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その二


「白雉」年間の「遣唐使」について(その二) −「二つの遣唐使団」を巡って−

 「「白雉」年間の「遣唐使」について(その一)」では「伊吉博徳」による「資料」の解析を行い、文中の「今年」というのが「慶雲元年」(七〇四年)であると論証したわけですが、それに関連して、この「白雉年間」の連年の遣唐使団の分析を行います。


一.二つの遣唐使団が「倭国」からのものであることについて

 この「連年」の「遣唐使」について、これが「日本国」からの「遣唐使団」であるという理解をされる事もあるようです。(たとえば、「古田氏」の「失われた九州王朝」の第四章二の中の「不明の学問僧たち」および「二つの使節団」などはその趣旨で書かれています)
 しかし、その後「古賀氏」により「難波副都説」が提出されています(注一)。また「正木氏」により『書紀』の記事に「三十四年遡上」すべきものがあるとされ(注二)、「天武紀」の「副都建設の詔」がまさしく、「難波副都」建設の詔であると考えられるようになるなど、新しい考え方が提起されている今、このような理解は成立しにくくなっていると考えられます。
 この「遣唐使」派遣の直前の「六五二年」という年は、それ以前の「六四九年」に「副都制」が発せられ、それにより「難波宮殿」(難波京)が完成した年でもあります。(九州年号「白雉」改元の年次です)
 このことはこの「遣唐使派遣」という時点に於いて「難波」が「九州倭国王朝」にとって「安定支配領域」となっていた証しと考えられます。
 そうであれば、この時点で「倭国」とは「別」に「近畿」という地域に於いて「日本国」という「独立国」があり、また「独自」に「遣唐使」を派遣していたとは考えられないこととなるでしょう。それは「孝徳紀」(白雉三年(六五二年)秋九月条)の形容として「其宮殿之状不可殫論。」、つまり「口ではとても言えない」というほどの「韋容」を誇った「難波宮殿」が示す「中央集権的権力」の存在と「齟齬」するものです。
 この「強い権力」を示すものとして「評制施行」などの事業もあったものと思料され、特にこれらが「東国」の「諸国」に対して行なわれた可能性が高く、「近畿王権」の「協力」あるいは「服従」なくして達成できない事業であったものと思料されることからも、この「連年」の遣唐使団はあくまでも、「倭国」からの「遣唐使」として派遣され、また受け入れられたものと考えられます。

 この連続「遣唐使」のうち「六五三年」(白雉四年)五月の遣唐使船は途中難船し、残りの一隻も到着がかなり遅れ、唐皇帝に拝謁したのは「六五四年」になってからのようです。彼らはその年の「七月」に筑紫に帰って来た、と云う記録が『書紀』にあります。
 一隻の難破を知った倭国としては同時に出航したもう一隻も遭難したかもしれないと考えたのかもしれません、すぐに追加で遣唐使船を出したもようです。これが「白雉五年」の遣唐使船です。しかし、彼らは「留連數月」とあるように「天候回復」などを待っていたものか数ヶ月出航を延期し、その後「新羅道」(「北路」を指すか)といわれるルートを取る事としたようです。
 東シナ海を直接横断するルートを取った場合、再度海難に遭遇する事を懸念した事がその理由と思われますが、この「新羅道」ルートは「新羅」が強大となり「百済」や「高句麗」と険悪になると、彼らと友好関係にあった「倭国」との関係が相対的に悪化してしまったため、このルートは避けられていたと考えられますが、「大唐押使」とされている「高向玄理」と新羅王「金春秋」の間柄を考えると、「新羅」経由でも「大丈夫」(協力が得られる)と考えたのではないでしょうか。
 「高向玄理」は以前に(六四六年)「遣新羅使」として「新羅」を訪れており、それに応え「金春秋」も翌年(六四七年)に倭国に来ているなど、「高向玄理」は「新羅」の政権とは「旧知」の間柄であったと思われます。この遣唐使団の編成は、その前年の遣唐使団より大使、副使とも位が高く、そういう意味でも、当初より「新羅」を意識し、「新羅道」を経由する予定だったものと推察されます。(あるいは遣新羅使を兼ねているのかもしれません)
 「新羅」に入ったころには「金春秋」はちょうど「新羅王」になったばかりの時であり(三国史記によれば「六五四年三月」に即位)、彼らはある意味「歓待」されたものと思われます。
 そして、「朝鮮半島」に沿って北上し、「岸」から余り離れない「沿岸航路」をとりつつ、「呉」つまり「南朝」への経路をとって、上陸しそこから長安へ向かい、到着が「永徽五年」(六五四年)十二月となった、ということのようです。
 このルートは「伊吉博徳書」によれば「呉唐の路」と呼ばれ、「倭の五王」のころに南朝に遣使する際の航路と考えられ、「唐」の時代になってもこの航路が使用されていたと考えられています。(注三)

