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「和銅」出土と「秩父」


 「多胡の碑」がある場所からほど遠くないところに「和銅」出土の地があります。『続日本紀』によれば、この地から「和銅」(純度の高い自然銅)が出土し、それが朝廷に献上され、これを契機に「催鋳銭司」を設置したと書かれており、そのトップとして「丹比真人三宅麻呂」が任命されています。この人物は「碑文」の中で「左中弁」とその地位が書かれており、その彼が発布した文章が碑文の「宣」なのです。
 「丹比真人三宅麻呂」は、「催鋳銭司」に選任されていますが、この地位は当事「大納言」であった「不比等」が選んだ可能性が高いと考えられます。「藤原不比等」は関東に関係の深い人物と考えられ、その関東から出た「和銅」に「彼」が関係していないとは考えられません。 
 また、「鋳銭司」は、地方の国府に近いところに置き、国府に管理させた事が記録に残っているため、「三宅麻呂」もこの地方に頻繁に訪れていた可能性もあり、この地の「郡司」であったと考えられる「羊」(羊大夫)とは「既知の間柄であったでしょう。

 その三宅麻呂が発布した「碑文」の文章ではこの地に「多胡」郡を新たに設置したことになっています。(帰化人が多い地域であったことから「胡」(えびす…外国人のこと)が多(多い)という意を含んだ郡名称となっているのではないでしょうか)
 そして、その新たに設置した郡を「羊」という人物に「給」しているのです。しかもその郡の戸数は「三百戸」と書かれていますが、『続日本紀』によれば「三百戸」の位封は「従二位」に相当し、地位で言えば「右大臣」に相当するのです。そして、この当時「右大臣」といえば「藤原不比等」なのです。
 この「郡」を「羊」に「給」したのは「和銅」発見に関連するものであり、一種の褒賞と考えられ、結果的にその「多胡郡」の位封は「不比等」の元に入ったと考えられるわけであり、裏のシナリオは「不比等」が書いていたという可能性があるでしょう。 
 現地資料の一部には群馬地方特産の品物を奈良の天皇の元に日参したことから褒章としてもらった、という記事がありますが、この程度ではこのような膨大な領域を特定の個人には「給」したりはしないと考えられ、何か別の功績を認めたからに他ならず、「和銅」の件との関連が考えられるものです。
 
 改元の理由付けとして、自然銅(「和銅」)が発見されたので、それを「瑞祥」として改元し、記念に貨幣を鋳造、発行したということになりましたが、実際には「武蔵国秩父郡」には銅山がないと考えられています。
 この地から出土した「銅」(和銅)が「和同開珎」鋳造に使用された形跡はありません。実際には他の地で産出した銅が使用されたのです。「新和同」の産地は「山口県」(長登銅山)ですし、「古和同」は「大分県」(香春銅山)と考えられているわけです。「秩父」からは少量は出ても、貨幣鋳造に必要なほどではなかったか、あるいはまったく出なかったかと考えられます。
 つまり「秩父からの自然銅」というのは、いってみれば「でっち上げ」(詐欺)であり、この主役が「藤原不比等」である、と考えられ、「三宅麻呂」と「羊」という人物がその手下であったらしいと考えられます。
 似たような事例としては、対馬から金が出た、という記事が『続日本紀』にありますが、これも後年「詐欺」であったことが露見しています。この時は「大伴御行」が絡んでいたようです。
 このように当時瑞祥として鳥や亀などが発見されたり、金や銅が発見されたりした中にかなりの数の「詐欺」「欺瞞」があったことが推定されます。それというのもかなりの褒賞や税の減免などがあるなど、発見者達には動機を形成するに十分な背景があったものです。
「和銅」の場合も「大伴御行」と同様「不比等」自身もだまされたものなのかもしれません。あるいは「丹比真人三宅麻呂」さえも巻き込まれた被害者であったというシナリオもありそうです。


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2012/09/04)