「持統」はこの「伊勢行幸」というものを「三輪高市麻呂」の「職を賭した制止」を結果的に振り切っておこなったこととなるわけですが、その様な事を敢えて行わなければならなかった「事情」とはどのようなものでしょう。
この「六九二年」という年次の『書紀』の記事は後でも述べますが、諸々の「解析」から「実際」の年次と「四十七年」のズレがあると見られ、実際には「六四五年」のことであったと考えられます。
この時の「潔斎」(沐浴)ということを行う動機となったことは、多分にすぐその後に「褒賞記事」のある「陰陽博士」(「沙門法藏」、「道基」の二人)の示唆によると思われ、この「六四五年」という年次が「九州年号」の「命長六年」であり、その「年号」の字義が「利歌彌多仏利」の「病気平癒」と「延命」を願ったものと考えられるところから、この「行幸」も「利歌彌多仏利」の「疾病」を「祓う」のが目的であったのではないでしょうか。
つまり、この「行幸」は「善光寺」への「助命嘆願」(下記参照)を行ったことと同じような意味があると考えられ、年次も接近していることから、(善光寺文書の命長七年は「六四六年」となり、この行幸の翌年のこととなります)同一人物による行動と推定されるものです。つまり「斑鳩厩戸勝鬘」と「持統」に擬されている人物は同じ人物ではないかと思料されるのです。
(以下「善光寺文書」による「聖徳太子」からの手紙と伝わるもの)
「善光寺」
御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
斑鳩厩戸勝鬘 上
古田氏が指摘したように「長命」を願って「和歌」(「我が君」)や「願文」が作られ、また「命長」と改元される、ということは、「倭国王」(我が君)の現状として「病」に倒れていることを推測させ、この「伊勢行幸」による「沐浴」と「祓除」を行なうということもまたその回復を願う為になされた一連の作業であったのではないかと思慮されるものです。それは『書紀』で『舒明紀』に急に「温泉行幸」記事が増えることでも推察されるものです。つまり、「温泉」の「薬効」を治療に役立てようとしていたと見られ、温泉名としてその名が見える「有馬温泉」はその薬効として「筋肉痛や運動麻痺」などが知られており、この時の「利歌彌多仏利」も手足に「麻痺」症状があったのかも知れません。
ここで「善光寺如来」に対してわざわざ「使者」を派遣し「願文」を「進上」している訳ですが、これについては「善光寺」の縁起とも関連していることが指摘されています。
「善光寺」はその起源をめぐる伝承でも「百済」から将来したものとされていますが、当時(六世紀後半)における「百済」の仏教の状況は既に「阿弥陀信仰」が盛んであり、『請観音経』にもとづく「造仏」などが行なわれていたと見られています。そのような中には「韓国黄海道谷山郡花村面蓬山里」から出土した「一光三尊像」があります。この「三尊像」の「背面」には銘文が書かれており、それによると「景四年在辛卯、比丘道口、共諸善知識那婁賎奴、阿王、阿据五人、共造無量寿像一躯、願亡師父母、生生心中常知遇弥勤、所願如是、願共生一処、見仏聞法」とあるとされます。
この「景四年辛卯」は「五七一年」と推定されており、またその「造仏」の動機として「願亡師父母」とあるところから「師」や「父母」の追善の為のものであることが考えられますが、善光寺如来はこの像に近似していると見られており、その由来・縁起等に共通の基盤があるものと思われますが、少なくともそのうちの一つは『請観音経』の存在ではなかったかと考えられます。
その『請観音経』では「弥陀」の「名号」を「称揚」することで「病苦」から脱却できるとする文言があり、これを捉えて「平安時代」には「疫病」や「疾病」などの苦しみを救うために、『請観音経』の読経や転写などが行なわれているのが記録にあります。
上の願文でも「名号称揚」とされ、「阿弥陀如来」の「名前」を「称揚」したものと考えられ、また「此斯爲報廣大恩」と表現されていますから、「師」や「父母」に対する「恩」に報いるという考え方が示されていると思われますが、これらは「善光寺如来」(これも一光三尊形式とされる)が『請観音経』に基づいて造られており、またそれを「厩戸勝鬘」がよく承知していたと言うことと理解できるものです。このため「善光寺如来」に対して「願文」を「進上」するということとなったものでしょう。
また、この「行幸」を強行した「持統」に擬された「人物」は(結局は「皇極」と同一人物と考えられますが)「沐浴」を行う予定であったとされますから、古式に則ればそれは女性の役割であったものであり、その意味でも「厩戸勝鬘」は「女性」であったと考えられることとなります。このことからも彼女が「利歌彌多仏利」の皇后であったという可能性が高いものと思われます。
『書紀』で「皇極」は「舒明」の「后」とされていますから、これは「利歌彌多仏利」と「厩戸勝鬘」の関係に置き換えて考えることもできると思われ、「利歌彌多仏利」の「夫人(后)」であることを示唆するものと理解できます。そうであれば「病気」からの回復を願って「模索」しているように見えるのも理解できるものです。
後代の「曲水の宴」はその前半の「沐浴潔斎」が脱落して、単に「杯」を浮かべて歌を詠むというような一種「娯楽」の様相を呈するようになりますが、この時の「伊勢行幸」は上に見たように「利歌彌多仏利」の「病気平癒」を祈願したものと考えられ、この「持統」に擬されている人物は実際に「沐浴」して「疾病」を祓う儀式を行ったものと見られます。 それが終了した後「曲水の宴」を行ったということではなかったかと考えられるものです。
ところで、この「伊勢行幸」の目的としては以上のようなことと理解できるものですが、ここで特に「伊勢」に行幸したわけはなぜでしょうか。
それを考える上で重要なことは、「伊勢」という土地の意義であり、特徴です。既に述べたように「伊勢神宮」の祭神(「内宮」)は「天照大神」ではなく「元々」は「宇迦之御魂神」であり、これは「阿毎多利思北孤」の「神格化」されたものであったと考えられます。つまり「利歌彌多仏利」の「父王」であった人物と考えられますから、「利歌彌多仏利」の「延命」を祈願するならば、彼の「父」である「阿毎多利思北孤」が祀られている「伊勢」で、「潔斎」し「沐浴」するというのが重要な要素であったことを意味すると考えられ、それは「天地」の神に捧げたものですが、特に「宇迦之御魂神」へのものであったと言う事が推測されるものです。それは「宇迦之御魂神」が祀られていた「廣瀬大忌神」が「水の神」であり「河曲」に祀られているとされていることと重なるものと考えることができます。
つまり、この「久留米」付近には「伊勢」があると共に「宇迦之御魂神」を祭る「神社」ないしは「霊廟」があったのではないでしょうか。そこで「拝礼」すると共に、川辺で沐浴して「利歌彌多仏利」の快復を祈ったとすると理解しやすいと思われます。
また「善光寺」への手紙を持参したのは「黒木臣」であるとされていますが、この事は「伊勢行幸」においても「黒木臣」が重要な役割があったのではないかと思料されるものであり、その「黒木」という地名が「太宰府」を中心と考えたときの「畿内」(千里四方)の範囲に存在していることもまた注意すべきでしょう。(「朝倉」付近)つまり「久留米−黒木町」の間はかなり近距離であり、この場所が「黒木臣」の勢力範囲の中に入っていたという可能性もあると思われます。
(この項の作成日 2013/01/27、最終更新 2016/02/07)