するべきと思われます。

 この「難波副都」整備という事業は「本来」「筑紫都城」の「防衛力」の強化が先行して考えられたものと思料され、その整備を実施するためにはその間の「居所」である「仮宮」を別の場所に作る必要があるわけであり、そのような事も含め「副都制」を取ることとしたものではないかと推察されるものです。
 また、「筑紫宮殿」が「都城」の北辺に移動したのは「北辺」に「天子」が位置すべきと言う「理論」に基づくものという面もありますが、「山」を背にするという防衛上有利と考えられる点を考慮して採用したものとも推察され、その「山」(四王寺山)に「大野城」という防備施設が作られているわけですから、これはそれらが「同時期」に「一体」として整備されたと考えるべきと推察されます。
 「難波宮殿」も「上町台地上」の最高高さ地点付近に都城を含め構築されたと考えられ、これも「防衛上」有利と考えられる位置取りであったと推察されるものです。

 またこの「難波宮」造営に使用されている「尺」としては「唐尺」(=29.2センチメートル)が使用されていると「解釈」されています。
 この「尺」は「回廊」部分の遺構から算出(逆算)したものですが、いわゆる「唐尺」の「一尺=29.6センチメートル」とは異なっているようであり、やや短いようです。しかも、この時点では「唐尺」が使用されていたかは微妙であるともいえます。それは「七世紀中葉」という年次ではまだ、「唐制」が導入されていないものと考えられるからです。
 「町段歩制」や「五尺一歩制」は「唐」の制度に関連していると考えられることから、「遣唐使」により持ち帰られた知識であろうと推量されるものであり、さらにまた『大宝令』(及びそれ以前の「飛鳥浄御原令」)の準拠法令が「六五一年」制定とされる『永徽律令』や「六五三年」に追加、編集された「永徽律疏」と考えられることと併せ、可能性としては「白雉年間」(「白雉三年」と「白雉四年」)の「遣唐使」ないしは「斉明朝」末期の「伊吉博徳」が加わっていた「遣唐使」が持ち帰ったものの中にこれらの「度量衡」に関する知識があったと考えられます。そうであれば、それらに「先行する」と考えられる「難波宮殿」の建築については、「唐尺」が用いられたと考えるより、「大宰府政庁」や「観世音寺」などと同様「南朝尺」が基準尺として使用されていたのではないかと思料されるものです。

 「大宰府政庁」や「観世音寺」などの「建物」の建設された時期を「難波宮殿」と比較すると、上で見たように「大宰府政庁第T期」(筑紫宮殿)は明らかにそれに先行するものであり、また「観世音寺」は「難波宮殿」に「やや遅れる」と推定され、これらについての基準尺が「南朝尺」であるならば、「難波宮殿」においても「営造法式」が適用され、「南朝」の「一尺」が基準寸法として採用されているという可能性が高いものと考えられます。
 この「前期難波宮」が「九州倭国王朝」の副都であったとすると、その建設の主導的役割も「筑紫」の官僚が主体となって行ったものと考えられ、そうであれば使用された「基準尺」が、首都である「筑紫宮殿」に使用されたものと同様ではないとすると、少なからず不審であり、そうであれば「遺跡」の「回廊」部分から求めたとされる「29.2センチメートル」は「唐尺」ではなく、「南朝尺」である「24.5センチメートル」の「1.2倍」の数字なのではないかと考えられるものです。
 これを「難波宮」の各部の寸法で確認してみると、たとえば、「朱雀門」から「内裏後殿」の背面までの「難波宮の縦方向最大値」で「唐尺」だと「一七五〇尺」ですが、「南朝尺」だと「二一〇〇尺」となります。(以下いずれも尺数としては「概数」です)
 また同様に「最大幅」である「回廊」間距離は「芯々」で「唐尺」では「八〇〇尺」ですが、「南朝尺」では「九六〇尺」となります。
 基本設計としてはその「最大値」としての「幅」と「大きさ」を決める必要があり、敷地の大きさとも言うべき「帯方向」と「横方向」についてはより「完数値」が得られるものと思料され、「南朝尺」であると考える方が整合的であると思料します。
 また、「八角殿院」の一辺は「36.8メートル」ありますが、これは「唐尺」では「一二六尺」となるのに対して南朝尺で「一五〇尺」となります。また「内裏前殿区画」は東西114.6メートルであり、これは「唐尺」では「三九二尺」ですが、「南朝尺」では「四七〇尺」となります。さらに、「八角殿院」の最外周の柱位置は「唐尺」だと回廊から「二十五尺」の位置ですが、「南朝尺」であれば「三十尺」となります。
 これらの数字から考えて、「南朝尺」により「難波宮殿」が作られている「蓋然性」が高いのではないでしょうか。


