「国宰制」の成立時期についての「補論」(未採用論文。投稿日付は二〇一二年七月十六日。)
「国宰制」について、前投稿(注一)では「七世紀」のはじめの、「倭京」完成の「六一八年」の至近の年次において「全国を六十六国に分国する」という国家事業を行なった際に併せて「制定」されたものとする見解を提出したわけですが、それについての「補論」を述べてみます。
「国」(クニ)の国内における「成立」とその「変遷」を考えると、「従来説」のなかでも「有力」なもののひとつは(注二)は、「七世紀」以前から「クニ」があって、そこには「国造」が存在しており(それは「ヤマト政権」の版図としてであるとされますが)、ある時点でその「クニ」がいくつか合わさった「広域行政体」としての「国」が成立し、そこに「国宰」が「派遣」されることになったものとされ、それが「天武紀」であるとするものです。そして、その「根拠」としては『書紀』の「天武紀」の「諸国境界限分」記事が挙げられています。つまり、この記事をそのまま「信憑」した結果としての「立論」であるわけです。
このような「立論」とそれを巡る「議論」については疑問を持たざるを得ないものです。それはその「成立」時期を「天武朝」としていることが挙げられます。これは『書紀』をそのまま信憑した結果であるわけですが、このような「階層性」を伴った行政制度が確立するためには「強い権力」が必要であり、その様な強さを「天武朝」で「発現」している実績がないと思われるからです。
たとえば、「古代官道」というものがあります。これは「幅」も非常に広く、しかも道路は「直線」であり、各地方拠点を「最短距離」で結びつけることを意図しているとみられます。
このように造られた「官道」の総延長は「六三〇〇キロメートル」ほどあると見積もられ、これは「現代」の高速道路の総延長(六五〇〇キロメートル)とほぼ同じ距離であるとされます。
この「官道」の造成の時期は、遺跡自体からは判定しがたく、現在まだ未確定ではあるものの、推定によれば「七世紀」のはじめまで遡るとされています。(「推古紀」の以下の「大道記事」が該当するという想定がされているようです)(注三)
「(推古)廿一年(六一三年)冬十一月。作掖上池。畝傍池。和珥池。又自難波至京置大道。」
あるいはそれを更に遡る時期も考慮すべきかもしれません。それは「阿毎多利思北孤」の事業と思われる「寺社」創建の中に「信濃」の「善光寺」が含まれていると考えられるからです。
「平家物語」の「善光寺炎上の段」には以下のように書かれています。
「其比善光寺炎上の由其聞あり。(中略) 同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。」
この「善光寺」炎上事件は「平家物語」の「巻二」に書かれており、この「巻二」は全て「治承元年」(安元三年、一一七七年)のできごとを記したものと考えられています。つまり、ここに書かれた「善光寺炎上」というものも「一一七七年」の事かと考えられますが、そこから「五百八十餘歳」を逆算すると「創建」されたのは「五八八年」から「五九六年」の間のこととなります。
この年次の範囲の中には他にも「厳島神社」、「四天王寺」、「法興寺」などの創建とされる年次が含まれています。
「厳島神社」はその社伝で、創建について推古天皇の時(端正五年、五九二)に「宗像三女神」を祭ったと書かれています。
「四天王寺」も「五九三年」という伝承や「五八八年」という伝承が確認されています。さらに「法興寺」もその材を採るため「山に入った」とされるのが「五九二年」とされているなど、この時点でほぼ同時に各地で仏教に関する動きがあり、そのなかで「善光寺」などが創建されたと考えられるわけで、創建に関わる共通な要因が考えられるものです。
このように「信濃」という地にまでも仏教の波が押し寄せているわけですが、その背景として「東山道」の整備が始められたことがあるのではないかと考えられるものであり、後代の「高規格」のものの先蹤となるものがこの時点で作られたものと推量します。それは「阿毎多利思北孤」という「強い権力者」の出現と軌を一にするものと考えられるものです。
また上で見た「推古紀」の「大道」記事において、その直前に「池」を作るという記事があるのは、この「大道」、つまり「官道」を「置く」という作業と関係していることを示しています。つまり「古代官道」の遺跡を見ても、直線的に道路を敷設するために「沢」などを「横切って」おり、そのために「堤防」などを築いていることが知られており、結果的にそこには「池」ができる場合があります。この記事も同様のことを示していると思われ、それを示すように「造池」記事を『書紀』で「検索」すると「推古朝」が最多で「九箇所」作っており、群を抜いているのです。
