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その一


「白雉」年間の「遣唐使」についての考察(その一) −「伊吉博徳言」の「今年」を中心として−

ここでは、「日本書紀」(以下『書紀』と表記します)の「白雉」年間に派遣された「遣唐使」について各種の考察をします。


一.「伊吉博徳言」の「今年」についての考察

 『書紀』の「白雉四年」と「五年」には連年の「遣唐使」発遣記事があり、その「白雉五年」の「遣唐使」記事に続いて「伊吉博徳」の言葉が書かれています。

「孝徳紀」
「(白雉)四年(六五三)夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹 副使小乙上吉士駒 駒更名絲 學問僧道嚴 道通 道光 惠施 覺勝 弁正 惠照 僧忍 知聰 道昭 定惠 定惠?大臣之長子也 安達 安達中臣渠?連之子 道觀 道觀春日粟田臣百濟之子 學生巨勢臣藥 藥豐足臣之子 冰連老人 老人真玉之子 或本以學問僧知弁 義コ 學生阪合部連磐積而杳○一百二十一人 ?乘一船 以室原首御田為送使 又大使大山下高田首根麻呂 更名八掬脛 副使小乙上掃守連小麻呂 學問僧道福 義向并一百二十人 ?乘一船 以土師連八手為送使。」

「白雉五年(六五四)二月 遣大唐押使大錦上高向使玄理 或本云夏五月 遣大唐押使大花下高向玄理 大使小錦下河邊臣麻呂 副使大山下藥師惠日 判官大乙上書直麻呂 宮首阿彌陀 或本云判官小山下書直麻呂 小乙上岡君宜 置始連大伯 小乙下中臣間人連老 老此云於唹 田邊使鳥等分乘二船留連數月 取新羅道泊於?周 遂到于京奉覲天子.
 於是東宮監門郭丈舉悉問日本國之地里及國初之神名 皆隨問而答.
 押使高向玄理卒於大唐.」

「伊吉博徳言 學問僧惠妙於唐死 知聰於海死 智國於海死 智宗以庚寅年付新羅舩歸 覺勝於唐死 義通於海死 定惠以乙丑年付劉コ高等舩歸 妙位 法謄 學生氷連老人 高黄金并十二人別倭種韓智興 趙元寶『今年』共使人歸。」
 
 ここで派遣されたこの「連年」の「遣唐使」は別に示す理由により、「日本国」(近畿王権)が独自に送った遣唐使というわけではなく、あくまでも「倭国」からの「遣唐使」達と考えられるものです。
 ただし、その性格は明らかに異なるものであり、それは「遣唐使団」の構成の違いでもあり、また出身母体の違いでもあると考えられます。
 つまり「白雉四年」の遣唐使は「新百済系氏族」で構成されており、どちらかと言えば「近畿王権」系の人物達であったと考えられるのに対して、「白雉五年」の方の「遣唐使団」は「親新羅系氏族」の人物達であり、「筑紫」に本拠のある「九州倭国王朝」系の人員で構成されていると考えられます。ただし、あくまでもこれらの遣唐使団は「倭国」からの遣唐使であり、この時点では「諸国」も含め「統一倭国王」が存在しており、その号令の元派遣されたものと思料されます。
 そのあたりの事情については後述します。

 ところで、「上」に挙げた記事の中の「最後」にある「伊吉博徳言」の中の文章中に「今年」とあり、これがいつの事なのかについては考察します。
 この「今年」については従来から諸説があるようです。「体系」の「注」では「『天智三年』から『七年』の間の某年」とされており、不定と考えられているようです。また、「天智四年」(六六五年)という説もあり、「正木裕氏」も「天智四年」説を採られたようです。(注一)
 体系の「補注」には「正木氏」も引用されたように「各種」の学説が書かれていますが、いずれも納得できないものです。
 以下に理由を述べます。

