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「日本」と「肥」の国


 ところでこの「朱鳥」の持つ「火」や「日」のイメージは「肥の国」にそのままつながっているように見えます。「肥」は「火」でもあり、また「日」でもあるのです。このことからこの時の「王権交替」の実質というのは「肥」の国からの権力移動を示すものと思われ、「總持」(持統)の(「皇孫」の)朝庭は、「肥」の国から迎えられた「王」であり、その際に「日本」という国号へ「変更」「改定」したこととなると思われます。
 さらに当時の感覚としては「朱鳥」とは「南方」のイメージから「中国南朝」をも意味するものと考えられていたものではないでしょうか。そうであれば『持統紀』に「元嘉暦」使用が謳われているのは理由のあることとなります。
 すでに述べたように「宣諭事件」以降「倭国内」では「隋」に対する過度の傾倒が急速に反動化し、従来の南朝への指向(回帰)が再び王権の主流となっていたものではなかったでしょうか。そうみれば「訓読み」や「元嘉暦」の採用も首肯できるものです。

 また「国号」の変更については『三国史記』で「六七〇年」の項に書かれていることや、「百済禰軍」の墓誌に「日本」が登場し、その墓誌が書かれたのが「六七八年付近」であるらしいことが推察されていますから、『書紀』に書かれている「六八六年」の「朱鳥改元」とは整合しないこととなりますが、この「朱鳥改元」の年は当初の「名称変更」に関わるものであり、「墓誌」の記述と一致しないのも当然ともいえます。ただし「金石文」とも言うべき「百済禰軍墓誌」の存在の方が本来優先しますから、まず『書紀』の記載の方を疑うべきことは確かであり、これが「本当に」「六八六年」なのかが問われることとなるものと思われます。(改元時点で「遣唐使」が送られていなかったと言うことから推測して、改元そのものもが国外に公表されていなかったという可能性もあるでしょうから、「六四〇年」時点で改元されたという可能性は、これを否定できません。)

 そもそも、この「日本」という国号は実ははなはだ「由緒」正しいものであったと思われます。つまり、「日本」という名称は以前から存在するものであり、「總持(持統)朝廷」もそういう意味で、「伝統」と「由緒」に則って「日本」と国号変更したものではないでしょうか。
 「日本」という名号は古くから「九州」に存在していたものであり、元々「肥の国」を意味する言葉であったと思われます。(これについては「筑紫」の別名であったという考えも以前持っていましたが、それは「肥の国」から「筑紫」へと王権の所在地が移動した歴史を踏まえていませんでした。)
 現実に「日本」(ひのもと)という地名が今でも存在しているのは主に筑紫地域です。たとえば那珂郡や早良郡などに「日本」(ひのもと)という「字地名」が現存しているのが確認できます。他にも、長崎県(壱妓)、山口県、奈良県などにも各一、二カ所、「日本」(ひのもと)という字地名がありますが、多く見いだされるのは「筑紫」であり「博多湾岸」なのです。
 しかし、上に見たように本来は「日」の国、つまり「肥」の国(特に「肥後」)を表す言葉であったと思われ、それが「倭国王権」そのものを表象する用語として使用されていくようになったのではないでしょうか。つまり、「古墳時代」は「肥後」が「日の本」であったと思われ、それは「隅田八幡」の鏡の文言の解析からもいえることと思われます。つまり、既に述べたように「隅田八幡」の銘文にある「日十大王」は「日夲大王」の書き誤りと思われ(「本」と「夲」は同義で使用されていたもの)、その時点で「日の国」を「日本」と自称していたことを示すものと推察されますが、「古墳時代」が終わり、統一王権が「東国」も含め統治、支配するようになると、それ以降「日本」は「筑紫」の別名として、あるいは「ほめ言葉」として、あるいは「枕詞」として使用されるようになったものと思料されます。

 この「日本(ひのもと)の」という枕詞は『万葉集』で出てきますが、「大和」に対して使用されています。『万葉集』によれば「六七〇年」の「天智朝」における「日本国」創立とともに、「倭」の音として(読みとして)「やまと」が使用されるようになります。(「倭」の読みは「キ」のある地名を以てその読みとすると言うルールがあったものと思われ、それ以前は「倭」と書いて「ちくし」と発音したと考えられます。)
 現存している『万葉集』は、その性格から言っても、またその成立年代から言っても「八世紀」以降に主として編纂されたものと考えられ、「持統朝」以前の「原初型」とはかなり様相が異なるものと考えられますが、それの元となった『原・万葉集』では「日本」という言葉は「筑紫」に掛かるものであったのではないかと考えられます。
 つまり、本来「首都」のある場所にかかる枕詞であったと考えられ、その「元々」の首都が「筑紫」であったとすると「枕詞」としても、「筑紫」にかかるものであったと考えられますが、その後「八世紀以降」の『書紀』の「潤色」などの際に「大和」に掛かるものに変えられたと思われるわけです。
 あるいは「持統天皇」が「藤原宮」に遷都した際の「改元」された元号である「大化」というのが、実は「大和」(ないし「太和」)であったという場合があり、この時点で「大和」に掛かる「枕詞」になったのかもしれません。(上に見るように『歴代建元考』では「持統」の代に「大和」と改元されたとされていますし、『海東諸国記』『襲国偽潜考』においてはその年次を「六九五年」としているようですから、まさに『書紀』における「持統」の代と解釈できます。)


(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2018/07/28)