これらが「純粋」に「農業の灌漑用水」であるというよりは「官道」の敷設と関係があるのではないかと推量されるものです。
また、「天武」がその権力を手中にしたという「壬申の乱」の『書紀』における描写でもこの「古代官道」は既に存在しているようであり、戦いの際に使用されているのがわかります。このことは、明らかに彼「以前」に「官道」が「実用」に供されていたことを示すものです。
これら「官道」は複数の路線からできており、全体完成はかなり遅い時期を想定すべきですが、「段階的」な完成としては第一に「阿毎多利思北孤」の「六世紀末」、続いて「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」そして「七世紀半ば」の「難波朝」更に「七世紀末」の「持統」というように、各「倭国王」の時代に「官道」を延伸し、それが即座に「統治強化」に結びついたものと思料されます。
このような高度に集権的である構造物を造る事や、これを企図して実現させる事が出来るのは、当然「統一権力者」的人物と想定しなければならず、その意味でも「阿毎多利思北孤」以降の各「倭国王」がそれに該当すると考えられるものです。
その中でも「最初の統一王」と考えられる「利歌彌多仏利」の時代が一番路線強化が成されたものと考えられ、それは彼が実施したと推察される「国県制」施行と「六十六国分国」という事業そのものが「大幅な」統治強化であり、この方策が「官道」整備と表裏を成すものであったことは確実と考えられるものです。
そもそも、彼(及び父である「阿毎多利思北孤」)は「遣隋使」を派遣し、「隋」の各種制度と技術を積極的に導入する施設を示しましたが、そのような中には「道路」に関するものもあったものと推察します。
「隋」では「大興城」の至近に「幅」が「百メートル」もあるような道路を造るなど、全国に道路網を張り巡らしていました。この「情報」を帰国した「遣隋使」から受けた彼は、それを「倭国内」にも実現しようとしたのではないでしょうか。
彼の時代に「古代官道」という「高規格道路」の整備事業が一気に本格化したものと推定されます。
これらのことから「天武」以前に「官道」整備はかなりの部分行なわれていたものと考えられ、彼の時代を遡ることは間違いないと考えられます。
また、「石神遺跡」や「飛鳥池遺跡」から、この「諸国境界限分」記事以前の「紀年」を持った木簡が発見され、これらから「令制国」と同様の広範な領域を持つ「国」がその当時存在していたことが確認されています。
「石神遺跡出土木簡 」
「(表)乙丑年十二月三野国ム下評」
「(裏) 大山五十戸造ム下部知ツ
口人田部児安」
「飛鳥池遺跡出土木簡」
「(表)丁丑年十二月三野国刀支評次米」
これらの「木簡」によればこの「丁丑年」(六七七年)や、「乙丑年」(六六五年)という段階で「ム下評」や「刀支評」という「評」を下部組織に持つ「三野国」が存在していたこととなり、これは後の「令制国」である「美濃国」と同等の広さを持つと考えられ、このようなものがすでにこの時代に成立していることが明らかとなったわけです。
この「木簡」から「素直」に考えれば、「広域行政体」としての「国」の成立は「天武紀」以前に遡るものであることは確実であると言えます。
さらに問題なのは、この「天武朝」の「諸国境界限分」記事については「正木氏」の「三十四年遡上」研究により、本来「難波朝廷」に関連する記事であったことが判明している事です。(注四)このことは、それだけで既に「天武朝」と「国宰」を結びつける考え方の「全体」が否定されるものです。
ただしその場合、「国宰」を「難波朝廷」から制定されたものと見る別の立場からは、「一見」整合的であると思われるかもしれません。つまり、「難波朝廷」から「評制」が施行された際に「国宰」という制度も成立したと見る事ができそうだからです。
それは「常陸国風土記」で「難波長柄豊崎大宮臨軒天皇」という「一見」「孝徳」を意味すると思われる天皇名の表記が見えている中で、「我姫」の地を「八国」に分けたという記事がある事とも「整合する」ことであると、かなりの数の論者が考えている事とも繋がります。
「通念」的解釈の多くもこの「木簡」に関する見解から、この「三野国」のような「広域行政体」としての「国」が成立した時代を「難波朝廷」の時のこととする見解にシフトしているようですが、しかしそう簡単に考えるわけには行かないと思われます。なぜなら、「難波朝廷」から施行された「評制」という制度は確かに、それ自体「中央集権的」なものであったわけですが、実態としては「評」の表す地域、つまり「以前」は「国」と呼ばれ、後には「郡」と呼ばれる領域に対する、「細部的」な「再編成」が「主要」な目的であったと思われるからです。