 『書紀』の文章にもあるように、この「六五四年」の遣唐使団は唐に到着した時「唐」の「東宮監門」(皇太子の宮の護衛を掌る官)である「郭丈擧」から「全員に」「日本國之地里及國初之神名」を問いただされています。

「白雉五年(六五四)二月 (中略)於是東宮監門郭丈舉悉問日本國之地里及國初之神名 皆隨問而答。」

 このように「『日本』国の地理や初めの神の名」などを聞かれていることから、この「遣唐使」団が「倭国」とは別の「日本国」からのものではないか、という推測がされることがあるものと考えられますが、ここで書かれている「日本」という国名は「書紀編纂時点」である「八世紀」時点の「イデオロギー」による書き換えと考えられ、『書紀』編纂者の作為と考えられます。ここには本来は「倭」とあったものと思われます。それを示すように「唐」によるこの遣唐使団に対する認識、というものも「倭国」からの遣唐使、というものであったようです。

(唐側資料)
「永徽五年(六五四年)十二月癸丑、倭国琥珀、碼碯を献ず。琥珀の大なること斗の如し。碼碯の大なること五斗器の如し。」「旧唐書 高宗紀上」

「永徽五年 倭国、虎珀・馬脳を献ず。高宗、之を[小刷]撫す。仍りて云わく、王の国、新羅・高麗・百済と接近す。若し危急有れば、宜しく使を遣わし之を救うべし、と。」「唐録 高宗」

「永徽五年十二月。遣使が琥珀(こはく)と瑪瑙(めのう)を献上した。琥珀の大きさは一斗升の如し。瑪瑙の大きさは五升器の如し。高宗は降書を以てこれを慰撫した。なお言うには、倭王の国は新羅と近接している。新羅は平素から高句麗や百済を侵略し、もし危急が生じれば、倭王は宜しく派兵してこれを救う。」「唐会要 倭国・日本国伝」

 上記のように「唐」側資料によればこの時の「遣唐使」(白雉五年の方と思われます)については「倭国」に関する事実として書かれており、この「遣唐使団」が「倭国」からのものと認識されていたことを示しています。

 また「六五九年」の「伊吉博徳」も参加した「遣唐使」派遣の際にも「唐皇帝」から「日本国天皇」の「無事」を確認されたという記述が「伊吉博徳書」にあります。

「天子相見問訊之 執日本國天皇 平安以不。使人謹答 天地合コ 自得平安。」

しかし、これも同様に「修飾」と考えられ、それ以降には以下のように「倭」が使用されています。

「十一月一日,朝有冬至之會。會日亦覲。所朝諸蕃之中 『倭客』最勝。後由出火之亂 棄而不復檢。」

「斉明五年十二月三日,韓智興{人西漢大麻呂,枉讒我客。(中略)事了之後敕旨 國家 來年必有海東之政。汝等『倭客』 不得東歸。(以下略)」

 以上のように『書紀』や「伊吉博徳書」の中で使用されている「日本国」という表記については、「八世紀」時点での「修飾」という疑いが濃く、この当時「日本国」という表記や呼称がされていたあるいはそのような国が存在したと言う事を示すものとは考えられません。
 