(一)そもそも「体系」の「注」にあるような「某年」というのはあり得ません。そこには「使人と共に帰国」したというように「唐」から「遣唐使」が帰国した際に同行したと書かれており、そうであるなら、それは『書紀』ないしは「続日本紀」に必ず記載があるはずです。確かに最初の「遣隋使」(六〇〇年)などは『書紀』に記載がありませんが、それとは違いこの場合は「派遣した記事」そのものはあるのですから、帰国記事がないはずはないと考えられます。

(二)この「今年」が「白雉五年」とする説は、この「伊吉博徳言」という「談話」様なものが「六五四年」の「白雉五年」の条に書かれている事を根拠としているわけですが、それでは「遣唐使」として送られたにも関わらず、直後に帰国したこととなり、あり得ないと思われます。
 「遣唐使」は通常「学業」や「僧侶」としての「修行」などにかなり時間を要するのが普通であり、「代表者」やいわゆる「送使」などは派遣された他の人間達を送り届ければ帰国するのは当然ですが、それ以外の選抜された人達は短い期間で帰国することは予定されていなかったと考えられます。彼らは「学業」、あるいは「仏教修行」などを「多年」にわたって行うべきとされていたと考えられ、翌年に帰国していると考えるのは、はなはだ不審であることとなります。

(三)ここで使われている「今年」という言葉は「是年」とは違うと考えられます。つまり「今年」というのは「伊吉博徳」が「遣唐使」として送られた人物達の消息を「語っている」その「現在時点」としての「今年」であると考えるべきです。つまり「今年」は「いつなのか」という質問は即座に「この記事」が「伊吉博徳」により「話されたのはいつなのか」と言うことと同じ事となります。
 それを示すものは彼「伊吉博徳」が「話している」この文章中にあります。この「共使人歸」という部分までが彼の「言」の内容と考えられるわけですが、そう考えると、ここには「年次」が書かれている部分があり、そのうち「最も遅いもの」は「智宗以庚寅年付新羅舩歸」という部分に書かれた「庚寅年」(六九〇年)です。つまり、この「今年」というのは、少なくともこの「庚寅年」(六九〇年)よりも「後年」のことと考えざるを得ません。
 この部分が後からの「補入」でない限り、この年次が「今年」の下限と考えられます。そうでなければ、この部分は現在(今年)よりも先の事(未来の事)を話していることとなる「矛盾」が発生してしまいます。

(四)他の説の中には「伊吉博徳」が、「坂井部連磐積」を「熊津都督府」から「筑紫都督府」に送ってきたという「司馬法総」なる人物を「送り返す」という職務を果たして帰国した「天智七年」という年次が「今年」であるというものもあります。(注二)しかし、「伊吉博徳言」とはすなわち「伊吉博徳」の語ったところによると、という事であり、この説に従えば「自分自身」を「使人」と呼称した事となり、はなはだ「不審」な物言いではないでしょうか。この「使人」とは通常、他人を指して言う用語と考えられます。更に上で見たように「天智七年」が「今年」というのであれば「庚寅年」という年次表記との「矛盾」が説明できません。この事は「天智七年」という説も疑わしいこととなると考えられます。

(五)では「庚寅年」(六九〇年)以降のいつなのか、ということとなりますが、ここに書かれた「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶今年共使人歸。」は合計十八名になり 、かなり多量の人数と考えられ、これほどの数の人間の帰国は「遣唐使船」が用意されなければ実現できなかったものと思われます。「新羅船」などを想定する場合は、彼らの様に多数の人間がなぜ「新羅」にいるか、ということが疑問とならざるを得ず、「唐」から「新羅」まで帰国途中であったと推定することとなりますが、「定恵」や後の「大伴部博麻」の帰国の際に一緒であった「大唐學問僧智宗、義徳、淨願」のようにせいぜい「三〜四人」程度なら理解できますが、「総勢十八名」が「一斉に」帰国途中であって、「新羅」まで来ていたと想定するのは無理があるものと思われます。
 また、この「新羅」が「百済」(「熊津都督府」)であったとしても、事情は同じです。なぜ「熊津都督府」にそのような多数の遣唐使が滞在しているのかがやはり「疑問」とならざるをえないのです。
 たとえば「遣唐使」であった彼らを「唐」が「強制送還」したという可能性を考えてみても、そのようなことが実際に行われたとすると、「唐」と「倭国」の間が戦争状態にあるときかその「直前」こそふさわしい時期であるものと考えられ、「天智七年」(六六八年)という戦争も終結して久しい時期に「送還」される理由も不明と考えられるものであり、ましてや「庚寅年」以降であるとするとそれは甚だしい「矛盾」となると考えられます。

