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「九州」と「近畿」の地名類似について


 近畿と九州には同一の地名がかなりあるのが確認されています。単に似ているのではなく、「連続的」に同一の地名があるのです。
 「筑紫」の周辺で言うと、北の笠置山から始まって、春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田→田原と続く地名連鎖が存在します。これはほぼ反時計回りに続く円周上にあります。

 「畿内」でも全く同様に笠置(笠置山)→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原と連続しているのです。これらも同様に反時計回り円周上に連なっています。
 字面は多少違っても発音ほぼ同じなのです。このような例は「近畿」と「九州」以外の地域には確認されていません。これを整合的に説明できる仮定は「どちらかの地名群がオリジナルであり、どちらかがコピーである」というものだと思われます。

 現代でも移民などの場合、以前の地名を持って行くという場合もあるようです。例えば北海道の「十津川―新十津川」、「篠津―新篠津」などや、アメリカの「ヨーク―ニューヨーク」などがそうです。しかし、それが大量に発生するとなると、単なる移民の話ではなくなります。このような現象が起きるためには、「政治権力」つまり「権力機構」の移転が必須であると思われます。
 「九州」と「近畿(畿内)」の場合、これはもちろん「九州」の地名が「オリジナル」であり、「近畿」がコピーなのです。これは言い換えると「どちらが古い地名か」という問題でもあります。それは『書紀』を見ても「九州」が「神代巻」の舞台であり、「畿内」が「人代巻」の舞台なのですから、「九州」が古いのは当然なのです。
 『書紀』は「八世紀」に入って、現在の天皇家に直接つながる王朝が確立したときに、その大義名分が正当なものであることを立証するために書かれた史書なのであり、この中に「私たちは九州から畿内へやってきました。始原は九州にあります」と明確に書かれているのですから、大義名分移動の「ベクトル」は確かに「九州から畿内」なのです。地名の移動もこのラインに沿って考えるべきでしょう。
 「神代巻」と「人代巻」を別に設け、同一地名を「畿内」に移動したのは、「九州」の地名と結びつくのは「神代巻だけ」という、欺瞞の構図を作るためでもあります。しかし、実際は全ての地名が「九州」と関係づけて語られているものなのです。「畿内」に同一地名があるのは、一種のアリバイ作りなのだと思われます。
 「九州」で先行して作られていた史書あるいは原資料の地名は原則全て「九州」なのですから、それを取り込んで作られている『書紀』の地名が原則「九州」の地名なのもまた自明でしょう。

 『万葉集』によれば(第二番歌)「天香具山に登って国見をすると『海にカモメが飛んでいるのが見える』」と謡われています。

「高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇] / 天皇登香具山望國之時御製歌」(舒明天皇か)
「山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜國曽 蜻嶋 八間跡能國者」
(訓読)
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」

 ここに詠われている「天の香具山」については、従来当然のように「飛鳥」の「香久山」であるかのように理解されていますが、しかし、その「飛鳥の香久山」は低すぎて海は見えません。
 また、「記紀」にありますが、他の史書(『先代旧事本紀』、『古語拾遺』など)にも「香久山」で「金、銀、銅、鉄」などが採れる、と書かれています。しかし、「奈良」の「香久山」にもその周辺にも何の鉱脈もないことが確認されています。ここでは「何も採れない」のです。(以前に採掘していた形跡もありません)
 それに比べ「大分」の「鶴見岳」には「かぐつちの神」が祀られており、(「鶴見山神社」の「御神体」が「火結神」であり「かぐつちの神」なのです)正に「かぐ山」です。また、ここには「金鉱床」もあり、「鉄」も「銅」も鉱脈があります。
 さらに「鶴見岳」は雲もたなびく高山でもあります。海原も遙か遠くまで見通せます。ここであれば、史書に書かれたことと整合するのです。

 『書紀』の「国生み神話」では「伊弉諾尊」が剣を振るって「かぐつちの神」を「三つ」に切ったと書かれていますが、そのことは「鶴見三山」との関連を連想させます。そもそも「かぐつち」とは「火山」とかの「火」を連想させる言葉です。「かぐ」は「かがやく」という言葉の語幹と関連が深いと考えられ、「火」に関連した言葉なのです。この事は本来「奈良」の「香山(香久山)」は「かぐ」と言う名称が使用される山としては「不適格」であることを示しています。なぜなら奈良の香具山は火山ではないからです。(周辺にも見当たりません。)このことは上記「地名」移動の際には「困った」問題となったであろうことが推察されます。
 またここで「舒明天皇」つまり「『息長』足日広額」といういわば「息長氏」の一員であることをその諱に持っている人物がこの歌の主であるということも重要です。
 「息長氏」という氏族が「神功皇后」(彼女も「息長」足姫」であり、「息長氏」の一人です)にまつわる多数の伝承が示すように「筑紫」という地域に偏った存在であるのは確実であり、その彼が詠ってるのが筑紫に程近い場所にある山であるというのはとても自然なことと思われます。

 以上見たように、ただ同一地名がある、と言うのではなく、「地名群」が対応しているわけであり、しかもその「存在範囲」(広さ)としても同程度であって、なおかつそれは「近畿」では「畿内」の領域に納まるわけですから、「筑紫」においても同様であったともられるものです。
 それまでの「宮殿」と共に「地名」も移動したと考えるわけですが、「改新の詔」の中で「畿内」を制定しており、これが「遷都」時点と考えられ、これを境に「人」や「物」(建物など)などが新しい「畿内」へ「移動」し始めたものと推量されます。
 この事は「朱鳥」年号が「九州」で最後に見られるのが「朱鳥六年」であることからも推察できるものです。

「朱鳥六年壬辰年」「…天道童子九歳で上洛…」『修験道史料集U』所収の「天道法師縁起」(長崎県対馬郡豆酘村に伝承されていたもの)によります。

 つまり、この年次以降に「九州」の地から「権力者」とその周辺の人物や組織が移動してしまったことを示すと思われます。


(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2018/07/29)