 また、「唐」において「国の地理や初めの神の名」を問うような質問が為された背景としては、「連続」で「遣唐使」が「唐」を訪れる結果になり、前回の「遣唐使」から日数が経過していない事があると思われます。この「遣唐使団」の前の「遣唐使」は「六五四年七月」に倭国に帰還していますから、その数ヶ月前には「唐」皇帝に謁見していると理解されます。
 この点について「古田氏」は「失われた九州王朝」の中で、「是月」(七月)というのを「唐皇帝」に謁見した月と理解されているようですが(注四)、もしそうであればその月のうちに「帰国」したこととなるわけで、余りに日数が短すぎるのではないでしょうか。
(以下「孝徳紀」の当該記事)

「孝徳紀」「白雉五年(六五四年)秋七月甲戌朔丁酉。西海使吉士長丹等。共百濟。新羅送使泊于筑紫。
是月。褒美西海使等奉對唐國天子 多得文書寶物。授小山上大使吉士長丹以小華下。賜封二百戸。賜姓爲呉氏。授小乙上副使吉士駒以小山上。」

 ここで「西海使」(遣唐使)が「筑紫」に帰国・到着した日付として書かれている「丁酉」は「二十四日」です。この時「皇帝」が「東都(洛陽)」におり、その「謁見」が「一日」など「月初」に行われたと想定しても、帰国するまでの日数として「二十日間程度」というものを想定するのは非常に困難であると考えられます。
 文章中にも「共百濟。新羅送使泊于筑紫」とあり、途中「百済」「新羅」の「送使」を伴っているところから考えて、この両国を経由して帰国したと推定されるものであり、そうであればますます日数を余計に消費するわけですから、同月内帰国は難しいと思われます。
 たとえば「伊吉博徳」が「派遣」された際の「帰国」の行程を「伊吉博徳書」から見てみると以下の通りです。

「庚申年八月百濟已平之後 九月十二日放客本國 十九日發自西京 十月十六日還到東京 始得相見阿利麻等五人.(中略)十一月十九日賜勞 二十四日發自東京.」
「辛酉年正月二十五日還到越州 四月一日從越州上路 東歸 七日行到?岸山明 以八日?鳴之時順西南風放船大海 海中迷途漂蕩辛苦 九日八夜僅到耽羅之島 便即招慰島人王子阿波伎等九人同載客船 擬獻帝朝 五月二十三日奉進朝倉之朝」

 これで見ると「前年の十一月二十四日」に「東都」(洛陽)を出発して、「遣唐使船」の係留地である「越州」に到着する「翌正月二十五日」までに「一ヶ月」以上掛かっている計算になり、更にその後「海路」があるわけです。「白雉五年」の帰国の際にも同様な過程を経たと見られることから、上で見るような「同月内帰国」というのはかなり困難と考えられます。
 文脈から見ても「是月」は文章中の「褒美」「授」「賜」「賜」「授」という各動詞に係るものと理解すべきではないかと考えられ、「皇帝」に「謁見」したのはもっと以前であると考えるべきと思われます。