(六)さらに「共使人歸」という表現は「彼ら」と「使人」が「共に帰ってきた」という表現であり、「使人」も「帰国」した、ということと考えざるを得ません。すると「使人」も「倭人」であるという事を示していると考えられます。これは「劉徳高」などの「唐使」には似つかわしくない表現であると考えられるものです。
 「伊吉博徳言」の中でも「付新羅舩歸」とか「付劉コ高等舩歸」というように、外国の船で帰国した場合は「付〜帰」という表現を使用しており、区別されているようです。このことから、ここでいう「使人」は「倭人」を意味するものと考えられ、「唐」や「新羅」などの「外国船」で帰国したというわけではないと推察されるものです。

 以上のことから考えると「八世紀」最初の遣唐使の帰国である「慶雲元年(七〇四年)」が「今年共使人歸」の「今年」に該当すると考えるのが妥当ではないでしょうか。
 つまり「使人」とはこの時の「遣唐執節使」である「粟田真人」を指すものと考えられます。
 
 そもそも「遣唐使」は「六六九年」の「小錦中河内直鯨」等の「遣唐使」を最後に長期間(三十年以上)途絶えていたわけであり、その間前記したように「新羅」の船で帰ってくる者もいたと思われますが、大多数の人間は「帰るに帰れない」状態となっていたものでしょう。つまり、ここに消息を書かれた「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶」達は非常に長い間「唐」に滞在していたと考えられます。
 この時の「遣唐使」は「大宝元年」(七〇一年)に発遣され(実際にはその翌七〇二年六月に船出したようですが)、「慶雲元年」(七〇四年)の秋に帰国したようです。また、この時の遣唐使船を(たまたま)利用して帰ってきた人たちの記事が「続日本紀」にあります。

「続日本紀」「慶雲四年(七〇七)五月癸亥 讚岐國那賀郡錦部刀良 陸奧國信太郡生王五百足 筑後國山門郡許勢部形見等各賜衣一襲及鹽穀 初救百濟也 官軍不利刀良等被唐兵虜沒作官???餘年乃免 刀良至是遇我使粟田朝臣真人等隨而歸朝 憐其勤苦有此賜也.」

 彼らは「斉明七年」の「百済を救う役」に「大伴部博麻」などと同様「捕虜」になったものと考えられ、その彼らと一緒に「伊吉博徳」が挙げた人間達も帰国したものと推定されるものです。
 彼ら(刀良、五百足、形見)がここに特記されているのは、彼らが戦争に参加し捕虜になり、その後非常に苦しい人生を送らざるを得なくなったからであり、「大伴部博麻」と同様彼らの「忠孝」精神を称揚する事が目的であったと思われます。
 しかし、「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶」達は元々「遣唐使」であり、唐において学業等に励む事が仕事であったわけで、滞在期間が長かったとしても別に「不遇」な人生というわけでもなかったと判断されたのでしょう。そのため、帰国に際して「特記」すべき事情がなかったものと判断され、記事として残っていないのではないかと推察されるのです。

