『書紀』の原型である『日本紀』は『書紀』の「持統朝廷」の時代、つまり「七世紀前半」に「唐人」「続守言」により「雄略紀」から書き始められたものと考えられ、当初は「続守言」一人で書く予定であったと考えられます。(「隋」の「文帝」の遺詔が剽窃されていることから、この時点で『隋書』を見ていると思われますが、可能性としては「応召」が私的に作成していた『隋書』を参照したという可能性も考えられなくはないですが、彼は「倭国」からの使者に対し良い印象を持っていなかったはずですから、そのようなものを閲覧できたかはかなり疑問です)
『隋書』が国内に流入したのは当然「遣唐使」によると思われますが、どの時代が該当するかというと、『隋書』が最終的に完成したのが「六五〇年付近」とされていますから、少なくともそれ以降であるのは確かでしょう。そうすると可能性があるのは「六五三年」及び「六五四年」の連年の遣唐使か、その後の「六五九年」の遣唐使(伊吉博徳の参加したもの)が考えられるでしょう。『大宝律令』の条文によく似ているのが「六五四年成立」の『永徽律令』とされているものの実際にはそれ以前の「開皇律令」を下敷きにしていたらしいことが推定されるていますから、遣隋使達によるという可能性も捨てきれません。その意味で『書紀』の原材料と『大宝律令』の原材料でその代が異なる事となりますが、実際に『書紀』成立の時点と『大宝律令』成立はやはり同時ではなく『大宝律令』が先行していますから、その意味では整合しています。
彼(続守言)はまず「雄略紀」から書き始め、「崇峻四年」まで書いたところで、推測によれば死去したものと思われ、それ以降『推古紀』までを日本人の誰かが書き継ぎます。(森博達氏によれば「唐人」ならばあり得ない文法ミスなどが突然ここで発生し始めるとされます)
『書紀』がこのように当初「雄略紀」から書き始められているという事実は、この時代以降「史料」(つまり「書かれた資料」)があったという可能性を示唆するものであり、「この時代」(「武」の時代でもあります)に「文字」が成立していると推定したことと関係しているものと考えられます。(『二中歴』「明要」の「細注」に「文書初めてできる」という意味の事が書かれています)
「森博達氏」によれば、『書紀』中の「万葉仮名」表記に使用している「漢字」の選択において、「唐人」から見た「中国語」としての発音が「日本語」のイントネーションに合う事を基準としているように見える、と言う指摘がされています。このことは「発音」を「耳」で聞いてそれを「漢字表記」しているわけであり、「古文書」と化した資料を読み下すことができたとされる「稗田阿礼」という存在が思い起こさせられます。彼のような人物が「誦」する(声に出して読む)ものを聞いて漢文に「意訳」するという作業を「続守言」や「薩弘格」は行っていたのではないでしょうか。
その後『皇極紀』以降を同じく「唐人」「薩弘格」が書き継いだと考えられ、これは『天武紀』までを書いたものと推量されます。「斉明紀」の中に「続守言」について書かれた「注」がありますが、「詳細不明」とあり、「詳細」を「続守言」本人に確認することができなくなっているわけですから、この段階では「続守言」はすでに亡くなっていたものと考えられます。
そして、当初「続守言」により書かれた部分に、「継体紀」における「天皇」の死去した年次に関する混乱部分があり、この中に『百済本紀』の方を信用する編纂姿勢があるのは、彼「続守言」の前には「国内伝承」ないしは「国内資料」が少なく、そのため、「外国史料」の方を信用していたからと考えられます。
(継体紀)「廿五年歳次辛亥崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。」
つまり、『百濟本記』によると「日本天皇及太子皇子倶崩薨」というように書かれていて、彼はこの記載の方を信用して『書紀』本文を構成しているのです。
彼の前に集められていた資料の中には「利歌彌多仏利」が「編纂させた」「古・古事記」の「異伝」の様なものがあったものと考えられますが、基本的には「倭国」に関する資料が少なかったものと考えられます。
倭国王「済」や「興」に関する死去した年次などは本来「倭国王権資料」には必ず記載されていたはずのものであり、その部分を「百済資料」に準拠したという事は、彼の元に集められた資料の中には該当するものがなかったことを意味すると考えられ、彼の前には「近畿系資料」の方が多かったということを示すものと考えられます。そのため、「倭国王」の死去という重大記事であるのに、国内の伝承よりも外国史料を重視することとなったものでしょう。
(彼自身は「唐人」ですから、倭国の国内の伝承も知らなかったでしょうし、倭国内の文化・風習にも疎いのです)
つまり、「倭国王朝」の記録はほとんど残っていなかったと推察されるものです。それには、三つの理由があると考えられます。
一つは「磐井の乱」です。これにより「肥後」に倭国王」が「蟄居」せざるを得なくなったことにより「国史」編纂のための資料が散逸したのではないでしょうか。
「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」はそれらの資料を諸国の王家など各方面に収集して「初の国史」である「古・古事記」を編纂したと考えられますが、しかしこの段階ですでに相当な「粉飾」をせざるを得なかったものと推定されます。
特に古い資料は少なく、資料としては「近畿王権」側資料が多数であったものと思慮されます。
二つ目は「薩夜麻」の捕囚」とその後の「近江朝廷」創立であり、さらにそれに続く「壬申の乱」です。これらによっても「資料」の散逸が相当発生したと考えられます。
三つ目は「難波宮殿」焼亡です。これによりかなりの数の資料が焼失したことは確実です。この「火災」以後の王朝である「持統朝廷」の記録はのこっていたものの、「難波朝廷」にあった(保存されていた)と思われる「天武」までの記録は「焼失」したのではないでしょうか。それは「聖武天皇」の「詔」の中にも表される「白鳳以来」「朱雀以前」という年次の僧侶の「公験記録」などと共に焼失したものと推定されます。(『善隣国宝記』によっても「菅原在良」の管見に入った中には「倭の五王」時代の記録が皆無であったようです)
以上のような理由により「持統朝」に「書紀編纂」開始する時点では「倭国王家」に伝わる「帝紀」などの重要資料はすでに散逸あるいは焼失していた可能性が考えられます。このため、「近畿王権」資料を多く使用した『日本紀』が当初作られることとなり、「外交史料」としては基本的に非常に少ないと考えられ、その結果それらを「外国資料」に依存する傾向が強くなっていると推察されます。
(この項の作成日 2011/08/01、最終更新 2018/07/28)