二.「瓦」編年について
 その後この「筑紫宮殿」が「礎石造り」となり「老司U式」「鴻廬館式」という「瓦」が使用され「瓦葺き屋根」となります。また、これ以前に「観世音寺」が創建され、「老司T式」で屋根が葺かれる事となりました。
 従来の「瓦編年」で言うと「老司式」などは「藤原宮」の瓦より「遅れる」とされていましたが、近年「老司式」瓦をもっと遡らせる研究が増えてきたようです。
 この「藤原宮」瓦と「老司式」瓦では、「通説」では「藤原宮」から「大宰府政庁」へという流れでしか論じられていません。影響元は「藤原宮」瓦であり、それが「老司式」に影響していると考えるわけです。
 しかし、最近の研究では「老司T式」「U式」とも「藤原宮」に先行するものという考え方も出てきており(注六)、少なくとも「藤原宮」と「大宰府政庁」がほぼ同時に造られたとする「研究」も現れてきています。

 この「老司式」、「鴻臚館式」という瓦は「複弁蓮華紋」を基本として共通しているものです。
 この「複弁蓮華紋」という様式は「七世紀」第二四半期に初めて「近畿」で確認されるものであり、この時期を「下限」として考えられています。(つまり時代としてはそれより遡らないと言うことです)
 しかし、このように認定する理由は、この「複弁」様式が「近畿」でそれまで見られない、という一点なのです。
 つまり、「近畿」にないものは「新しい」ものであるという、「テーゼ」とも言うべきものに支配された論理なのです。しかし、そのような「論理」に正当性はありません。 
 実際には、この「複弁蓮華紋」は「漢代」以降、中国北半部で多く使用されたものであり、それはそのまま「北魏」から「隋」へと受け継がれていきます。(「北魏」の「平城京」からは多くの「複弁蓮華文」式の瓦が出土しています。)(注七)
 これに対し「単弁蓮華紋」の系統は「中国」南半部で多く見られ、「南朝系統」とも考えられます。「半島」では基本的に「南朝」系統が優勢であり、「単弁蓮華紋」が全盛となります。
 『書紀』に「百済」から「瓦博士」を招いたという記事が「推古紀」にあり、そのことは「飛鳥寺」「四天王寺」「若草伽藍」などが「百済」形式の「瓦」を(しかも「同笵瓦」として)使用していることでも判ります。
 (これら「四天王寺式」と言われる各寺院に共通している、南に「堂」、北に「塔」という直線的配置は「高句麗」の系統を引く様式と考えられていますが、「高句麗」の瓦も「単弁」が優越しており、「南朝」的と考えられています。)
 これに対し「複弁蓮華紋」が「近畿」に現れるのは上に見たように「七世紀前半」と考えられるわけであり、このことから、従来の理解では「倭国内」では「単弁蓮華紋」が先行し「複弁蓮華紋」が遅れる、と考えられていたわけです。
 しかし、上で見たように「単弁」系瓦と「複弁」系瓦はその出自が違います。「単弁」が「複弁」に変化するというわけではありません。この系統は「単に」「弁」の形状が異なるだけではなく、寸法、重量、厚み、焼く方法など全てが異なっており、全く別の「技術」とその「技術」を携えた「人間」(技術者)の存在を考えなければなりません。
 「七世紀」第二四半期にそれらの存在が「近畿」に現れる理由については、従来は「遣隋使」という存在を想定しているわけです。彼らがそれら「瓦」に関する知識と技術を「最初」に「近畿」へもたらしたというわけですが、しかしそう考えるには「矛盾」となる事実があります。