 『書紀』にはこの「壱岐博徳言」と同様「細注」の形で書かれている部分があります。たとえば、近江朝廷の人事を記した記事部分を見ると、以下のように書かれています。

「(天智)十年(六七〇年)春正月癸卯(中略)是日以大友皇子拜太政大臣 以蘇我赤兄臣爲左大臣 以中臣金連爲右大臣 以蘇我果安臣 巨勢人臣 紀大人臣爲御史大夫。「御史。盖今之大納言乎。」

 この最後の「御史。盖今之大納言乎。」という部分が「細注」の部分であり、ここは『書紀』編纂者が、その「編纂時点」で書き入れているものです。ですから、「御史とは『今』の大納言のことか」という「今」が「八世紀」の『書紀』編集時点であると考えるのは当然です。(ただし、「大納言」という官職は「飛鳥浄御原律令」で始めて制定されたものではあります。)
 この「今」と同じ用法として「今年」があるのではないでしょうか。

 「伊吉博徳」についていうと、彼は「八世紀」に入って『大宝律令』撰定に関わった人物として「続日本紀」にその名前が書かれています。

「続日本紀」「文武二年(六九八)六月(中略)甲午 勅淨大參刑部親王 直廣壹藤原朝臣不比等 直大貳粟田朝臣眞人 直廣參下毛野朝臣古麻呂 直廣肆伊岐連博得 直廣肆伊余部連馬養 勤大壹薩弘恪 勤廣參土部宿祢甥 勤大肆坂合部宿祢唐 務大壹白猪史骨 追大壹黄文連備 田邊史百枝 道君首名 狹井宿祢尺麻呂 追大壹鍜造大角 進大壹額田部連林 進大貳田邊史首名 山口伊美伎大麻呂 直廣肆調伊美伎老人等 撰定律令 賜祿各有差」

「続日本紀」「大宝元年(七〇一)八月癸夘三 遣三品刑部親王 正三位藤原朝臣不比等 從四位下下毛野朝臣古麻呂 從五位下伊吉連博徳 伊余部連馬養 撰定律令 於是始成 大略以淨御原朝庭爲准正 仍賜祿有差」

「続日本紀」「大宝三年(七〇三)二月丁未 詔從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人 預定律令 宜議功賞 於是古麻呂及從五位下伊吉連博徳並賜田十町封五十戸 贈正五位上調忌寸老人之男田十町封百戸 從五位下伊余部連馬養之男田六町封百戸 其封戸止身田傳一世。」

 このように『大宝律令』選定という事業に関わり、その「功」を認められ、多大な褒賞を受ける栄誉に浴しています。そして、この「褒賞」を受けたのは、推定される「今年」である「七〇四年」の「前年」のことです。
 彼は「倭国」の外交の第一線で長年活躍してきた人物であり、この時点でその詳細を記録した「覚書」の様なものを残そうとしたと考えたとしても不思議ではありません。そして、それが「伊吉博徳書」として『書紀』の「斉明紀」に「遣唐使」派遣記事の「注」として引用されているものと考えられます。
 こういう一種「回顧録」のようなものが、自分の一生の終わり近くに「自分の人生の総括として」書かれるものであろう事を想定すると、それが書かれたのがこの「律令選定」修了時点であると考えるのは「自然」です。もちろん「メモ的」資料は以前からあったと考えられますが、それが「書」としてまとめられたのは「八世紀」に入ってからと思料するものです。
 その「伊吉博徳書」と『書紀』中の「伊吉博徳言」というものが「同系統資料」であることは明白であり、この二つは「同一内容」か、「同一時点」での記録と考えられます。つまり、この「伊吉博徳言」という記事は、「八世紀」に入ってから「話された」可能性が高いものと思われます。
 そもそも『書紀』自体が「八世紀」に入り「七二〇年」という完成時期まで編纂が続いていた事は明白と考えられ、その「八世紀」の朝廷に彼は参画していたわけですから、彼への直接取材があったとしても不思議ではありません。
 