この時は「八十戸制」であった下部組織(里)を「五十戸制」に改定し、制度の階層性の網を細かくするのが「狙い」であったと考えられます。(注五)
たとえば、「常陸国風土記」には「郡家」が遠く不便である、ということで「茨城」と「那珂」から「戸」を割いて新しく「行方」郡を作った際のことが記事に書かれています。
「常陸国風土記」「行方郡」の条
行方郡の東南西並流海北茨城郡古老曰 難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世 癸丑年 茨城国造小乙下壬生連麿 那珂国造大建壬生直夫子等 請総領高向大夫中臣幡織田大夫等 割茨城地八里 那珂地七里 合七百余戸 別置郡家
ここでは「茨城」と「那珂」から併せて十五里(さと)を割いて「行方郡」を作ったと書かれており、それが計七百余戸といいますから、一つの里(さと)が約五十戸で編成されている計算となります。
このように「戸数」の変更は即座に「評」の示す範囲の変更になるわけであり、「評制」施行と「里」の戸数変更とが密着した事業であることを示します。(この「癸丑年」は「六五四年」と推定されます)
また、「皇太神宮儀式帳」の記事からはこの「評制」施行と同時に各地に「屯倉」が設置されているようであり、「評督」や「助督」はその「屯倉」の管理者として任命され、存在しているように書かれています。
(『皇太神宮儀式帳』)
「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇御代、以甲子年、小乙中久米勝麿多気郡四箇郷申割、立飯野(高)宮村屯倉、評督領仕奉」
このように「評制」は「統治強化」の一環として制定されたものであり、「軍事面」や「租」「調」などの収奪機構の強化という部分で、前政権までの「制度」を改定していると考えられます。
このように「難波朝」は「制度改定」の他、その「言葉に言い表せないほどである」と『書紀』に形容された宮殿の様子と言い、上に見た「古代官道」の相当部分がこの時代に「延伸」「拡張」されたと考えられる事(東山道、東海道など)等いずれも「高度に中央集権的」であることは間違いありません。これらのことは、この時代の「倭国王」の権力の強さ、高さを推定させるものですが、「評制」の施行というものがある意味「行政制度」の「末端組織」とも言える部分の改定であったと考えると、「常陸国風土記」に書かれたような「我姫」という「広大」な領域を「再編成」し、後の「令制国」につながるような「国」、つまり「国宰」が管掌するような「国」を誕生させるという「ダイナミック」な事業とは、(この「常陸国風土記」の記事を「後代の潤色」と「無批判」に処理しないかぎり)「矛盾」している、或いは「そぐわない」ことと考えられるのです。それはそこにいくら「難波長柄豊崎大宮臨軒天皇」という表記があったとしても、「内容」としてはこの時期ではあり得ないということを示しているといわざるを得ません。
また、「難波朝」と「国宰」を結び避ける考え方では、「評制」の施行と同時期に「広域行政体」としての「国」も成立したこととなりますが、この二つを同時に成立させるというのは実は「至難」の事業ではないでしょうか。
どちらも「境界策定」を伴う作業であり、またその際には「既得権益」を持つ勢力の間の「調整」という作業も伴うものと推測され、そのような事を行なう「技術的」「政治的」な困難さを考えると「国」という外枠を決めながら、その内部の「細部領域」についても区画していくという事が同時並行的に行われたとは考えにくいものです。
既に「外枠」については「線引き」が終了していて、その「内部」についての「境界」の見直し作業であったとすると、現実の作業としてかなりスムースに進行すると思われますが、その「外部領域」(国)自体の線引きを動かすとなると、その間「内部領域」(評)は全く手をつけることができなくなる可能性もあり、「境界策定」という作業自体が停止する或いは破綻するという可能性もありえます。少なくとも順調に進むとは思えないものです。
『書紀』の記事を見ても、「皇太神宮儀式帳」によっても、その「難波朝廷」段階での境界策定の実際は「評制」に伴うものに限定されると考えられ、また「風土記」の記事でも「評制」施行の際に策定した境界線について見直しを求めているのはいずれも「国」の内部の話であり、「国」そのものの領域についてのものではありません。
