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「日本」という国号と「朱鳥」の関係


 「朱鳥」への改元については中国の「清」の時代「鐘淵映」という人物が撰んだ書物に『歴代建元考』というものがあり(これはこの時点で知られていた国内外の「元号」について書き表したもの)、その中の「外国編」の「日本」のところに以下のように記載されています。

「…斉明天皇吾妻鏡作天豊財重日足姫即皇極天皇復位仍用白雉紀元在位七年改元一白鳳/天智天皇舒明太子母皇極天皇 在位十年仍用白鳳紀年/天武天皇 舒明第二子名大海人天欲禅位避吉野山 大友皇子謀簒将兵討之遂立 在位十五年仍用白鳳紀年後改元二朱雀/朱鳥/持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后 因主國事始 更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和…」

 これらの記事を見ると「仍」とは「継続して」という意味に使用されているようであり(辞書にもそのような意義があるとされています)、「持統」の時点で「朱鳥」という年号を「天武」から続けて使用していたが、後に「太和」と改元したと読めます。そして、彼らの「知りうる範囲の知識」では「日本」と国号を変更したのはその「持統天皇」である、というわけです。
 この記述は先に述べた『旧唐書』『新唐書』に書かれた事を分析した結果と合致しており、国号変更に関する推察を補強するものです。また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥改元」から幾ばくもない年次であることが推定できます。
 『書紀』では「大化」が「改元」と書かれています。この「改元」は(これも既に述べたように)「禅譲」という「王朝交替」を裏に含んでいると思われます。
 「禅譲」の場合には「改元」され、前王朝の大義名分などはそのまま新王朝に継承されます。このことから、この『書紀』の主張は「七世紀半ば」に「旧王朝」から「新王朝」への「禅譲」が行われたものであり、その際に「倭国」から「日本国」へ「国号」が変更されたと言うことと理解できます。(何度も言いますが、これは「隋代」に名称変更を願い出たものが頓挫したための「リトライ」であったものと思われます。

 そもそも「国号変更」が「王朝交代」などの事象を伴わないと考えるのは困難であり、そうであれば『歴代建元考』が言うように「朱鳥」がその時点で「改元」された元号であったという可能性はあり得ると思われます。それは「倭」から「日本」への変更と「朱鳥」が「あかみとり」という「訓読み」であることとはつながっていると考えられるからです。
 「倭」から「日本」への変更は「倭」が「雅」ではないと理解したからとされていますが、「倭」というものが「倭国」が自ら名乗ったものではないと言うことが根底にあることをこの時点で意識したのではないでしょうか。
 この「倭」というのは「古」から続く由緒あるものではあるものの、自称ではなく「中国」側から見てつけられた名前であると思われ、そのことを意識したものと思われるわけです。そうであればこの時「国号」として採用された「日本」は「自称」と考えられる訳ですから、その発音は「音」ではなく「朱鳥」と同様」「訓」で呼んだという可能性が高いでしょう。つまり「ひのもと」と自称したものではないかと推察されます。これの根底に「肥(ひ)の国」があったと見るのは当然と思われます。


(※)林巳奈夫「4神の1,朱鳥について」(『史林』77(6)一九九四年 史学研究会)


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2018/07/28)