 以上のことから「伊吉博徳言」の「今年」とは「七〇四年」のことであり、しかも「遣唐使帰国後」の事と考えると「秋七月」という帰国日時以降年末までのどこか、と考えるのが有力と思慮されるものです。しかもこの「秋七月」というのは「筑紫」「大宰府」への到着日時と考えられ、「朝廷」への帰朝報告はその年の「一〇月辛酉」とされていますから、更に時期は限定できると思われます。

 もし「今年」というのが「七〇四年」ではなく、彼らの帰国がもっと早かったとする場合(たとえば「天智四年」(六六五年)の「劉徳高」の来倭の時期など)、それは「伊吉博徳書」のもっと早い完成を想定する場合や、もっと早い時期に彼の話を聞いて書いたとする場合に想定しますが、その場合「智宗以庚寅年付新羅舩歸」の一文を後になって付加したと考えざるを得なくなるわけであり、そう考えるにはそれを証明する(ないしは「示唆する」)別途の記録などの存在が不可欠と考えられます。

二.「薩耶麻の帰還」と「大伴部博麻」の「献身」の関係
 この「今年」については、「岸俊男氏」にこれに関する議論があり、(注三)そこでは『「今年」は文中に「庚寅の年(持統四)がある以上、それ以後とすべきであろう』とし『この使人を遣唐使とすれば、「慶雲元年」以外になく』とも書いており、ほぼ同様の思惟進行をしていると見られますが、結論として「やや遅すぎると思う」とされ、また『「大伴部の博麻」の帰国の年次と矛盾する』とも言われており、結局「棄却」されています。つまり、「大伴部博麻」の帰国の際の「持統天皇の詔」と矛盾すると考えられたためのようです。
 以下「持統天皇」の「詔」を見てみます。
(以下の書き下し文は「岩波」の「古典文学体系『日本書紀』」に準拠しました)

「持統四年(六九〇)冬十月乙丑 軍丁築後國上陽刀iかみつやめ)の郡の人大伴部博麻に詔して曰く 天豐財重日足?天皇の七年に、百濟を救う役(えだち)に 汝唐の軍の為に虜(とりこ)にせられたり。天命開別天皇三年に?(およ)びて、土師連富杼 冰連老 筑紫君薩夜麻 弓削連元寶兒 四人 唐人の計る所を奏聞(きこえまう)さむと思欲(おも)へども、衣粮無きに?りて、達(と)づくこと能わざることを憂ふ。 是(ここ)に博麻、土師富杼等に謂(かた)りて曰く「我、汝と共に『本朝(もとつみかど)』へ還り向(おもむ)かむとすれども、衣粮無きに?(よ)りて?に去(ゆ)くこと能わず。願(こ)ふ、我身を賣りて、衣食に充(あ)てよ。」富杼等、博麻の計(はかりこと)の依(まま)に「天朝(みかど)」に通(とづ)くこと得たり。汝、獨り他界に淹(ひさ)しく滯(とどま)ること、今に三十年なり。朕、厥(そ)の「朝」(みかど)を尊び國を愛(おも)ひて、己(おのがみ)を賣りて忠(まめなるこころ)を顯すことを嘉ぶ。故に務大肆并びに?(ふとぎぬ)五匹綿十一屯布三十端稻一千束水田肆(四)町賜ふ。其の水田は曾孫に及至(いた)せ。三族の課役を免(ゆる)して、以って其の功を顯さむ。 とのたまふ。」

 つまり「大伴部博麻」が「筑紫君薩夜麻」達「四人」のために「体」を売って帰国資金を捻出した結果、「富杼等任博麻計得通天朝」ということとなったとされており、「富杼等」という中に「氷連老」という人物が含まれていたと考えると「七〇四年帰国」という推測とは「矛盾」となると言うわけです。
 また、もし「富杼等」という中に「氷連老人」が含まれておらず「七〇四年」に帰国した中にいるとすると、体を売って帰国に尽力したはずの相手よりも自分が先に帰国したこととなってしまい、それもまた「矛盾」と考えられる、ということのようです。