上に見たように「評制」施行やその「範囲」変更は「戸数」変更と関連しています。つまり、「評制」施行と「国制」施行を同時に行なおうとすると「戸数」変更をも同時に行なう必要があることになり、そのような「大改革」が「企図」されたとは考えがたいものです。
これらのことから、「難波朝廷」段階では、「評」という「国」内部の「領域」に関する改定だけが行われたと見るべきであり、そのことは「国」と「国宰」制度の施行がこの段階ではなく、もっと以前に行なわれたものであることを強く示唆するものです。(注六)
また、注目すべき事は「従来説」においても「広域行政体」としての「国」の成立とそれを管掌する「国宰」の制定は「同時」であると考えられていることです。それは「国」の成立・制定がされたその時点において、「責任者」としての人間(役職)の「任命」も同時に行なわれたはずであるという、ほぼ「常識的感覚」によるものですが、それについては首肯できるものです。また、「常陸国風土記」の冒頭の記事の「国」制施行と考えられる段階でその「責任者」たる「役職」として「国宰」も任命されたことを示すものとされているわけですが、(これらの点についても首肯できます)問題はそれが「いつ」なのかと言うことであるわけです。
出土した「木簡」や「三十四年遡上研究」により「天武紀」であることは否定されたわけであり、「難波朝廷」まで遡って考えるべきとする論調が増えたようですが、それも「問題がある」と考えられるのは上に指摘したとおりです。
その時期を判定する材料として有力なものとしては、先ほどの「古代官道」の施工時期の関連や、他に『書紀』の「大宰」の初出が「推古朝」であること、「東日本」の「前方後円墳」の築造停止時期がやはり「推古朝」(七世紀初め)であること、また「法興寺」等「古代寺院」の築造や「移築」なども「推古朝」に多数が確認されること等々、「統一王権」の存在を想定すべき記事、出土資料等が一致して「推古朝」の時代を示していることから、「国制」施行と「国宰」任命の時期としては「七世紀第一四半期」の末ぐらいまで「遡上」して考える必要があると思料されるものです。
また「隋書倭国伝」の記事から判断して「逆」に「隋使」が「来倭」した「六〇八年」段階以降である(この時期が下限である)と推測することも可能です。この「隋書倭国伝」には「国宰」以前、つまり「国造」の治める「クニ」が多数国内に分立している時代のことが描写されていると考えられ、その後、これらの状態から進展して「行政制度」の「再編成」が行われたと考えられますが、ここで「行政制度」再編成に応用された制度は「国県制」であったと思料されるものであり、この制度は「隋」の時代にしか行われていなかったものです。
「隋代」以前には「国−郡−県制」であったものであり、それを「隋」の代になって「県」を「国」が「直轄」するように変更したものですが、これは「唐」に変わって以降まもなく「郡」が再度復活することとなりました。この「制度」の変遷を考えると「国内」に「国県制」が導入されるのは「遣隋使」による情報以外にはないと考えられ、そうすると「行政制度」改定時期は、「遣隋使」が帰国した時点からそう遠くない時期であることを推察させるものです。そう考えると「難波朝廷」の時代や、ましてや「天武朝」などでは余りに遅すぎるものであり、「制度」として「反映」させるのにそれほどの「時間」がかかったと想定するのは「恣意」に過ぎると言えるものです。これは派遣された「遣隋使」の帰国後十年以内程度に改定が行なわれたものと推察するのが「自然」な理解というものであり、「遣隋使」の帰国がいつ行なわれたかは定かではありませんが概ね「派遣期間」として十年程度を想定するべきでしょう。
そもそも「僧」などとは違い、「制度」等を学ぶのが与えられた使命の人間ならば、その学んだ制度を国内に適用・応用するというのが彼の「使命」であり、そうであれば「数年」で帰国するのが本旨であると考えられ、これが十年以上の滞在となると、派遣の趣旨と齟齬してしまうと思われます。
つまり、この「隋書倭国伝」記事からは、「広域行政体」としての「国」が成立し、その「主」(責任者)として「国宰」という「官僚」が任命・派遣されるようになったのは「七世紀前半」という時期しか想定できないものであり、それは上で行った想定とも合致するわけです。
ところで「国宰」という表記は『書紀』にはありませんが「宰」単独ならば「神功皇后紀」と「敏達紀」に存在します。
(仲哀)九年
十二月戊戌朔辛亥(中略)一云,禽獲新羅王詣於海邊,拔王?筋,令匍匐石上,俄而斬之埋沙中.則留一人為新羅宰而還之.
