(以前「八世紀」に入ってからの遣唐使(粟田真人等)が派遣された際に、「唐」の官僚から「国名」が変更になっていることを聞かれ、それに各々答えたことが『旧唐書』や『新唐書』に書き留められたものと考えていましたが、早い時期に国号は変更され、しかもそれは「八世紀」に入る前に唐へ伝えられていたという観点の新知見を得たので、そのように訂正することとします。)
『旧唐書』及び『新唐書』には『日本』という国号変更に関する記事があります。
「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。
長安三年、其大臣朝臣眞人來貢方物。…」『旧唐書』
「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦夷人偕朝。蝦夷亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
長安元年,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」『新唐書』
これら『旧唐書』においても『新唐書』においても時系列に沿って記事が構成されているのは一目瞭然であり、「国名変更」についての情報は両者とも「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれているのが注目されます。
この『旧唐書』『新唐書』のこの部分は(というより「編年体」で書かれた史書は基本そうですが)、「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)に関連すると思われる「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。また『新唐書』では「天智」「天武」「總持」と続いたところで「咸亨元年」記事が挿入されています。この「咸亨元年」は「六七〇年」を意味しますから、これが「時系列」に基づいているとすると「六七〇年」という時点以前に「總持」(これは「持統」と思われている)まで、「代」が進行していることとなります。(但しそれが「咸亨元年」の直前であることをただちに意味するというわけではありません。)
また、その「挿入記事」である「咸亨元年」の「賀使」の文章中に、「後」という表現がされており、このような書き方は「年次」を表すそれ以前に書かれた「年号」や「干支」などから切り離すための文言と考えられ、それがいつかは明確ではないものの、「長安元年」記事の前に挿入されていますから、その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していること、つまり「国名変更」は「文武」の時代の「粟田真人」の遣唐使以前のこととなるのは必定と思われます。つまり「日本国」への国号変更というものが、一般に考えられているような「八世紀」に入ってからのものという理解が、実態とはかなり乖離することが疑われます。
また『新唐書』『旧唐書』に書かれた内容によると、「日の出るところに近いので」、「倭国自ら名称変更した」、「其の名が雅でないので」、「日本は旧小国であるが、倭国を併合した」などと各自が答えたとされます。
重要な点は、この証言が外国史書に書かれたものであることです。「粉飾」などの心配のない情報であり、信頼性は高いと考えられます。また、聞かれて「虚偽」を答えなければならない必然性もないと考えられ、これらの証言には高い確度で「真実」が含まれているものと考えられるものです。また各々答えのニュアンスが微妙に異なっているのが注目されます。
これら「国名」変更を知らせる「遣唐使」がどの段階のものであるかもう少し考えてみると、上に見るように「太宗」以降であるのは確かですから「高宗」段階であることは間違いないと思われます。その意味で「伊吉博徳」の記録の中に「日本国天皇」という呼称が出てくるのは注目すべきでしょう。(これは「高宗」の発言の中にあるもの)これについては当方も以前は「後代の潤色」と見ていましたが、「伊吉博徳」の記録の中にあるという点について他の『書紀』の記事と同列に扱うべきではないことに注意すべきと再確認しました。そう考えると、彼かあるいはその直前である「白雉年間」の遣使の際のやりとりである可能性がもっとも高いように思えます。つまり「六五三年」に派遣された「小山上吉士長丹」を大使とした一行です。
彼らは確かに「高宗」と謁見し褒美の品などを下賜されるなど友好的な交渉を行っています。彼らが「日本国」「天皇」という自称を許可してもらうよう願い出て、それがこの時点で許可されたものであり、その時のやりとりや印象が『旧唐書』『新唐書』等に書かれることとなったものではなかったでしょうか。(すでに述べたようにこの「国号」変更に関しては「遣隋使」が「天皇」自称と共に「隋皇帝」(高祖文帝)に願い出たものの「天子自称」という僭越な行為のために「宣諭」されるに至ったことから「倭国王」から変更されることはなかったものであり、それを再度この時点で願い出たと云うことであったと推定するわけです。)
また検討の結果「国名変更時点」で「倭国」がその「首都」を移動したこと、移動した先が「旧小国」であった地域であること、移動した時点か或いはその前に「倭国」から「日本国」へ国号が変更されたこと、現在の「日本国」はその「旧倭国」であるところの「日本国」が「遷都した先に存在していた旧小国」に「併合」された「後継」であること。「倭国」から「日本国」への「国号」の変更と、「倭国」の地を「旧小国」が併合する(つまり「権力」及び「大義名分」の移動)には「時間差」があること等々を意味していると考えられます。(推測によれば「筑紫」を奪還した時点で「日本国」へと変更したものであり、その余勢を駆って「近畿」地域(難波か)へ副都を構築したと思われ、この地域に元々勢力を張っていた権力者の後裔が「新日本王権」の主体となったものと思われるわけです。
