「古事記序文」と「天智」の関係について(これも未採用論文。投稿日付は二〇一二年四月六日。)
以下は「古事記序文」に書かれた「人物」について、それが「天智」を指すものであるということを論証しようと試みるものです。
一.「古事記序文」の「不審点」について
以下に「太安万侶」が記したという「古事記」の「序文」の一部を記します。
(以下の読み下しは「倉野憲司」校注の「古事記(文庫版)」によります)
「曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍元を體し ?雷期に應じき 夢の歌を開きて業を纂がむことを相はせ 夜の水に投りて基(もとひ)を承けむことを知りたまひき 然れども天の時未だ臻らずして 南山に蝉蛻(せんぜい)し 人事共洽(そな)はりて 東國に虎歩したまひき 皇輿(こうよ)忽ち駕して 山川を浚え渡り 六師雷(いかづち)のごとく震ひ 三軍電(いなづま)のごとく逝きき 杖矛威(いきほひ)を擧げて 猛士烟のごとく起こり 絳旗兵(つはもの)を耀(かがや)かして 凶徒瓦のごとく解けき 未だ浹辰を移さずして 氣れい自から清まりき 乃ち牛を放ち馬を息(いこ)へ ト悌して華夏に歸り 卷き旌(はた)を戈(ほこ)おさめ ?詠して都邑に停まりたまひき 歳(ほし)大梁に次(やど)り 月侠鍾に踵(あた)り 清原の大宮にして 昇りて天位即きたまひき 道は軒后に軼ぎ コは周王に跨えたまひき 乾符を握(と)りて六合(りくごう)をハべ 天統を得て八荒を包ねたまひき 二氣の正しきに乘り 五行の序を齊へ ~理を設けて俗(ならはし)を奬め 英風を敷きて國を弘めたまひき 重加(しかのみにあらず)智海は浩瀚として 潭く上古を探り 心鏡は?煌として 明らかに先代を覩たまひき 是に天皇詔りたまひしく 朕聞きたまへらく諸家もたる帝紀及本辭 既に正實に違ひ 多く虚僞を加ふ、といへり 今の時に當りて 其の失を改めずは 未だ幾年も經ずして 其旨滅びなんとす 斯れ乃はち邦家の經緯 王化の鴻基なり 故惟れ帝紀を撰録し 舊辭を討覈して 僞はりを削り實を定めて 後の葉(よ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ 時に舍人有りき 姓は稗田名は阿禮 年是れ廿八 人と爲り聰明 目に度れば口に誦み 耳に拂るれば心に勒しき 即ち阿禮に勅語して 帝皇日繼及先代舊辭を誦み習はしめたまひき 然れども運(とき)移り世異(かは)りて 未だ其の事を行なひたまはざりき」
この「序文」は「元明天皇」に向けて書かれた「上表文」であるとされています。そして、従来この「序文」には「天武」が描かれていると考えられてきました。それはここに書かれた「即位年次」と『書紀』の記載が合致するのは「天武」しか居ないという理由が最大の理由であったと思われます。しかも、即位の前に「壬申の乱」を彷彿とされる「闘争」が描かれており、そのこともあり、ここに書かれた「天皇」を「天武」とする見解は「定説」となっています。
しかし、この「序文」に示されている「闘争」の経過を「注視」すると『書紀』に書かれた「壬申の乱」とは「明らかに」食い違っていると思われます。このことについては、既に「古賀氏」により論究が為されており、(注一)それによれば、戦いに至る「動機」、戦いに至る「過程」などにおいて明らかに『書紀』に描かれた「壬申の乱」とは異なるものとされていますが、これについては『書紀』と「古事記」の「編集姿勢」の違いであると考えられているようです。つまり、ここに書かれた「闘争」の描写は「壬申の乱」であり、また描かれた中心人物が「天武」であるというのは既に「定まった」事として書かれています。
「氏」の「論」の中でも「『古事記』序文の「壬申大乱」記事」というように表現されており、「無条件」にここで描写されている「戦い」が「壬申の乱」であると決めておられるようです。(これに果敢に挑んでいるのが「西村氏」であり、この人物を「文武」であるとされています。)(注二)
他の諸論を見回してみても、ここに書かれた「戦い」が「壬申の乱」であり、またこの「人物」が「天武」であると言う事については「自明の前提」とされているようであり、深く検討された様子が見受けられませんが、既に指摘されている記事内容の「齟齬」に加え、以下の点にも「不審」と考えられる点があり、これらの記事を総合して考えると、この「序文」記事の主人公と『書紀』の「壬申の乱」を戦った「天武」とは別人ではないかという疑問を感じるものです。
