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「三輪高市麻呂」の諫言の意味


 「持統」は「伊勢」へ行幸したわけですが、この時「三輪(大神)高市麻呂」は「冠」を脱ぎ捨ててそれを止めようとしたと『書紀』に書かれています。なぜ彼は「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが(当然ながら)重要です。

「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。
乙卯。…是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。
三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌曰。農作之節。車駕未可以動。」

 このように「農時」あるいは「農作之節」の妨げとなってはいけないとするわけですが、それは『後漢書』に良く似た話があり、それを下敷きにしたものとも考えられます。(以下の例)

「…顯宗即位,?為尚書。時交阯太守張恢,坐臧千金,?還伏法,以資物簿入大司農,詔班賜羣臣。意得珠?,悉以委地而不拜賜。帝怪而問其故。對曰:「臣聞孔子忍?於盜泉之水,曾參回車於勝母之閭,惡其名也。尸子又載其言也。此臧穢之寶,誠不敢拜。」帝嗟歎曰:「清乎尚書之言!」乃更以庫錢三十萬賜意。轉為尚書僕射。車駕數幸廣成苑,意以為從禽廢政,常當車陳諫般樂遊田之事,天子即時還宮。永平三年夏旱,而大起北宮,『意詣闕免冠上疏曰』:「伏見陛下以天時小旱,憂念元元,降避正殿,躬自克責,而比日密雲,遂無大潤,豈政有未得應天心者邪 昔成湯遭旱,以六事自責曰:『政不節邪 使人疾邪 宮室榮邪 女謁盛邪 苞苴行邪 讒夫昌邪』。竊見北宮大作,人失農時,此所謂宮室榮也。自古非苦宮室小狹,但患人不安寧。宜且罷止,以應天心。臣意以匹夫之才,無有行能,久食重祿,擢備近臣,比受厚賜,喜懼相并,不勝愚?征營,罪當萬死。」帝策詔報曰:「湯引六事,咎在一人。其冠履,勿謝。比上天降旱,密雲數會,朕戚然慙懼,思獲嘉應,故分布?請,?候風雲,北祈明堂,南設?塲。今又?大匠止作諸宮,減省不急,庶消?譴。」詔因謝公卿百僚,遂應時?雨焉。」「後漢書/列傳 凡八十卷/卷四十一 第五鍾離宋寒列傳第三十一/鍾離意」

 ここでは「鍾離意」という「顯宗」の側近が「日照り」が続いて農民が苦労しているのに「宮殿」の造営に彼らを駆り出すなどの行いを「免冠」つまり「冠」を脱いで諫めています。一見これを下敷きにしただけのものともいえそうですが、「高市麿」の場合は当時それほど「天候不順」があったようにも受け取られず(前年には長雨があったとされてはいるものの)、「宮室」造営に比べれば「行幸」はそれほど農民の負担でもないともいえ、「免冠」して諫言」するほどのことでもなさそうです。そう考えると、この「免冠」しての「諫言」には別の理由があると見なければなりませんが、考えられるのは「聖徳太子」が定めたという「十七条憲法」(第十六条)に反していると言うことです。当時それは重要な意味を持っていたものと思われるわけです。

「十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。從春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。」(『推古紀』十七条憲法)

 つまり「春」から「秋」までは「農桑之節」であるから「民」を使役すべきではないというわけです。この「十七条憲法」は当時の国家統治を担うものにとって従うべきものであったと思われ、以降「不改常典」と呼称されて「天皇」「即位」の際に必ずそれを「継承」することを誓約するということが儀式として行われていたことが『続日本紀』に見えます。
 「持統」も「元明」即位の詔によれば同様に誓約したことが窺え、この「伊勢行幸」はそれを自ら破る行為であると「高市麻呂」は考えたものでしょう。

「元明の即位の際の詔」
「(慶雲)四年…秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐藤原宮御宇倭根子天皇丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐近江大津宮御宇大倭根子天皇乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。…」

