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九州の「畿内」と「評制」


 「改新の詔」で書かれているように「斥候」とその外側領域の「防人」は「畿内」の外部の防衛線を形成するものであったと考えられます。しかし、一般に「防人」は「筑紫」という地域(辺境)に「固定」されて考えられており、いわば「筑紫専用」の「軍事力」と考えられているようです。しかし、それは「誤解」であり、元来は「畿内」と定められた範囲についての「外郭」防衛のための軍事力だったのです。
 そして、「庚寅年」の改革により(これは「禅譲」による新王朝建設)「倭国王(日本国王)」(持統)が「近畿」に遷都し、「畿内」の範囲が大きく変更になった結果、それに応じて「防人」なども変更となったものですが、同様に「変更」されたものの中に「評」があったものと思われます。
 以下に述べるように、本来「評制」は「東国」を含めた「畿外」の「諸国」に施行したものであり、「筑紫」を中心とした元の「畿内」、つまり「倭国王」の直轄地には施行されていなかったものでした。

 六世紀の終わりから七世紀にかけて「阿毎多利思北孤」と「太子」である「利歌彌多仏利」は「列島支配」のため「九州」制を施行しました。
 「筑紫」と「豊」「肥」を「前・後」に分け、それに「日向」「壱岐」「対馬」を加え「九州」と称し、「直轄領域」としたのです。(薩摩・大隅は後に倭国に編入されたもの)
 「阿毎多利思北孤」は「統一王」であることを目指し、そのために「天子」を名乗ることとなったと見られ、それは「隋」皇帝(文帝)に対抗する意味ではなかったと見られますが、「列島統一」にはそのような「強さ」が必要と考えたものと思料します。
 そして、「太子」である「利歌彌多仏利」の「天王」即位と共に、全国を「六十六国」に分割したのです。
 また、この際「九州」においては「隋」に倣って、それまでの「国」-「郡」-「県」という行政制度であったものを「州」(国)が「県」を直轄することとし、「郡」を廃止したのです。つまり「国−県制」となったわけです。また、それ以外の諸国においては「道」-「国」という雑駁な制度であったものをこの時点で「国−評制」を導入し、全国的に強力な「階層的行政秩序」を構築したのです。
 この時点で「天子」の王城を「京師」(帝都…この場合は「筑紫」)とし、それを中心として「千里四方」を「畿内」と設定したのです。ここでは「筑前」「筑後」「豊前」「肥前」がその中に入ることとなりました。(「四畿内」という)それ以外は「畿外」となったのです。
 そして、このように「畿内」を制定し、その「防衛線」とも言うべき「関塞」等の軍事的配置を決めたという事と、「都督」の間には深い関連があると考えるべきでしょう。つまり「都督」はこの時点で「制定」された職掌と考えられ、それは当時の軍事的職掌である「惣領」(総領)の頂点に立つものであったと考えられます。
 
 その後「七世紀始め」に「難波副都」が作られた時点で「制度改革」が行われたものであり、そこでは「助督」−「評督」−「都督」という地域的軍事制度が構築されたものであり、この時点で「惣領」は「廃止」されたものと見られます。また「行政制度」としては「国」-「評」-「五十戸」制度へ改定したものです。これらはそれぞれ「国宰」−「評督」(評造)-「五十戸長」という職掌により管轄されていたと見られ、「評督」は「民政的」「軍事的」双方の核とも言うべき存在であったことが理解されます。
 
 たとえば、「阿蘇系図」((田中卓著作集二巻付図 異本阿蘇氏系図)によれば、「肥後」の地である「阿蘇」の「評督」への「任命」が「朱鳥二年」(通常の理解では六八七年)に行われたとされています。そこでは「朱鳥二年」二月以前に「真理子評督」の存在が書かれており、その後「角足阿蘇評督朱鳥二年二月為評督改賜姓宇治宿禰」と続きます。
 ここで「阿蘇」という「肥後」の領域の一端について「評制」が施行されている事が明らかになったわけですが、このことはこの時の評督である「阿蘇角足」の支配する領域が「畿外」であったことを示すものであり、「畿内」を外れた地域では「九州島」の中でも「評制」が施行されていたという事実を示すものです。上でみるように「阿蘇角足」の前代も「評督」であったとされており、(「真理子」という人物)彼の時代以降「評督」であったようです。
 また、これらのことからもこの「筑紫」を中心とした当初の「畿内」には「評制」は施行されていなかったと考えられることを示しています。それはこの地域に対しては、ここが「帝都」である、という事から、「都督」が直轄しているため必要な軍事力は彼が掌握しており、「評督」の存在する必要がない或いはその余地がない、という事がその理由であったと思われます。(そもそも「評」は「屯倉」の管理がその職掌の本義であるから「地方」にはあっても「中央」にはなくて当然ともいえます)
 そして、その代わりに「畿内」(筑紫)には「郡」制が復活したと考えられます。それは「中国」側でも「煬帝」以降「郡制」が復活していたことと関係があるかも知れません。
 各地の「評」はそれが施行される以前は「クニ」であった領域であり、畿内においても以前は「県」であったように見えますが、「利歌彌多仏利」の改革により「国−郡−県」を「国−県」にしたわけですから、実際には元々「郡」であった領域が「県」になったものと考えられ、その後「県」から「郡」に戻されたものと考えられます。 
 そして、それは「難波」に副都を設置する、という動機にもなっていると思われ、その意味では「畿内」の制定、「外部防衛線」の策定などと同様、「評制」施行、「評督」任命の時期として似つかわしいと思われ、それらと同じ動機の元で作られた制度と考えられるものです。

 「倭の五王」以来「倭国王」は「南朝皇帝」の配下の存在としての「都督」であったものですが、「阿毎多利思北孤」の時代(六世紀末)に「皇帝」の国として尊宗していた「南朝」が滅亡したわけであり、「隋皇帝」に対抗するように「天子」と名乗った時点で「都督」ではなくなったと考えられます。そのかわり「国内」の有力者から「都督」を選抜し「筑紫」防衛の任に充てていたのではないかと考えられます。
 また「太宰」も「都督」と同様「南朝」系の職掌であり、同時期に「倭国王」としての自称ではなくなったものであると同時に、その職掌そのものが「隋」など「北朝」では重要なものではなくなっていたことから、これを廃止し代わりに各州を総括する職掌を「隋」から導入し「総領」としたものと推察されます。(「隋」では「総管」と称したもの)
 さらに新しく分割・統合して制定された広域行政体としての「国」の統治者として「国宰」を組織し、行政制度を整えたものと推量されます。

 これら制度改定は「隋」との関係悪化により「琉球侵攻」という軍事圧力を目の当たりにした結果としての行動であったと思われ、「公地公民」という制度を急ぎ整え、「軍事力」を整備することとなったものと推量されます。
 「隋」が「南朝」を滅ぼした結果依拠すべき権威の喪失という状況が発生したことと、さらに「天子」自称などの外交政策の失敗により対外的な軍事的圧力ないし外部からの侵攻などを危惧する要因が発生したものと推定され、そのことが「都督」の重要性の増加とその配下の軍事的組織の細分化の実施による「評督」という「軍事組織」の「キー」となる職掌の全国的成立という改革につながったとも言えるでしょう。


(この項の作成日 2011/05/20、最終更新 2018/07/29)