この「序文」の中では「明日香清原大宮御宇天皇」という人物が別に居る中で、「潜龍」として描かれています。この「潜龍」という用語については「皇位継承権」のある「太子」の事を指すとされていますが、そうであれぱ「皇位」に即くのに「武力」に物を言わせる必要がないわけであり、逆にこの書き方はこの人物には「正当な継承権」がなかった事を示すものと考えられます。
この「潜竜」という用語は「懐風藻」の中で、「大津皇子」についても使用されており、彼も「謀反」を起こしたわけであり、使用例としては「造反者」の意味があるのではないでしょうか。
また「昇即天位」、つまり「昇る」という言い方からも、この「人物」が「即位」の「正統」な権利を有していないものと推測できます。「草壁皇子」などは『書紀』では「日並皇子」と称され、これは「天皇」と代わらない「権威」と「地位」があったことを示す用語ですが、「潜竜」と言われている「大津」にはそのような「敬称」が付加されていません。つまり、「昇」という語が使用されている「序文」の人物の場合も、「大津」と同様「天皇」と同格あるいはそれに準ずると言うよりはもっと「低位」の位置にいたことを示唆します。
また、ここに書かれた「飛鳥清原大宮 御大八洲天皇」という「天皇」は通常「天武」自身を指すと考えられているようですが、その場合、その時点における「天皇」について「言及」がないこととなり、それもまた考えにくいものです。
この「潜龍」が上で見たようにまだ「帝位(皇位)」に付いていない「皇子」のことを言うとすると、この時点で存在したであろう「天皇」とは当然「別人」となります。そもそも「同一人物」について「天皇」と、「潜竜」という語が「並ぶ」こととなり、文章として整合しないと考えられます。
このように「両記事」の違いは『書紀』と「古事記」の「編集方針」の違いとか「表現方法」の違いというような「レベル」を超えていると思われ、この二つの記事は全くの「別物」であって、「別の時点」の「別の事象」を記したものではないかと推察されるものです。
二.「天智」と「八世紀」の「新日本国王朝」との関係
そもそも、この「序」が上表された相手である「元明」は「天智」の皇女とされています。それに対し「天武」は自分の夫である「草壁皇子」の父であるとされていますが、また「天智」の後継であった「大友」(元明の「異母兄弟」となる)を打倒して「即位」したものであり、そのような人物を(だけを)激賞するような「上表文」が有り得るのかというと大変疑問ではないでしょうか。
「天武」は「元明」の「父」である「天智」の形見とも言える「王朝」を「滅亡」に追いやった当人でもあるのです。そのような人物である「天武」は「元明」にとってある意味「不本意」な存在であったという可能性もあるでしょう。
少なくとも「元明」にとって誰よりも「依拠」すべき存在であったのは亡き父である「天智」であったと考えるのは当然でしょう。
そして、それは彼女だけではなく、「元明」の「即位の詔」や「聖武」の「即位の詔」などにも現れている「八世紀」の王朝全体の意志であったと考えられます。
たとえば、「慶雲四年(七〇七年)の「元明即位」の際には以下の詔が出されています。
「『近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長日月共遠不改常典』止立賜敷賜覇留法乎。受賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。」
また同じ「詔」の中で以下のような表現もされています。
「『又天地之共長遠不改常典』止立賜覇留食國法母。傾事無久動事无久渡將去止奈母所念行左久止詔命衆聞宣。」
これらについては、「持統」が「天智」が定めた「『不改常典』に基づいて」「文武」に「譲位」したように書かれていますし、自分もその「天智」の権威に基づいて同様に「皇位」を継承するというわけです。
また神亀元年(七二四年)に「元正」が「聖武」に「譲位」する際にも同様の記述があります。
「元明」「元正」の即位と譲位の際には「天智」の名前が出され、彼の権威に基づいて「皇位」が継承されているとされているのです。