 「近畿」への「単弁蓮華紋」の伝来は『書紀』の記事と「発掘の状況」が合致しているわけであり、このことから「六世紀」の終末付近の時期が想定されるものですが、「九州」の「複弁蓮華紋」瓦に関しては『書紀』にはその時期が示されていません。
 しかし、他の史料を見ると、たとえば「隋書倭国伝」では「俗」(一般民衆)として「如意宝珠」に対する信仰が描かれています。
 「隋書倭国伝」の記事は「六〇〇年」に「隋」を訪れた「遣隋使」が、「皇帝」からの「倭国」の「風俗」に対する問いに対して使者が「返答」をしたものを書いてあると考えられる部分に存在するものですから、「遣隋使」がもたらした知識に拠っているというわけではありません。このことは、すでにそれ以前に「倭国内」には「如意宝珠」信仰が存在していたことを示すものであり、何らかの仏教に関する影響が「倭国」(九州)に及んでいたことを示すものです。
 しかも、その記事と一連のものとして「倭国」の名勝として「阿蘇山」が書かれており、この「如意宝珠」に対する信仰も(隋書倭国伝内では「祷祭」と書かれています)「阿蘇山」と深く関連したものではないかと推量されるものであり、「九州」と仏教の関係が強く示唆されるものとなっています。
 ここに書かれた「隋書倭国伝」の「如意宝珠」記事の年次は、『書紀』の「百済」からの「瓦博士」の記事の「直後」と考えられますが、この「如意宝珠」も「百済」に関連したものと考えるには「九州」内で「単弁蓮華紋」瓦の発見が非常に少ないことと「矛盾」します。

 このような「如意宝珠」と関連している、あるいは直接記事がある「仏典」は数多く存在しており、いずれも「律」の系統の「小乗」の仏典です。
 たとえば「賢愚経」や「大方便仏報恩経」という経典には「善の兄王子と悪の弟王子」という兄弟の存在、「善の王子が衆生のために如意宝珠を取りに行く」話、「善の王子が龍宮で如意宝珠を手に入れる」等々「如意宝珠」がそこに「出現」することと同時に『書紀』の「神話」の一つである「山幸彦神話」に類似した点が多く確認されています。これらの経典はかなり早い時期に「北魏」などで漢訳されており、「南北朝期」には中国国内でかなり著名であったものです。(注八)
 「隋書倭国伝」に記されている「如意宝珠」信仰はこれらの経典が「倭国内」に早期に伝来して発生したものという可能性もあるものと考えられます。

 また、「如意宝珠」については、「宇佐八幡宮」に伝わる「八幡宇佐宮御託宣集」の中にも書かれています。

 「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅(五三四年か)〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」

 これによれば「如意寶珠」は「宇佐」にあったものとされています。このように「現地伝承」でも、「九州」と「如意宝珠」の関係の深さが示されています。
 そう考えると「北魏」など「北朝」側から仏教文化全般(「寺院」やそれに付随する全て)が六世紀末付近までにすでに「九州」に伝搬していたことが示唆されるものです。つまり、「九州」内で発見される「複弁蓮華紋」瓦は「実際には」「北魏」の流れをくむものであり、「単弁蓮華紋」と同じ時期かあるいはもっと早い時期の流入であったことを想定すべきではないかと思料するものです。

 「仏教文化」が広く「九州」を中心として流入していたと考えると「寺院」に関する事物全体が他地域よりも早く「九州」に流入したと考えても不思議はありません。
 「瓦」にしても「北朝」系とも言うべき「複弁蓮華文」が早期に「九州」付近に使用されるようになったと考える事も可能であり、また、それは九州から「百済系」と考えられる「単弁系」瓦が出現しない理由と表裏を成すものであると考えられるものです。
 逆に近畿においても「六世紀後半」と考えられている「藤ノ木古墳」から「複弁蓮華紋」が刻された「鞍」が出土しています。このようなものがありながら、近畿ではこの当時「主流」にはならなかったものであり、この古墳の主と「近畿王権」との「距離」を感じるものです。

 また、「老司T式」瓦が使用されている「観世音寺」についてその創建年次を検討すると「六六〇年代」後半には完成していると考えられています。
 「二中歴」の年代歴には「白鳳」年間(六六一年から六八四年)の創建が書かれていますし、「続日本紀」の記事を見ても「天智天皇の誓願による」とのことですから、彼の存命中の創建と考えると「六六〇年代後半」という年次が想定されるものです。
 このことから「老司T式」瓦の造られた年代もこれを下る事はないと考えられます。
 また、「老司U式」と「鴻廬館式」が併用されている「筑紫宮殿」が当初の「掘立柱式」(T期)から「礎石造り」「瓦葺き」(U期)となったのは「六七〇年代」であると考えられます。
 従来の考え方でも「老司T式」と「老司U式」の間は「十〜十五年」程度の時間差が考えられていますから、「六七五〜六八五年」付近と推定されますが、『書紀』の以下の記述により「六七七年」がもっとも有力と考えられます。
 