 このように「倭国」からの「遣唐使」が友好裏に帰国した後に、それから一年足らず(多分数ヶ月後)で第二弾が来たわけです。このような「連続」の遣唐使はそれまでなかったことですから、「不審」と考えられたものでしょう。しかも朝鮮半島(新羅)を経由してきたものです。このため「百済」など「別国人」(つまり「スパイ」)の存在を疑ったのかもしれません。
 「唐」は「新羅」との間に「唐羅同盟」を結んでいましたが、これは「百済」と「高句麗」の間の「麗済同盟」に対抗するものであり、「百済」や「高句麗」の動きに「唐」「新羅」とも神経をとがらせていたのです。たとえば、この「遣唐使」到着の直後(翌月)新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「高句麗」を攻撃させています。このようにこの時期は「唐」が「高句麗」や「百済」に対して警戒心を強めている時期でした。そういうこともあって「疑った」ものでしょう。このため、「悉く」、つまり「全員」に「國之地里及國初之神名」を聞いたわけです。そして、これに対し「皆随問而答」つまり、聞かれた全員が答えたということのようです。
 確かに、夷蛮の国が朝貢に来た場合には「その国の地理や歴代王朝」などを聴き取る、というルールが「唐」にはありました。
 「唐会要」の「諸司応送史館事例」には「蕃国」の朝貢に際して「使至るごとに、『鴻臚』は土地、風俗、衣服、貢献、道里遠近、ならびにその主の名字を勘問して報ず」との規定があったことが書かれています。
 しかし、その場合でも、全員に聞く必要はないわけであって、もしそういう理由で「國之地里及國初之神名」を知ろうとしたのだとしても、それはその使節団の代表的な人物一人に聞けばよいことであり、「悉く」に聞いている、ということには別の意味があったと考えるべきでしょう。つまり皆が一様に答えられるか、答えが皆同じかで、全員が「倭国」の人間かどうか、一種の「国籍調査」を行ったのではないでしょうか。
 また、「唐会要」に書かれた「規定」でも判るように、通常このような尋問などは「鴻廬寺」(外務省)の官僚が行うものですが、この時は「東宮監門」が行っており、彼(郭丈擧)はこの「遣唐使団」に「何らかの危険性」を感じたが故にこのような「尋問」を行ったものと推察され、このようなある種「異例」な事を行う動機が「郭丈擧」にはあったものと推察します。
 彼は「皇太子」の護衛役ですから、「皇帝」や「皇太子」に危害が及ぶ可能性や危険性を特に気にしたものと見られ、この「遣唐使団」に何か「不審」あるいは「危険」を感じたものかもしれません。
 前述したようにこの「遣唐使」が「唐」に到着した翌月「六五五年正月」に「高麗」・「百済」(他に靺鞨も)連合軍が「新羅」に侵攻し、そのため新羅王「金春秋」は「唐」に救援の要請を行い、「唐」はこれに応え、将軍「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させています。このように「半島情勢」が緊迫の度を高めている中での「遣唐使」到着であったため、「唐」の関係者から通常より詳しく素性等の確認をされたものだと思われます。


二.二つの遣唐使団の違いについて

 この時の遣唐使団は、その前の遣唐使船が東シナ海を直接横断しようとして「遭難」したこともあり、より安全と考えられる「新羅道」という「新羅」経由でのルート(北路か)を経由しようとしたため、団の構成をより「親新羅」的にするために必要な人材を選抜したものと考えられます。
 「押使」という「高向玄理」を始め、かなりの数の「親新羅系」の人物が遣唐使中にいたのではないかと考えられるものです。つまりこの二回の遣唐使団は共に「倭国」からの遣唐使団でありながら、その各々の「性格」がかなり異なるのではないかと思料されるものです。
 それを示すようにこの時の遣唐使団とその前年の遣唐使団については『書紀』の表現が著しく異なっています。以下に相違を示します。

〔一〕「白雉四年」の遣唐使は、参加した人数が「百二十一人」「百二十人」と明確に記載されているのに対し、「白雉五年」の方には「概数」さえ記載されていません。

〔二〕共に「二船」に分乗しているわけですが、「白雉四年」の方は各々の乗船者がかなり細かく書いてあるのに対し、「白雉五年」の方はまったく触れておらず、「誰」が「どちら」に乗っていたか、不明となっています。

〔三〕また、この乗船者については、「白雉四年」側には「父親」の名前などの補足の記録があるのに対し、「白雉五年」には皆無です。

〔四〕さらに、「白雉四年」の方は各々の船に「送使」がいるのに対し、「白雉五年」の方は「送使」がいないようで、書かれていません。

〔五〕「白雉五年」の遣使の使者の冠位は「後の時代」の冠位が書かれており、この時代のものではありません。これを補足・修正するように「或本伝」という形で別の情報が記載されていますが、「白雉四年」の方の冠位は当時の冠位そのままが「正しく」書かれているようです。