このような「意識」ないしは「観念」を「王権」に連なっていたはずの「官僚」である「太安万侶」が知らなかったとは考えられませんし、それにも関わらず「天智」を賞賛するのではなく、「天武」を賞賛する上表文を提出したとしたら余りにも不可解であり、無思慮と言われるものでしょう。
このことから「古事記序文」で「天智」のことが全く書かれていないとすると大いに疑問と思われ、「古事記」の「序」に書かれて然るべき人物は「天智」ではなかったのかと考えられるものです。
以下にその可能性を考察してみます。
三.「即位年」と「即位場所」についての問題
上で推測したように「天智」が「古事記序文」の「主人公」であるとすると、そこに書かれた「即位」の年次と場所の違いが問題になると思われます。つまり『書紀』によれば、「天智」の「近江遷都」は「六六七年三月」であり、「即位」はその翌年の「六六八年正月」とされていて、これは「序文」とは大きく異なるわけですが、この「天智」の「即位」に至る道筋には従来から「不審」が呈されています。
『書紀』では「六六一年七月」という時点に「称制」という「倭国」ではそれまでなかった体制でスタートしています。そして、それが「六六八年」になって「正式即位」とされているわけです。
このような時間的スケジュールが不審であるのは当然であり、従来から、この「天智」の「即位」や「遷都」の年次については「疑問」とされていました。(注三)
そもそも「称制」とは、その「本義」として「後継」たる人物がいないか「幼少」ないしは「未成年」であるようなときに「皇太后」が代理で「国事」を遂行することであり、『書紀』に伝えられる「天智」(「中大兄」)の年齢で、しかも「皇太子」たる「本人」が「称制」するというのは、そのことが既に「矛盾」と言えるものです。(そのような例は古代中国には見られません)
また「遷都」についても、彼が「倭国王」であるなら、対唐・対新羅という戦いの前に、国土防衛体制を固めるのが順当であり、戦いが終わった後に「遷都」という『書紀』の記述は時機を失していると言わざるを得ません。
これに関しては「二〇一一年」に発見された「百済根軍墓誌」(拓本)(注四)に書かれた記事とも矛盾すると言えます。そこでは「百済」が滅ぼされた戦いの「直後」に「接して」「日本余礁」以下の文が続き、その中に「扶桑」という「想像上の『東方の果て』の地」に隠れているという意味の文章があり、このことは「遷都」はかなり早い段階で行われていたことを示唆するものです。
これらのことから考えて、即位の年月として書かれている「酉年の二月」という年次は、西暦で言うと「六六一年二月」のこととなると思われますが、「百済を救う役」が「六六〇年八月」には行われており、「倭国王」がその戦いに「親征」したと考えられることから、「天智」の行動は明らかに「それ以降」であると考えられ、そう考えると「戦い」があってその後「即位」したとして、それが「翌年二月」であったというのは「矛盾」はなく、「時系列」として「整合的」であると考えられます。
この「序」が「元明」に宛てた「上表文」であるとすると、「西村氏」が言うように「虚偽」を書くことは許されないと考えられ(注八)、であれば「酉年の二月」という即位年月は動かせないこととなります。つまり、疑わしいのは『書紀』に書かれた「天智」の即位年と遷都の時期であると言うこととなるでしょう。
つまり、「評制」隠蔽などで明らかになったように、『書紀』の記載が事実そのままではないことは明らかとなっていますから、この場合も「古事記序文」の方が正しいという可能性が強いと思われ、そもそも「古事記」の方が編纂時期としては「先行」していたと考えられますので、『書紀』を基準として「古事記」を見るという「方法論」自体に問題があるとも言えます。
「序文」の中でも「清原大宮 昇即天位」と書かれているように、「清原大宮」は「即位」の場所であって「統治」の場所ではありません。
この部分の文章の始めには「明日香清原大宮御宇天皇」というようにその段階での「倭国王」が「清原大宮」で統治したとされているわけですが、この事から「天智」も当初「清原大宮」ないしはその至近に所在していたものと考えられ、「華夏」というのも「清原大宮」であると考えるのが通常です。
彼が「業を纂がむ」という野心を持ち、行動を起こすきっかけとも言える出来事というのが、その「宮」に「倭国王」がいなかった、あるいは「いなくなった」ことがあると考えられます。
