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「筑紫」と「近畿」の地名類似について(2)


 この「筑紫」における「類似地名群の中心」と「畿内」の中心(つまり「難波京」)が「ずれている」、と言う事は「地名群移動」のタイミングが「別」の時期、つまり「難波朝廷」成立のころとは異なるということを示すものです。
 先にあげた「筑紫」の地名群はやや歪んではいるものの「円周上」に位置しており、この「中心」に位置するものは「太宰府」と考えられ、それはそれほど不思議ではありません。それに対し、近畿においての「地名群」の中心はどこかと考えてみると、明らかに「藤原京」ではないようです。地名移動と権力移動が関連があるとすると、「藤原京」ないしは「難波京」が該当すると一見考えられそうですが、これらの「宮」では「南」や「西」に寄りすぎているように見えます。また後の「平城京」や「歴代」の「飛鳥京」というわけでもないように思え、「地名群」の中心地点に該当する「王宮」が存在していないように見え不審に思われます。
 しかし、精視するとこの「地名群」の中心付近にあるのは「石上神宮」であることがわかります。
 ここは「物部」が歴代「奉祭」しているところであり「神宝」を収蔵する「宝物殿」でもあります。つまり、この場所は「物部」の権威の本拠でもあるわけです。「地名群」の中心が「石上神宮」であると言う事は「近畿」と「物部」の関係がかなり早期に形成されたのではないかと言う事を推定させるものです。
 可能性としては二回あり、「倭の五王」の時代の「拡張政策」の時点と、「利歌彌多仏利」の「東国」への統治強化の時点です。共に「武装植民」が行われたものと考えられ、規模の大小はあるものの、かなり多数の人間が「西日本」から移住したのではないでしょうか。

 「倭の五王」の頃の拡張政策を示すものとして『常陸国風土記』と『肥前国風土記』に共通すると思われる神(人物)が出てきます。

『肥前風土記』
「(物部郷在郡南) 此郷之中 有神社 名曰物部経津主之神 曩者 小墾田宮御宇豊御食炊屋姫天皇 令来目天子為将軍 遣征伐新羅于時 皇子奉勅 到於筑紫 乃遣物部若宮部 立社此村 鎮祭其神 因曰物部郷」

『常陸国風土記』
「従此以西 高来里 古老曰 天地権輿 草木言語之時 自天降来神 名称普都大神 巡行葦原中津之国 和平山河荒梗之類 大神 化道已畢 心存帰天 即時 随身器杖俗曰伊川乃甲戈楯剣 及所執玉珪 悉皆脱履 留置茲地 即乗白雲還昇蒼天 以下略之」

 上の『肥前風土記』で言う「物部経津主之神」と下の『常陸国風土記』で言う「普都大神」とは同一人物(神)であり、いずれも「物部氏」であると考えられます。 
 彼らはここで詠われるように「武力」(甲戈楯剣)により「和平」させる能力を持つものであり、そのことが「新羅遠征」の際に「鎮祭其神」とあるように「戦勝祈願」として鎮め祭ったとされる所以です。
 「倭国王」は「親征」つまり、自ら先頭に立って諸国の「平定」を行っていたものと考えられますが、「平定後」については、「物部」から人選して、その後の「開発」・「統治」を、いわば「信託統治」という形で行っていたのではないでしょうか。
 『常陸国風土記』にも「筑波山麓」の開発・統治を「倭王権」から「物部」が命じられたという記述がありますが、「近畿」でも同様ではなかったかと推察されます。「平定」後の「近畿」大和の地について、その「開発」・「統治」を「倭の五王」から命じられ、託されたものでしょう。
 「平定」したと言っても、「倭国王」始め「本隊」が「本国」に引き上げてしまってはその後の安定的な支配を叶わないわけであり、「占領軍」とでも言うべき部隊が「恒久的に」残る必要があったでしょう。このような場合「軍」の一部を割き、「将軍」とその部隊を現地に残し、彼らに「統治」を任せていたものと考えられます。
 また「占領軍」の規模などは、その占領したその国の「範囲」の広さに応じ、決められたと考えられ、場合によってはかなり大量の人員が投下されたと考えられるものです。このような場合、多くの人々が「近畿」へ移動してきたわけであり、「権威」の移動と言うよりは「ノスタルジァ」という部分の方が「地名」移転(と言うよりコピー)という現象の説明になるでしょうか。

 「利歌彌多仏利」の時代にもかなり多数の移住(屯田)が行われ、官道整備と共にそれを「基準線」として土地区画が行われ、彼ら「屯田兵」により「農作物」が収穫され、「屯倉」が設置されるなどの大規模開拓が行われたものと思料されます。(この時に「国県制」が施行されたもの)
 この時点において新しく「国」(広域行政体)が成立した際に、元の「故国」から地名を運んだと見られるものです。「庚寅年」(六九〇年)の改革の際にも「五十戸制」を「里制」に変更するのと同時に「里名」を新しくしていることがあり、「行政制度」の変更などと同時に「名称変更」なども行われやすいものと思われ、この「国県制」施行の際にも同様に「里名」などに「故国(倭国)」地名を充てることが行われたのではないでしょうか。
 それが特に「近畿」に集中しているのは「利歌彌多仏利」の「拠点」が「近畿」であり「難波」であったためと思料されます。また、「難波」は「海」に近く「中州」が入り組んでいて「湿地帯」を形成していたものであり、当初からこの場所に集中的に「移住」などが行われたと言うよりはより内陸側に「屯田」が行われたと思料され(「物部」の「拠点」が「飛鳥」の地であったこともほぼ同じ理由と推察されますが)、「難波」よりは「飛鳥」中心で「地名」がコピーされる事態が発生したものと思料されます。このようにして多量の重層類似地名が遺存する現象が発生することとなったと思われるものです。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2016/12/25)