 この「詔」はかなり難解ですが、大意としては「元明」が「即位」するにあたって「文武」から継承することとなった「食国天下之業」というものは「藤原宮御宇倭根子天皇」つまり「持統」が「近江大津宮御宇大倭根子天皇」が定めた「不改常典」を受けて行っていたものであり、またそれを「皇太子」(文武)へと授けたものであるというわけです。そして今それを「自分」(元明)が今「継承」するというわけです。
 つまり、「持統」は「即位」にあたって「不改常典」に反しないという誓約を行っていたことが推定され、ここで「伊勢行幸」を行うことはその「誓い」を自ら破ると言うこととなってしまいますが、これは古代では重大なことであったはずです。
 最高権威者が「天」と「祖先」に対して誓った言葉を自ら破るというのは、由々しき事態であり、これを必ず是正しなければ「天変地異」が起きても不思議はないと捉えられていたと思われます。そうであればそれを直言できるのは「神官」であり「祖霊」つまり「阿毎多利思北孤」を祀る役割であった自分しかいないと「高市麻呂」は思い定めたゆえに「冠」を脱ぎ捨ててまで阻止しようとしたのではないでしょうか。

 ただし、この「三月三日」の行幸については「中国」と同様の「節句」の行事であったと思われます。『隋書俀国伝』によれば「節」の行事は中国と同様であるとされているのです。

「…其餘節略與華同。」

 つまり「三月三日」の節句についても「隋」との交流以前から行っていたものであり、倭国としては当時ごく普通の年中行事であったものと思われます。(但しすでに述べたようにこの時は特別の意味があったものとは思われますが)しかし「十七条憲法」が施行されて以降「農桑之節」は避けなければならなくなったものであり、そのこと自体がまだ浸透しきっていなかったということもあるでしょう。このことは「十七条憲法」の施行と「持統」の時代が年次の経過としてそれほど隔たったものではないことを推定させます。「三月三日」という日付が『書紀』に出てくるのがこれが最初であることもそれを裏付けます。
 この時「持統」は旧来の習慣に囚われて「憲法」の要請に違背することを余り強く意識していたなかったと見られるわけです。

 ところで、『続日本紀』の「和銅元年二月十五日条」には「元明天皇」が以下の詔を出したとされています。

「戊寅。詔曰。朕祗奉上玄。君臨宇内。以菲薄之徳。處紫宮之尊。常以爲。作之者勞。居之者逸。遷都之事。必未遑也。而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所歸。唯朕一人。豈獨逸豫。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之號。周后三定。致太平之稱。安以遷其久安宅。方今平城之地。四禽叶圖。三山作鎭。龜筮並從。宜建都邑。宜其營構資 須隨事條奏。亦待秋収後。令造路橋。子來之義勿致勞擾。制度之宜。令後不加。」

 これは「新都造営」の「詔」ですが、この「詔」は原典があります。それは「隋」の「高祖」(楊堅)の詔です。
 彼は新都の造営を決意し、「開皇二年(五八二年)六月」以下のような「詔」を出しました。

「朕砥奉上玄、君臨万国、厨生人之倣、処前代之宮、常以為 作之者労、居之者逸、改創之事、心未邉也、而王公大臣陳謀献策、威云、義・農以降、至干姫・劉、有当代而屡遷、無革命而不徒、曹・馬之後、時見因循、乃末代之宴安、非往聖之宏義、此城従漢、彫残日久、屡為戦場、旧経喪乱、今之宮室、事近権宜、又非謀笠従亀、謄星揆日、不足建皇王之邑、合大衆所聚、論変通之数、具幽顕之情、同心因請、詞情深切、然則京師 百官之府、四海帰向、非朕一人之所独有、荷利於物、其可違乎、且股之五遷、恐人尽死、是則以吉凶之土、制長短之命、謀新去故、如農望秋、錐暫鋤労、其究安宅、今区宇寧一、陰陽順序、安安以遷、勿懐脊怨、竜首山川原秀麗、卉物滋阜、卜食相土、宜建都邑、定鼎之基永固、無窮之業在斯、公私府宅、規模遠近、営構資費、随事条奏」

 みると判るように、この「隋高祖」の詔を下敷きにして「元明」の詔が出されたと見られるわけですが、それに加え次の一行が付加されていることに注意すべきです。それは「秋収を待って」というものです。

「…亦待秋収後。令造路橋。…」
 
 この語は「隋高祖」の詔にはなく「元明」時点で新たに付加されたものですが、その内容は明らかに前述した「十七条憲法」の「第十六条」にある「從春至秋。農桑之節。不可使民。」という項に違背しないようにという配慮を示したものといえます。
 このことはやはり「即位」において誓った「不改常典」というものが重くのしかかっているものであり、これを「遵守」する事が「帝王」として必須であったことを強く窺わせるものです。


(この項の作成日 2013/01/27、最終更新 2017/10/15)