つまり、その時点で「天智」は「華夏」つまり「清原大宮」から「東国」に行き、そこでの戦いに勝利した後、また「清原大宮」に帰ってきて、そこで「即位」したというわけです。それが「酉年二月」、つまり「六六一年二月」であったというわけです。そして、その後(直後か)「近江」への遷都と言うこととなったものと思料され、この時「改暦」が行われた可能性があるものと考えられます。
この「序文」の内容からは「西村氏」も言うように「初代王」の即位ということが書かれていると考えられ(注五)、言葉を換えて言うと「革命」がこの時起きたことを示唆します。
これに関しては「天智」の数々の「治績」を確認してみると、そこにおいて「受命改制」を行なっているように見えます。
「受命改制」とは本来「天命」を受けたとする人物や王朝において、その「受命」の明示に始まり、「改暦」「国号変更」「制度改正」などが行なわれることを言います。(注六)
『書紀』によれば「天智紀」において、「幾種類」かの「瑞祥」を並べた後で「天命将に及ぶか」という一文が記載されており、これは「受命」の「明示」といえるでしょう。
「天智七年(六六八年)秋七月。于時近江國講武。又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇天命將及乎。」
そのような中に「漏刻」の使用に関する事があります。「漏刻」は「暦」の一部であり、ここで「漏刻」の使用開始が書かれていると言うことは「改暦」があったことを示唆するものです。(注七)
四.「辛酉革命」について
「八世紀」に入り『書紀』編纂の際に「辛酉革命」という考え方が起こり、そのため「天智」の行為は『書紀』の「神代巻」の中で「神武」に連結されることとなったものと思われます。
「辛酉革命」という讖緯(しんい)説の思想によれば、「辛酉」の年には「革命」が起こると言われていました。
特に一元(六十年)の二十一倍ないしは二十二倍にあたる「一蔀(いちほう)」(一二六〇年ないし一三二〇年)の「辛酉」の年には「大革命」があるとされていたようです。
「一蔀」の長さには解釈が複数あるようであり、「一三二〇年」ごとに革命があるという考え方でいけば、「六六一年」の「辛酉」と「神武」の「六六〇年」の「辛酉」が直接つながることとなります。(そのように『書紀』が編集されたのではないかと言う事です)
「平安時代」(「昌泰四年」(九〇一年))になって「文章博士」である「三善清行」が「革命勘文」(紀伝勘文)を著し、その中で「辛酉革命」論を展開するわけですが、その際に「神武天皇」即位と「天智天皇」即位が共に「辛酉年」であることなどを挙げるなど、「天智」は「神武」と並び称される存在であったものです。
以下「勘文」の原文(群書類従 第貮拾六輯 雜部」)
「(前略)伏望 周循三五之運 咸會四六之變 『遠履大祖~武之遺縦 而近襲中宗天智之基業』 當創此更始 期彼中興 建元號於鳳暦 施作解於雷散(以下略)」
この中で「天智」は「中宗」と呼ばれ、明らかに特別視されています。また「天智之基業」と書かれ、これは「天智」の即位がその後の「日本国」の「基」となったと云うことを意識した言葉であるとも考えられます。つまり、この年次付近になっても、と言うより時代が経ってなお「神格化」が進行した結果でしょう。
このような考え方は既に『書紀』編纂時にあったものであり、それを「拡大解釈」したのが「三善清行」であったと考えられるものです。
つまり、「神武」が「初代王」として描かれているのは「天智」が「初代王」であることの「直接」の反映であると考えられます。
五.「帝紀及本辭」について
上の「古事記」序文の中にある「削偽定実」の話は、そもそも不審です。「諸家」に「帝紀」があるという事も奇妙な話といえるでしょう。文の趣旨としても「諸家の所有する帝紀」が「正実」ではない、と言っているわけですが、もしそれが「正実」と違っていたところで「天皇家」にある「帝紀」が「正実」であると言えば良いだけのはずです。しかし、ここでは各氏族が個別に所有している「帝紀」を照らし合わせて「正統を伝えている」と認定されるものを選びだそうとしているようです。なぜそうしようとしているか、というとこの時の「天皇家」には「帝紀」がなかったからであり、それはその時の人物である「天智」が「初代王」だからであると考えられます。