〔六〕また、帰国した使者に対する対応も違います。「白雉四年」の使者が帰国する際には「唐皇帝」から贈り物をもらい、それを「倭国王」に進上し、「倭国王」から労をいたわられ、「褒美」をもらっていますが、「白雉五年」の使者が帰国した際には、ただ「帰国した」という記事だけであり、功績が顕彰されていません。

〔七〕「白雉五年」の遣唐使は「新羅道」(北路)を経由して唐に入国していますが、「白雉四年」の航路は「南路」という「東シナ海」を直接横断するルートを採用しています。

〔八〕 前述したように「白雉五年」の遣唐使は「東宮監門」から「日本国地里及國初之神名」を「全員」が問われています。

 以上を見てみると、「白雉四年」遣使の方が「緻密な」記録であるのに対し、「白雉五年」遣使は非常に「大まか」な記録になっており、これは『書紀』編纂時の参考資料の「多寡」の差があったものと考えられ、「白雉五年」資料が「希薄」であったことを物語っているようです。
この二つの「遣唐使」が同じ「機関」により派遣されたとすると、資料の「不均衡」の説明が付きません。「伊吉博徳」の「言葉」として書かれた「細注」についても、「白雉四年側」だけに偏った情報であるように思われ、資料としてアンバランスであると思われます。
 このことは「八世紀」の『書紀』編集者は「白雉五年」の「遣唐使」について十分な資料を保持していなかったことを示すと考えられ、その派遣の主体が「八世紀」の「王権」に直接つながるような存在ではないことを物語っているようです。
 しかし、「遣唐使」という重要な外交に関する記録が不十分な形でしか残っていないのは不審と考えられますが、それにはある理由が存在していたと考えられます。これは「六八六年」に起きた「難波宮殿」の火災事故が深く関係していると考えられます。
 「古賀氏」によれば、この火災では「僧の公験」に関する書類が紛失し、そのことが、「聖武天皇」の「白鳳以来朱雀以前年代玄遠」という発言につながったものと考えられています。(注五)そして、この時「焼失」した「書類」はそれだけではなく「広範」に亘るものであり、その中には「宮廷内記録」「外交記録」などもあったものではないかと推定され、『書紀』編纂時には「難波朝廷」以降の「倭国王権」資料が少なかったのではないかと考えられます。
 つまり、記事の情報量の豊富な「白雉四年」の「遣唐使」は「諸国」としての「近畿王権」から選抜されたメンバーが多かったのではないかと考えられるのに対して、情報が不足していると考えられる「白雉五年」の遣唐使は「倭国」(特に「筑紫」に拠点があった勢力)によるものではないかと推察されるものです。
 「難波」に「副都」を設けたことにより「近畿王権」の占める比重が大きくなったことが「遣唐使団」の中枢に「親百済勢力」が多数を占める事となったと考えられるものです。
 そもそも「難波」に副都を設けることや「評制」を施行するなどのことは、「近畿王権」のサポートがない状態では、明らかに不可能なことと考えられるものです。
 その「近畿王権」は「百済」からの渡来氏族が多く、そのため選ばれたメンバーも「親百済系」が多かったのではないかと考えられ、そのような事情もあり「新羅道」(「北路」)を取ることを避けたものでしょう。そして、その結果の「遭難」となったものと推察されます。
 これに対応するため「筑紫」の「旧主流派」とも言える「新羅系氏族」を中心とした選抜メンバーにより後続の遣唐使団が急遽編成され、続けて発遣されたものと推察します。