つまり、「倭国」がその都を遷し、「日本国」へ「国号」が変更された後(いかほどの時間、年数が経過したかは不明ですが)「旧小国」であるところの現「日本国」中枢により「併合」されたことになったものと考えられます。「併合」というような事態が発生するためには「血筋」が絶えるというような事が起きたものと見られ、(ちょうど継体の時のように)遠縁の人間が選ばれて即位したことで「倭国王」となったものと考えられます。
この「倭国」が「日本」というように国名を変更した最初が「阿毎多利思北孤」段階であったとすると、彼の「動機」となったものは「筑紫」の奪還であり、「肥(日)の国」から「筑紫」へ進出したことを踏まえていたものであり、彼が「隋」に使者を送ったのも「倭国」を変革し「日本国」へと名称変更するという象徴的行為に関係づけられるものであって、「筑紫」奪還のその後を安定的なものとするため、旧習を打破し全く新しい権力構造の構築を狙っていたためでしょう。しかしそれは一部達成されたものの「隋皇帝」から「宣諭」される事件を経て、その後更に「高表仁」事件に行き当たったことから彼とその太子である「利歌彌多仏利」の「旧日本國」が内外の支持を失い、衰退することとなり、さらに「利歌彌多仏利」の死に伴い「持統」(彼の夫人「后」と推定される)が代を臨時的に嗣いだ時点以降「新日本国」が誕生したものではなかったでしょうか。
既に見たように『仏祖統紀』という書には「蝦夷国」記事の中に「倭国」の国号変更が書かれており、「蝦夷国」の使者が「倭国」の使者と同行したという記事と関連してそのことが書かれています。つまり「蝦夷国」を「倭国」の版図に入れたことを称して「日の出るところに近い」という物言いになっている可能性が考えられ、そうであればその「蝦夷国」からの使者が来たのが「唐」の二代皇帝「太宗」の時代であるというこの『仏祖統紀』の記事から考えると、「六四〇年」以前にその「国号変更」が行われたものではないかということが考えられるでしょう。「朱鳥改元」が「六二六年」と推定出来ることをすでに述べていますから、「国号変更」もその至近の年次であった可能性が強く、その時点で「皇孫」への「禅譲」により新王朝が成立したと言う事が考えられます。
それに関連して『日本書紀』の前に存在したと考えられる『日本紀』もそうですが、史書名に「日本」という名称(国号)がついているのが注目されます。これら『日本書紀』『日本紀』とも「歴代」の「中国」の史書の例に漏れず「前史」として書かれたものと思料されます。
「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志(魏志)』は「晋(西晋)」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本紀』が書かれるに至った理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。その場合「前王朝」であるところの「日本国」と、新王朝であるところ「日本国」が存在していたこととなり、それが「禅譲」なのか「革命」なのかが問題となりますが、『書紀』『続日本紀』とも「持統」から「文武」へという禅譲を謳っています。しかし「年号」は「大宝」において「建元」とされていますから、実態としては「前王朝」とは隔絶していることとならざるを得ません。
「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」されていますが、「改元」とはそもそも「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して「ゼロ」から再スタートするとした場合「改元」するものです。さらにそれにも従わないとすると「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下し「受命」させるものであり、この場合は「新王朝」樹立は「革命」であり、「建元」となります。
このようなことを考えると、「禅譲」はまだしも「天」の意志に沿っているともいえるものであり、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではありませんから、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
たとえば『旧唐書』などに、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、『日本紀』という史書の国号として使用されている「日本」は「前王朝」のものであり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立したと見るべきこととなります。この場合、「新王朝」と「前王朝」の国号が同じなのは「その統治の中心領域が同じ」だからでしょう。(中国でも元の封国が新王朝の国号となっていますから、それを敷衍すると「日本」という国号は「新王朝」の元々「封じられていた地域」の名称であったという可能性が高いと思われます。)
また、このように「新王朝」が造られた場合は、「首」や「頭」のすげ替えのようなものではなく「中身」がそっくり入れ替わったと見るべき事となります。(そうでなければ「禅譲」と言い得るからです)つまり「体制」全体が入れ替わったものであり、官僚なども多くは共通していないこととなる可能性があります。
そして「前王朝」の名前を「冠」せられた史書が『日本書紀』であり『日本紀』であった、ということは「總持朝」の時代の国号が「日本国」であった、という事にならざるを得ず、「国号」が変更されたのは「總持朝」の時代であったという『旧唐書』や『新唐書』からの解析と整合することとなります。(「總持」も「持統」も同義であり、「つなぎ役」という意味がありますから、この人物が緊急的対応として即位していることが示唆されます。)
(この項の作成日 2011/04/26、最終更新 2020/05/04)