彼は「革命」を起こしたわけですが、当時の「倭国」ではまだまだ「大義名分」というものが「統治」の際の大きなウェイトを占めていたと考えられ、「初代」であることは逆に「統治」の障害となる可能性が高く、このため「初代王」であることを「隠そう」としたもののようです。そのため、「制圧」した領域である「近畿」の地に以前から勢力を張っていた「近畿王権」の系譜に連なろうとしたものです。
「古田氏」が指摘したように「五経正義」の「序」と「古事記」の「序」は「酷似」しています。(注九)「五経正義」の場合は「焚書坑儒」により多数の「書」が失われたものですが、「古事記」の場合は「天智」が「初代王」であるがために「連綿」として継続した「帝紀」などが「自家」にあるはずがなく、そのため「諸家」の所有する書を集め、その中から「適当」なストーリーを選び出し、それを新たな「帝紀及本辭」として選定し、それに対して「読み下す」よう「天智即位」からほど近い時点で「稗田阿礼」に対して命じられたものと思料します。
「八世紀」になってから、あらためて「史書」編纂事業が始められ、その時点でまだ「存命」していた「稗田阿礼」に、記憶していたものを思い出させて読ませ、それを「太安万侶」が書き写したものが「古事記」であると考えられます。
このように「史書」編纂着手が長引いたのはもちろん、「天智」が始祖となった「近江朝廷」が、壬申の乱で「滅亡」したためであり、以降「倭国王権の統治」が継続したため、その機会がなかったという「やむを得ない事情」によるものと思われます。(注十一)
それは「上」に挙げた「序文」の末尾に「然れども運(とき)移り世異(かは)りて 未だ其の事を行なひたまはざりき」と「言葉少な」に書かれているところからも察せられるものです。
ここでは「理由」も何も示されず、ただ、「まだ行われていない」とだけ述べられているわけです。あえてその「理由」とか「事情」について触れないのは、書くに忍びない事情があったものであり、そのことをこの文章は言外に表現しているようです。
「天智」が王朝を創始したことを『書紀』が明確に書いていないのは、このように「大義名分」の問題があるからであると思われます。彼らは「持統」、つまり「倭国王」からの「禅譲」を「装って」居ますから、「天智」が「革命」を起こした人物であるとすると代々の「倭国王」が持っていた「大義名分」が「文武」以降の「新日本国」王朝に「継承」されていないこととなってしまいますから、明確に書くわけにはいかなかったものと思料します。
しかし、この「古事記」にはそれが「明確」に書いてあったものでしょう。このことが「古事記」を歴史から消え去る原因ないしは動機となったものと考えられます。
結語
一.「古事記」の「序文」に書かれている内容は、『書紀』の「壬申の乱」の記事とは食い違っており、この人物は「天武」ではないと考えられること。
二.「八世紀」の「新日本国王朝」にとって「天智」という人物は「特別」の存在であり、その「権威」に、自らの「権威」の根拠を求めていたこと。
三.彼は「倭国王」が「百済」での戦闘に「親征」している間「不在」である「清原大宮」で「六六一年二月」に「即位」したものと推量され、この行動は「初代王」としての「革命」であったと考えられ、彼は「受命改制」を行ったと考えられること。
四.「辛酉革命」の起点の年次とされているのが「天智」であると考えられ、「八世紀」の「王朝」からは「始祖」とされ、また彼の「革命」が正当化されたと考えられること。
五.「天智」は「帝紀及本辭」を書き換え、自己に都合のいい史書を造ろうとしたと考えられること。「古事記」が抹殺された理由は「天智」が「革命」を起こしたことが明確に分かると前王朝からの大義名分の相続に問題が発生すると考えられたものと推定されること。
以上により、「古事記」序文に書かれている人物は「天武」ではなく、「天智」である「蓋然性」が高いものと推量しました。
(「補論」)「夜水」と「南山」について
「天智」の本拠としては(「神武」がそうであったように)「筑紫」であったと考えられ、「夜水」や「南山」とは「筑紫」の「川」や「山」を指すと考えられます。これについては、古賀氏が主張するように(下記注(一))「筑後川」と「高良山」を示すと考えるのが妥当ではないでしょうか。
