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「畿内」の範囲とその中心


 「改新の詔」の中で示された「畿内」の定義範囲は以下の通りでした。

「凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。兄。此云制。西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿内國。」

 この「改新の詔」は複雑な構成であり、「七世紀」に数回行なわれた「大改革」の際の「詔」が全て盛り込まれていると見られ、どの部分がどの時代のものかの見極めが難しいのですが、上に挙げられている「近畿」の「地名群」はその「中心」となる位置は言われるような「藤原京」ではなく、「難波京」ではないかと考えられます。
 前述したように「王」の所在する場所を中心として「千里四方」を「畿内」と称するわけであり、これを「新・短里」(一里が90m程度)として計算すると、「改新の詔」の「畿内」の範囲は、この「千里四方」(=「90km四方」範囲)とほぼ重なります。
 この時の中心の地点は、「難波」に設定した場合、最も「四至」の範囲と整合すると考えられるものであり、「藤原京」では、かなりずれてしまいます。
 「難波京」から測定した「道のり距離」でも(現代の主要幹線を使用した場合ですが)、この「四至」の地点まではほぼ等距離となります。たとえば、「明石」までが56km、「逢坂山」が50km、「名張」が70kmと少し遠いですが、「紀伊」の「兄山」までが57kmというようにかなりバランスが良いように思われます。
 「藤原京」からの距離では「明石」が約90kmにもなってしまい、また「逢坂山」は約60kmですが、「名張」は32km程度とかなり近く、また「兄山」は45km程度とかなりばらつきが出てきてしまいます。(「飛鳥浄御原宮」についても同様であり、同じように距離が「不等」になりますし、そもそもここは「条坊制」が施行されていなかったと考えられるため「京師」として考えるには「不適」です)
 またその「四至」地点として復元されている中の「明石」の「櫛淵」についてはやや「定説」がない状態ですが、これについては、これらの「四至」の地点が当時の「官道」との関連を考える見方からも有力と思われますが、そうすると「古代山陽道」の「駅家」周辺の地がもっともふさわしいと思われ、「明石川」上流の「神戸市西区押部谷町」付近が有力と思われます。

 ここで出てくる「四至」の地との関連が考えられるのが、『書紀』の「四方」という表記です。

「(天武)四年(六七五年)冬十月辛未朔癸酉。遣使於四方覓一切經。」
「同五年(六七六年)是夏。大旱。遣使四方捧幣帛。祈諸神祗。亦請諸僧尼。祈于三寶。然不雨。由是五穀不登。百姓飢之。」

 この「天武紀」が言う「四方」が「東西南北」であり、それが「四至」で示される地の「外側」の「諸国」を示すものであろうというのは容易に想像されるところです。それは「四方国」が「諸国」であり、「畿内国」とは別の国であるという事が『書紀』に記されているからです。

「大化元年(六四五年)九月丙寅朔。遣使者於諸國治兵。或本云。從六月至于九月。遣使者於四方國。集種種兵器。」

「(大化二年)三月癸亥朔甲子。…甲申。詔曰。朕聞。…凡始畿内及四方國。當農作月早務營田不合使喫美物與酒。宜差清廉使者告於畿内。其四方諸國國造等。宜擇善使依詔催勤。」

 従来はこの『孝徳紀』の記事と上の『天武紀』の記事とが関連しているという考え方はありませんでした、それは「時代が違う」とされて、深く考慮されていなかったからです。(※)しかし「正木氏」により『天武紀』の記事(持統紀も)が「三十四年」時期をずらして書かれている可能性が指摘されており、それに従えばこの『天武紀』の「四方」記事も「六四〇年」と「六四一年」となり、この時点で「四方国」がおよそ定まっているように考えても不自然ではないこととなったものです。

 この事は「古代官道整備」が進捗し、「四方」(諸国)に通じる「高規格道路」ができつつあったことをも示していると考えられ、この道路上に「畿内」と「畿外」の境界である「関塞」が作られ、それにより「畿内」制が完備することとなったと思われます。(ただし「七世紀半ば」で出されたと考えられる「第一次改新の詔」では実際には「四至」の範囲の地点としては「筑紫」の周辺の土地名が書かれていたと思料されます。)
 この「第一次の詔」を「近畿」に移し替えた「庚寅年」の「第二次改新の詔」では「四至」の各範囲を示す場所名を「近畿」周辺の地名に「入れ替えて」出したものであり、その「四至」の範囲の中心として「難波京」の方が整合していると考えられるわけですが、その整合する「理由」としては、前述したようにこの(第二次)「改新の詔」が出された時点の「キ」が「難波」であったからと思われるものです。
 「難波宮殿」は「焼亡」してしまったとされていますが、『書紀』の記事が正しいとすると「兵庫職」は「無事」であったわけであり、「応急措置」的復旧工事が成されてあれば、「儀典」ができなかったわけではなく、「常住」できなかったとしても「式典」などが行うことが可能であったなら、「藤原宮殿」完成までは、唯一の「公的」な政府建物として使用していたものと考えられ、このような中で「改新の詔」も出されたものと考えられます。そうであれば「四至」の中心点は、その「詔」を出している場所である「難波京」であるのは当然と考えられます。

 いわゆる「東方官衙」(難波宮殿の東側から発掘された「官衙」と思われる遺跡群)の中に「大規模建物」の遺構があり、ここからは「石敷」や、「五間門」等の存在が確認されています。これらのことから判断して、この「東方官衙遺構」は「格式」の高い建物(宮殿など)であったと考えられるものであり、これは「東宮」とも「濱臺」とも言われていますが、これについては「火災」の痕跡が見あたらず、「難波宮殿」の「焼亡」後も「使用可能」であったと考えられ、「儀典」などがここを中心に行われた可能性も考えられるところです。


(※)出田和久「畿内の四至に関する試考-その地理的意味に関連して-」(『古代日本と東アジア世界』二〇〇五年 奈良女子大学術リポジトリより)など。


(この項の作成日 2011/05/20、最終更新 2015/02/22)