 この「大伴部博麻」への「顕彰」の「詔」で名前が出ている「氷連老」は、前述の「伊吉博徳言」の中で「妙位・法謄・學生氷連老人・高黄金并十二人別倭種韓智興・趙元寶今年共使人歸。」と書かれた中にその名前がある「學生氷連老人」と同一人物と考えられるものです。
 確かに、この「持統天皇」の「詔」の中では「富杼等」と言うように「複数形」では書かれていますが、この「等」が「土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒」の四人全員を指すかというとそれは明らかに違うわけです。
 そもそも「大伴部博麻」が「献身」して帰国費用を捻出したはずの「筑紫君薩耶麻」が帰国したのは『書紀』によれば「六七一年」のことです。
 この「持統天皇」の詔にある、「薩耶麻」達を帰還させるために「大伴部博麻」の献身が提案された年次である「天命開別天皇三年」というのが何年の事なのかについては、諸説があるものの『書紀』中の「天命開別天皇の何年」という例は全て「称制期間」のことを指していると考えられ、ここでいう「天命開別天皇三年」も同様に「称制期間」と考えられるものであり、そうであれば「六六四年」のこととなると考えられます。すると「薩耶麻」の帰国はその時から「七年」も経過していることとなります。
 この帰国に「博麻」の「献身」が効果を発揮したならば、「同年」(六六四年)か遅くても翌年の(六六五年)には帰国可能であったはずと考えられ、「薩夜麻」の帰国と「博麻」の「献身」とは関連性が薄いものと判断されます。
 そもそも「身」を売ってまで帰国して通報しなければならない「緊急性」のある事項ならば、「七年後」の帰国というようなことはあり得ないと言っても良いと思われるものです。(この帰国年次はもっと早かったという可能性もありますが、それでも同年や翌年という物ではなかったものと思料されます。)

 さらに「正木裕氏」も前掲論文に続く後続の論文(「薩夜麻の「冤罪」V」古田史学会報八十三号)の「補論」で述べているように、この「薩耶麻」の帰国にあたって、はたして「費用」を自前で用意する必要があったかはやはり疑問です。
 彼は当時「百済」を占領していた「唐将」「劉仁願」の部下と考えられる「郭務宋」に同行して帰国したわけですが、彼のような「君」と呼ばれるような「高位」の人物で「捕囚」になった人物は他には確認されていません。このことは「唐」ないし「新羅」側にしてみても、彼のような人物を、いつまでも「捕囚」として「拘束」していたかははなはだ疑問ではないでしょうか。つまり、彼は「捕囚」と言うより「客人」としての扱いを受けていたのではないかと考えられます。

 「唐」の立場から言うと「倭国」は戦争当事国ではなかったものと思料されます。「旧唐書」などでも「百済」などとの間には「戦いの記録」があるものの、「倭国伝」にはそのようなものが全く存在していません。「唐」が戦っていた相手はあくまでも「百済」であり「高句麗」であったのです。「倭人」はたまたま「百済」が援軍を頼んだ結果、戦場にいたのであって、「倭国」と全面的戦争をしたつもりはなかったでしょう。
 (もっとも、「二〇一一年」に発見された「百済禰軍」の墓誌の解析から考えて、「倭国」に対する追求は当初から厳しいものがあったもののようです。)(注四)
 ただし、「唐」に対し「従順」の姿勢を見せず、反抗的態度を継続する場合、話は別であり、厳しい対応も考えていたものと思われます。そのことは「倭国」が立てた「扶余豊」について見てみるとわかります。彼は「白村江の戦い」後「高句麗」に逃げ、その後も「唐」に対して反旗を翻していました。その後「高句麗」が滅ぼされた際に、彼は「身柄」を拘束され長安に連行された後、「流罪」となったようです。このように「従順」を誓えば相応の待遇で処するが、反抗するならば「極刑」をも免れない、というのが「唐」の立場であったようです。
 「薩耶麻」について言えば無事「帰国」できたこところを考えると、彼は「唐」に対し「従順」を誓ったと見え、また「唐」も「倭国」が遠距離であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、彼を処罰する事は考えていなかったと考えられます。
 彼(「薩耶麻」)は『書紀』には記載されていませんが「倭国王」であった可能性が高く(注五)少なくとも、「倭国」が派遣した「将軍」の一人であり、「高官」であったわけであり、それに見合った相応の処遇をされていたものと考えられるものです。そのような人物の帰国に要する費用が「自腹」であるはずがないと思われます。つまり、彼の帰国費用など元々「博麻」が負担すべきいわれはなかったと考えられるものです。