「天武六年(六七七年)十一月己未朔。雨不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人賜祿各有差。且專捕赤鳥者。賜爵五級。乃當郡々司等加増爵位。因給復郡内百姓以一年之。是日。大赦天下。
己卯。新甞。
乙酉。侍奉新甞神官及國司等。賜祿。」

 上の記事では「筑紫」から「赤烏」が献上されたとされており、「瑞祥」として「筑紫」に関する事であることが「暗示」されています。さらにこの献上されたという「赤烏」は、「太陽の中には三本足の烏(カラス)がいる」という中国の伝説によって「太陽」を意味する言葉でもありますが、ここでは「鏡」のことではないかと考えられます。
 「鏡」が「太陽神信仰」において、「太陽」の象徴として考えられ、使用されているのは周知と思われるところですが、ここでも同様に「太陽」(赤烏)が「鏡」を意味するものと考えられ、「赤烏」が献上されたということは、即座に「三種の神器」のひとつである「鏡」が「奉られた」と言うことを意味するものです。しかもそれは「筑紫」という地域名と連結して記されているわけであり、これは新「筑紫宮殿」の完成とそこへの「高御座」(たかみくら)を意味するエピソードと考えられるものです。
 この時の「新嘗祭」と関連していると考えられる「木簡」が「飛鳥池遺跡」から出土しています。そこには「丁丑年十二月三野国刀支評次米」とあり、ここに書かれた「丁丑」という年次は、上に見るように「新嘗祭」を行ったと『書紀』に書かれた「六七七年」と推定されています。(「次米」というのが「新嘗祭」や「大嘗祭」で行う儀式のために奉納される「米」を表す「悠紀」「主基」の「主基」を表すものと考えられています)
 そして、この木簡と同時に出土したのが「天皇」と書かれた木簡です。(「天皇聚露□弘寅□」(口は不明字)と書かれていたもの)
 このことはこの時行われた儀式により「天皇」の称号を使用するようになったこと、この時の「新嘗祭」が「実質的」に「大嘗祭」の意味を持っていたことなどを表すものと思料されます。
 つまり、「筑紫宮殿」の整備完了がこの「丁丑年」であり、「六七七年」であったと考えられるものであり、この宮殿に「老司U式」や「鴻廬館式」瓦が使用されたと考えると、その製造は「六七〇年代」まで遡ると考えられるものであり、「藤原宮」に先行するものであることを示すものと思料されるものです。

 従来の研究では「老司式」瓦は「本薬師寺」出土の「瓦」に「遅れる」とされており、「本薬師寺」が『書紀』に「六八〇年創建」とされていることを根拠に、「観世音寺」「筑紫宮殿」の完成を七世紀末から八世紀初頭にかけてのものと位置づけているわけです。(注九) 
 しかし、「隋」からの影響が「遣隋使」によりもたらされたと考えると、その「伝搬」の中心域においては「ダイナミック」な変化があって然るべきと思われます。つまり、それまでの「単弁瓦」に代わって「復弁瓦」が導入されたわけであり、これにより「単弁瓦」が「一斉」に「駆逐」され、「ガラリ」と「復弁瓦」に代わって然るべきですが、実際には「近畿」では「複弁」形式に「主流」が早くに変化すると言うことはありませんでした。 たとえば、上に挙げた「本薬師寺」には「単弁蓮華文」と「複弁蓮華文」が並行して使用されています。この段階でまだ「隋」の形式「以外」のものもある比率で存在しているわけですが、その時点(六八〇年)よりもその創建が先行すると考えられる「観世音寺」には「単弁形式」(百済形式)の瓦は全く使用されていません。この事は「中枢域」というのが「近畿」ではなく、「複弁瓦」の「発信源」が「近畿」ではなかったということを示すものです。
 また「鬼瓦」についても「鬼面紋鬼瓦」が国内で初めて使用されたのも「大宰府政庁」とされています。この「鬼面紋鬼瓦」は「北魏」に始まり「隋」・「唐」へ続くものですが、それが最初に「大宰府政庁」で使用され、遅れて「平城京」に使用されるのです。(注十)そして、それまでの近畿では「獣面紋鬼瓦」しか確認されておらず、これは「半島」各国にあるものであり、特に「新羅」の影響が感じられるものですが、「隋」・「唐」の影響を感じさせるものではありません。
 また、その後「近畿」では「藤原宮」造営となって初めて「単弁蓮華紋」が消え、「複弁蓮華文」しか確認できなくなります。「複弁蓮華文」瓦は「近畿」地域には元々存在していなかったわけですから、「藤原宮」瓦というのはそのような「非近畿的」瓦で全てが占められていることとなります。つまり、「薬師寺」段階では「九州」の影響が部分的であったものが「藤原宮」では全面的に「九州」タイプとなり、この時点でやっと「近畿」の要素が排除されたものと考えられることとなります。