 「新羅」が「唐服」を着用して現れた際にこれに激怒し追い返した中心人物は「巨勢氏」と考えられますが、彼らは「百済系」」の渡来氏族と考えられ、彼らが中心メンバーとして「難波朝廷」内で発言力を増していたことが「遣唐使団」の構成にも影響を与えていたものと思料します。
 彼(「巨勢コ太」)は「高向玄理」と同時期に同じ位階を持っていたものですが、その後「位階」に差が付くようになっていきます。
 「高向玄理」は「新羅」に派遣された際の肩書きが「小徳」と書かれており、これは「推古紀」に定められたという「冠位十二階」の上から二番目です。
 また、彼は「僧旻」と共に「八省百官」を定めたとも書かれており、「国博士」という高位にあり、大臣クラスであったことは確かでしょう。

「六四五年」天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌 以沙門旻法師 高向史玄理爲國博士。
「六四六年」大化二年九月。遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質。遂罷任那之調。黒麻呂更名玄理。
「六四九年」大化五年二月 是月。詔博士高向玄理與釋僧旻。八省百官。

 彼と同じように「小徳」という冠位であったことが記されている「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」はその後「左大臣」「右大臣」となっており、彼らとこの頃まではほぼ同格の扱いであったものと考えられます。
 ところが、この「六五四年」の遣唐使の際の「冠位」は「大華下」となっており、これは上から「八番目」に下がっています。
 さらに、「巨勢臣徳太」「大伴連馬飼」が「左右大臣」に任命されていますが、それ以前は「小紫」であったとされていますから、この段階ですでに「二段階」低くなっており、さらに彼らは「大紫」に昇格したわけですから、いっそう差がついてしまったこととなります。

「六四九年」大化五年夏四月乙卯朔甲午。於小紫巨勢徳陀古臣授大紫爲左大臣。於小紫大伴長徳連。字馬飼。授大紫爲右大臣。

 また、「六五〇年」の「白雉」が献上され、「改元」される際に、「倭国王」から「故事」に類似の瑞祥の出現があったか問いただされているメンバーの中には「高向玄理」の名前はありません。「国博士」という地位にあったものであれば、当然この場にいなければならないものと思えますが、朝廷内での発言力が相当程度低下していたと考えられるものです。
 このように「難波遷都」以降「百済」系氏族の台頭が著しく、「高向氏」などの旧主流派の没落が著しかったものと考えられ、それが「遣唐使団」のメンバーの選抜にも大きく影響していたものと思料します。


結語
一.「連年の遣唐使」は共に「倭国」からの遣唐使であると考えられること。
二.ただし、この二つの遣唐使団には「性格」の違いがあったと考えられ、「白雉三年」の方が「百済系氏族」が中心メンバーであり、「白雉四年」の方が「新羅系氏族」を中心メンバーとしているのではないかと推量されること。

以上を推論しました。


(注)について
(一)古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」古田史学会報八十五号によります。
(二)正木裕「日本書紀、白村江以降に見られる『三十四年遡上り現象』について」古田史学会報七十七号、「朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)」古田史学会報七十八号、「日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)」古田史学会報七十九号他関係諸論をご参照願います。
(三)王勇(浙江工商大学日本文化研究所)「遣隋使と江南文化」二〇〇七年十月十八日浙江省馬寅初人口基金会主催公開講演会によります。
(四)古田武彦「失われた九州王朝」角川文庫
(五)古賀達也「「白鳳以来、朱雀以前」考 『続日本紀』神亀元年、聖武詔報の新理解」古田史学会報八十六号



参考資料
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系新装版『日本書紀』(文庫版)」 岩波書店
青木和夫・笹山晴生・稲岡耕二・白藤礼幸校注「 新 日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
宇治谷孟訳「日本書紀(全現代語訳)」講談社学術文庫
宇治谷孟訳「続日本紀(全現代語訳)」講談社学術文庫
「日本書紀」「続日本紀」については「浦木裕氏」作成の「古語追慕」による表示サイトも利用(検索など)http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syokitop.htm(底本文獻:小學館新編日本古典文學全集『日本書紀』)