 以上で見たように少なくとも「薩耶麻」の帰国は「大伴部博麻」の献身とは全く別個に行われたものと推定され、帰国した「富杼等」という表現には「薩耶麻」が入っていないのは明確です。
 そもそも『書紀』に書かれている「薩夜麻」の帰国の際に同行した人物は、ここに書かれた「土師連富杼。氷連老。弓削連元寶兒」などではありませんでした。そのことは「博麻」を顕彰する「持統天皇」の詔の中で言及されていた「通天朝」(「天朝」に「達した」)という「富杼等」というのがこの時の「薩夜麻」達の帰国のことを指すものではないことを意味します。この事からも「博麻」の貢献と「薩夜麻の帰国」の間には関係がないことは明確であると考えられます。
 それでは残り三人は同時に帰国したのか、というのははっきり言えば「不明」です。ただ、明らかに「等」と書かれているわけですから複数人であることは明確であり、名前の出ている「富杼」と他の「誰か」が同時に帰国したものと考えられますが、そのことは「氷連老人」の帰国の年次を拘束するものではないと考えられ、彼の帰国が「慶雲元年(七〇四年)」であって、「富杼」とは別行動であったとしても、一概に「持統天皇の詔」と矛盾する、と言う事ではないものと思慮されるものです。

 また、「博麻」は「持統天皇」より「顕彰」の「詔」を出され、多大な「褒賞」を受けていますが、その最大の「理由」は補囚の身であった他の四人を帰国させることに「体を売った」から、というわけではなく、彼らが聞き及んだ「唐人所計」というものを「天朝」に「通報」する事に「犠牲」を払ったためであり、何よりもそのことにより「顕彰」され「褒賞」を受けているものと思料します。
 結局、彼らはこの時「唐人所計」というものを「通報」しようとしたけれど、「倭国」までの「衣糧」がない、ということで、それを可能にするという目的のために「博麻」が「体を売った」ということであり、それを「持統」は「尊朝愛國」と見なしたと言う事と考えられます。また、それは「達成」されたと言うわけであり、不明ではあるものの「富杼等」が通報したことで、「計」について事前に承知した上で対応できたということと考えられます。(但し、具体的にその「計」が何を指すかは不明です)(注六)
 そして、これらのことが「持統」が「朕嘉」することとなり「詔」を出すに至ったと言う経緯と思料します。
 つまり「情報」の伝達が優先したものであり、人物としては「帰国」が遅れたものもいたと言う事であると思われます。また、「氷連老人」はそもそも「遣唐使」であったものであり、「大伴部博麻」とは「立場」が違うとも言えます。そう考えると、この「博麻」と共にいた「薩夜麻」達四人の中の誰かが(というより「氷連老人」が)「博麻」よりも「遅く」帰国することとなったとしても、一概に「帰国時期」に「矛盾がある」とは言えないと考えられ、それはまた「氷連老人」の「七〇四年帰国」という推定が成立可能であることを示すものと考えられます。



結語
一.「伊吉博徳言」の「今年」とは「七〇四年」と考えられること。
二.「大伴部博麻」の献身により帰国したのは「四人」全員ではないとかんがえられることと、「博麻」の「献身」は「唐人の計」の通報という「重要」な目的のためであったと考えられ、「氷連老人」の帰国が「七〇四年」という時期まで遅れたと考えることに支障がないと思われること。