ここでは「新羅」に残してきた「留守居役」のような立場の人物について「宰」と表現されています。
(敏達)六年(五七八年)
夏五月癸酉朔丁丑。遣大別王與小黒吉士。宰於百濟國王人奉命爲使三韓。自稱爲宰。言宰於韓。盖古之典乎。如今言使也。餘皆倣此。大別王未詳所出也。
冬十一月庚午朔。百濟國王付還使大別王等。獻經論若干卷并律師。禪師。比丘尼。咒禁師。造佛工。造寺工六人。遂安置於難波大別王寺。
この記事では「百済」への使人を「宰」と称したと書かれており、これを『書紀』編纂者の「注」では「古之典」にあるものであり、今は「使」というと書かれています。
これらの「宰」の用例は「百済」や「新羅」という「半島」の「諸国」に対する「倭国王」の「代理者(代弁者)」という意味があると思われますが、これを「拡大解釈」して「国内」にも適用したというのが「国宰」ではなかったかと推察されます。
一般に「国宰」が「一時的」に派遣される立場の官僚であり、「常駐」ではなかったという理解がされているのは、このような用例から帰納したものであると考えられますが、そのような「古之典」の用法から「脱却」したのがこの「七世紀前半」ではなかったかと推察されるものです。
それについて念頭に置くべきものとして「牧宰」があります。「漢代」以来「牧宰」と「刺史」は「州」の長官を意味するものであったものであり、軍事権のあるなしで名称が異なっていたとされています。
「隋書倭国伝」においても「軍尼」という「官職」名について「牧宰の如し」と書かれています。
「倭国」は「行政制度」の改定においても「隋」を模範としたと推定されるものであり、そこに「牧宰」とその職掌が共通していると考えられる「役職」が「国宰」という名称で制定されたと考えるのはそれほど不自然ではないと思えます。
この「牧宰」は基本的に「常駐」するのが普通であり、臨時に派遣されるような役職ではありません。
「国宰」がこのような「牧宰」との類似からの発想で定められたとすると、同様に「臨時」の役職ではなかったという可能性が高いと思料され、「古之典」にある「宰」が遺存したというより、それに「新しい意味」が吹き込まれたのが「七世紀」の初めのことであったと思料されるものです。
結語
「国宰」という制度については「国」の成立と同時であると考えられること。その制定時期としては「天武紀」は明らかに成立しないこと。また、「難波朝廷」時代とするには「評制」施行と齟齬すること。
以上により「七世紀初め」の「利歌彌多仏利」の時代であると考えられる事。
以上、前回提出した「立論」の補強とするものです。
注について
一.拙論「「国県制」と「六十六国分国」上・下」「古田史学会報」一〇八号及び一〇九号二〇一二年
二.篠川賢「「国造」の国(クニ)再考 −神崎勝氏の所論に触れて−」日本常民文化紀要 第二十五輯二〇〇五年
三.これら「古代官道」については以下の資料を参考にしています。
肥沼孝治「古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」「古田史学会報」一〇八号
中村太一「日本の古代道路を探す 律令国家のアウトバーン」平凡社新書
木本雅康「遺跡から見た古代の駅家」山川出版社二〇〇八年
木下良「古代官道の軍用的性格 −通過地形の考察から−」同志社大学学術リポジトリ 一九九一年
近藤信義「東国万葉歌と律令官道 −防人歌を中心に−」立正大学電子ライブラリー 二〇〇六年
池上悟「東国における古代道路 −東山道を中心として−」立正大学電子ライブラリー 二〇〇六年
四.正木裕「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」古田史学会報八十二号二〇〇七年
五.「隋書倭国伝」には「倭国」では「七世紀初め」という段階で「八十戸」という戸数を基礎とした「行政制度」が施行されていたように受け取られます。
「隋書倭国伝」「…有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。…」
しかし、このような「官職制度」は現在全く残っておらず、詳細については明確ではありません。関連する「金石文」や「木簡」などもいまだ発見されず、「八十戸制」の詳細は「不明」となっているわけですが、「隋」「唐」の制度が「五十戸制」であったと考えられ、この「五十戸制」についても「隋」「唐」との関連で考えるべきであるとすると、「倭国」が「隋」「唐」と関係を持ち始めたのが「七世紀初め」であることから考えて、この「五十戸制」と「八十戸制」の切り替わりの時期として「七世紀中葉」を想定するのはそれほど不自然ではないと思われます。
六.このことは逆に言うと「八十戸制」が「五十戸制」に変わったのは「国県制」と同時ではないということも意味します。つまり、「国制」と同時でないとするならば「隋書倭国伝」にいう「八十戸制」が「利歌彌多仏利」による「国県制」施行以降も継続し、「難波朝」における「評制」施行時に「五十戸制」に変更されたという「変遷」が正しいことを強く示唆するものと言えます。