雨などで増水するなど氾濫原となるのはもっぱら下流地域であり、「板東太郎」「筑紫次郎」「四国三郎」という本来の「倭国」領域内での三大「暴れ川」のひとつとして古代から知られていたと考えられる「筑後川」においても、主に「下流域」での氾濫であったと考えられ、「浮羽」を過ぎて「久留米」以降においてかなりの蛇行を示していたらしく、現在の「市」の境界線にもそれが如実に表れています。このため「集中豪雨」などあると「一夜」で「状況が一変する」こととなったものと考えられ、それがために「一夜川」と名付けられたと推測され、「漢文」修辞のためここでは「夜水」と替えられて文章の中に登場したものと考えられます。同様な例は他にもあり、いずれも関東の地に残る碑文であり、またかなり後代の例ではありますが「力田遺愛碑」には「利根川」を「利水」と表記しており、「岡上景能紀功碑」では「榛名山」を「榛山」と記しています。また、「新井慎斎翁遺徳碑」では「鳥居嶺」を「鳥嶺」と記すなど、いずれも「漢文」表記上の事情により「縮約」しており、これらと同様の例(先例)であったものと推量します。
また、ここで「筑後川」の別名のうち特に「一夜川」から取っているのは、「開『夢』歌」の「夢」という言葉の連想から「夜」という単語が「対句」として選ばれたという事情であると推量します。
また「南山」は「風土記」の「筑紫君磐井」の段でも登場する「南山」と同じと考えられ、その場合少なくとも「豊前」の南方の山々と考えられますので、明らかに「九州島」の内部の話であることとなります。
本来「倭国王朝」の首都は「筑紫」であるわけですから、ここの「南山」などの用語も「本来」の使用形であると考えると不自然ではありません。(「天智」も「薩夜麻」も「筑紫」に元々いたわけですし、「天智」の娘である「元明」もそれを十分知っているはずです。)
(注)について
(一)古賀達也「『古事記』序文の壬申大乱」古田史学会報No.六十九号
(二)西村秀己「削偽定実の真相 ー古事記序文の史料批判ー」古田史学会報第六十八号
「西村氏」はこの「序文」の人物を「天武」ではなく「文武」とされています。しかし、ここに描かれた人物が「文武」であるとすると、その前段に書かれた「戦い」を「壬申の乱」と考えることは困難でしょう。なぜなら、西村氏の提示された疑問である「天武が稗田阿禮に詔勅を下したのが天武の最晩年である朱鳥元年(西暦六八六年)であったとしても、この時から元明が執筆命令を発動した和銅四年(西暦七一一年)まで二十五年もある」というものが依然として残ることとなります。「太安万侶」の奏上の日時は「序文」に「和銅五年正月二十八日」とありますから、「即位」した「天皇」が「文武」であるとすると、「即位」の「前段」に書かれた「戦い」の時期もこの日付に接近していることとならざるを得ません。しかし、そのような戦いが「七世紀末」にあったというどんな「徴証」も『書紀』や「続日本紀」には見あたりません。この点が大きな問題なのではないでしょうか。
(三)これについては「前倭国王」の「服喪期間」であったという説もあるようですが、「七世紀」のはじめに「前方後円墳」の築造停止が行われて以降「墳墓」の造営期間は短縮されたと考えられ、このような「長期」の「服喪期間」を想定するのは困難であると考えられます。
(四)「二〇一一年」に「中国」で「百済禰軍」の「墓誌」というものが(「拓本」が)発見されました。その「墓誌」中に「対倭」「対半島」情勢として書かれた中に「僭帝」という表現がされている人物がおり、「私見」ではそれを「天智」と分析したものです。
(五)(二)に同じく西村秀己「削偽定実の真相 ー古事記序文の史料批判ー」古田史学会報第六十八号によります。
(六)藪内清「中国の科学」中央公論社
(七)増田修「倭国の暦法と時刻制度」市民の古代第十六集 市民の古代研究会編。この中で「増田氏」により「延喜式」中に書かれた「漏刻」の「刻法」が「儀鳳暦」とも「元嘉暦」とも整合しない記述があるのが指摘され、それにより「漏刻」の開始と「正体不明」の暦(後漢四分暦か)の使用開始が同一なのではないかと推測されています。
(八)西村秀己「削偽定実の真相 ー古事記序文の史料批判ー」古田史学会報第六十八号。この中で「西村氏」により打ち出された「概念」です。
(九)古田武彦「邪馬壹国の展開」「多元的古代の成立(下)」所収 駸々堂
(十)森博達「『日本書紀の謎を解く』述作者は誰か」中公新書によります。この中では『書紀』は「当初」「唐人」により「持統朝」である程度書かれていたと推定されています。
(十一)「私見」では「壬申の乱」は「補囚」から帰国した「薩耶麻」による「倭国王」復権のための戦いであったと考えていますが、詳細は別稿とします。