以上について推論しました。


(注)について

(一)正木裕「薩夜麻の『冤罪』T」(古田史学会報八十一号 )「天智即位三年では博麻は「唐人の計」を聞くことが出来ない」と題された部分によります。
(二)北村文治氏「伊吉博徳書考」日本古代氏論集(上)所収 吉川弘文館によります。
(三)岸俊男「『造籍と大化改新詔』の『補注』」日本古代籍帳の研究」所収 塙書房
(四)墓誌によれば「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金?子之入漢(二文字空け)聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛?川府折沖都尉。于時日夲餘? 拠扶桑以逋誅 風谷遺? 負盤桃而阻/固 」というように「顕慶五年記事」と「于時日夲餘?」以下の記事が「接して」書かれており、あたかも「時間差」がないように感じられます。「于時」という漢語表現からも「同時性」が感じられるのに対して『書紀』では「倭国」が参戦したのはその翌年のこととされており、これは「不審」です。このことは「倭国」は「当初」から「百済」と連合して事に当たっていたのではないかという疑いが生ずることとなります。
(五)古田武彦「失われた九州王朝」角川文庫、正木裕「薩夜麻の『冤罪』I」古田史学会報八十一号、「薩夜麻の「冤罪」V」古田史学会報八十三号等々「薩夜麻」を「倭国王」と見る考え方がかなり活発に行われています。これらの考え方に基本的に同意するものです。
(六)正木氏は「薩夜麻の『冤罪』T」(古田史学会報八十一号 )の中でこの「唐人所計」について「高宗」が企図した「泰山封禅の儀」を指すとされましたが、それはいくつかの点で疑問があります。最大の点は、この「泰山封禅」開催というものが「詔」として出された「公」の情報であるということです。このことは周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、「唐」はそれらの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したはずだと考えられるわけであり、当然「倭国」にもその「使者」は「来るはず」であったと思われます。つまり、体を売ってまで「通報」する必要はなかったのではないかと考えられるのです。
 「唐」は「倭国王」を「補囚」の身としたことを承知していたかどうかやや曖昧ですが、承知していたとすると「泰山封禅の儀」に参列可能な「陪従者」が居ないことも知っていたでしょう。そうであれば「陪従する」者達を引き連れていく必要が出てきます。「参列」する「人数」が多くなければ「権威付け」にならないわけであり、「倭国王」単独では「高宗」は満足しなかったことと推量されるものです。
 するとそのためにも、「倭国」へ使者が来なければならず、ますます「身を売って知らせる」意味がなくなってしまいます。つまり、「博麻」達が「身を売って」知らせようとしたことと考えるには、「泰山封禅」というものには「逼迫性」がないと思われるのです。
 ここで、「博麻」たちが「通報」しようとしたことはやはり「軍事」に関するものであると思われ、「国家」に迫る危険であったからこそ「体」を売ってまで「衣糧」を捻出したと考えるものです。また、ここでは「唐人」とあって「唐国」とないこと、「計」という「計略」に類するものと考えられる事から「熊津都督府」の人物達の考案した何らかの「軍事プラン」ではないかと推測されるものですが、具体的には不明です。なお、「富杼等」は「博麻」が身体を売った年か翌年には帰国したものと推量します。


参考資料
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本古典文学大系新装版『日本書紀』(文庫版)」 岩波書店
青木和夫・笹山晴生・稲岡耕二・白藤礼幸校注「 新 日本古典文学大系『続日本紀』」岩波書店
宇治谷孟訳「続日本紀(全現代語訳)」講談社学術文庫
「日本書紀」「続日本紀」については「浦木裕氏」作成の「古語追慕」による表示サイトも利用(検索など)http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/syoki/syokitop.htm(底本文獻:小學館新編日本古典文學全集『日本書紀』)