結語

一.「大宰府政庁」(「筑紫宮殿」)の変遷としては以下が考えられます。
(一)第T期の前期 七世紀初めに建設される。都城の中心部付近に掘立柱に板葺き。また、この時点では「条坊」ごと正方位から傾いている。
(二)第T期の後期 七世紀半ば(六五〇年代)に都城の北辺部に「移築」される。同時に「難波宮殿」が「北朝形式」で完成。この時点で共に「正方位」となる。
(三)第U期 七世紀後半(六七〇年代)に「礎石建物瓦葺き」に改修される。
(四)第V期 「藤原純友」の乱により焼失後再建される。
 以上のように、発掘された建物基礎のうち「最下層」の掘立柱については、都城の「北辺部」に当初から「宮域」があったわけではなく、後の時代に移動したものと考えられることとなったこと。現在地に建てられたのは通常言われる「白村江の戦い」の後の建築ではなく、「難波宮殿」の完成の直後ではないかと考えられ、「六五〇年代」と推量され、しかもそれは「旧宮殿」を「移築」したものと推量されること。

二.また「瓦編年」についても見直しが必要であり、「九州」には「北魏」から仏教文化が早期に伝搬していたと考えられること。「複弁蓮華文」瓦については少なくとも「筑紫」地域にはかなり早期に伝来したものと推量され、「観世音寺」「筑紫宮殿」(大宰府政庁)に使用されている「老司式」と「鴻廬館式」の瓦についても、現在想定されているより、かなり早期のものであることが推定でき、「老司T式」については「六六〇年代」、「老司U式」「鴻廬館式」については「六七〇年代」の製造年代が想定され、いずれも「藤原宮式」に「先行する」ものであったと考えられること。

以上を考察しました。

(補論)
 以上の考察では「難波宮殿」の完成時期について「六五〇年代」という、ある意味「定説」になっている時期を想定していますが、「大下隆司氏」により提唱されている「天武朝期」という完成時期については(注十一)、ここでは詳細は述べませんが、「評制施行時期」の関連、「戊申木簡」などの検討や「伊吉博徳の書」などの解析等の他、「ボーリング調査」の結果と「津波痕跡」との関係など解明すべき問題が複数あると考えられ、「現段階」では定説通りの時期に「難波宮殿」が建造されたと考えて問題ないと推量します。


(注)について
一.石松好雄「大宰府発掘」(田村円澄編「古代を考える 大宰府」吉川弘文館 所収)
二.井上信正「大宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナル二〇〇九年七月号ニュー・サイエンス社所収。それによれば「条坊」の基準尺と「政庁U期」などの施設に使用された基準尺に違いがあることが示唆されています。それについては「大尺」と「小尺」の違いという言い方がされていますが、「南朝尺」と「唐尺」の違いであると考えられます。また元の「宮域」については「通古賀地区」が候補に挙がっているようです。
三.川端俊一郎「法隆寺のものさし」ミネルヴァ書房所収
四.十二世紀初頭に北宋の「李明仲」がまとめたものであり、それまでの中国建築技術の集大成と考えられています。
五. 九州国立博物館報告によります。それによれば「大野城太宰府口城門跡出土の城門の建築部材。掘立柱式であったと考えられている第I期城門の部材で材質はコウヤマキ。年輪年代測定によれば伐採年代は六四八年とされ、大野城創建時(六六五年)に近い時期である」とされているようです。
六.高倉洋彰「観世音寺の創建」(田村円澄編「古代を考える 大宰府」吉川弘文館 所収)
七.劉俊喜「北魏平城京出土瓦の基礎的研究」奈良文化財研究所学術情報リポジトリ二〇一〇年
八.中村史「大施太子本生譚の誕生」小樽商科大学学術情報リポジトリ
九.岩永省三「老司式・鴻廬館式軒瓦出現の背景」九州大学研究博物館研究報告第七号二〇〇九年三月所収
十.稲垣晋也編「日本の美術xZ十六 古代の瓦」至文堂一九七一年。
十一.大下隆司「古代大阪湾の地図 −難波(津)は上町台地になかった−」古田史学会報第一〇七号及び「七世紀須恵器の実年代 「前期難波宮の考古学」について」古田史学会報一〇九号