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「儀鳳暦」について


 『持統紀』には「元嘉暦」と共に「儀鳳暦」を使用するという「詔」が出されています。このうち「儀鳳暦」という暦については一種不思議なことがいわれています。『日本国見在目録』には確かに「儀鳳暦」という記述があり、間違いなく「儀鳳暦」という「暦」は国内にあったと思われるわけですが、その伝来に関してやや不明な部分があるとされているのです。

 一般には「唐」の「儀鳳年間」(六七六−九年)に「新羅」に渡ったものが「倭国」へ伝来したとされているわけですが、その経緯が不明であったものです。しかも実際に「新羅」が唐から「麟徳歴」を受容したのは「儀鳳年間」以前の「咸亨五年」(六七四年)であることが明らかになっており、「儀鳳暦」という名称の根拠とはなり得ないものと推定されるためこの「儀鳳暦」という呼称は「倭国」における「命名」ではないかとも言われていましたが、「儀鳳」という「年号」が示す時代と全く異なる時代の暦にそのようなものが名付けられる必然性が見あたらず、これも成立しないのは明白であると思われていました。
 考え方としては「儀鳳」という年号が使用されているのですから当然「儀鳳年間」に伝来したと考えるべきであり、そのような時期に帰国した「遣唐使」などによる持ち込みが最も想定されて当然となるでしょう。そしてそれに関係があると考えられるのが、「白雉四年」五月に派遣された「遣唐使」の中の「道光」という人物です。彼が帰国したのは『三国仏法伝通縁起』(鎌倉時代の僧「凝然」の書)によると、「天武七年」(六七八年)であったとされています。

「(白雉)四年夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒〈駒更名絲〉・學問僧道嚴・道通・『道光』・惠施・覺勝・弁正・惠照・僧忍・知聡・道昭・定惠〈定惠 内大臣之長子也〉・安達〈安達中臣渠毎連之子〉・道觀〈道觀春日粟田臣百濟之子〉・學生巨?臣藥〈藥豐足臣之子〉・氷連老人〈老人眞玉之子。或本以學問僧知辨・義コ・學生坂合部連磐積而増焉〉并一百二十一人倶乘一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂〈更名八掬脛〉・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」(孝徳紀)

「…天武天皇御宇。詔道光律師為遣唐使。令学律蔵。奉勅入唐。経年学律。遂同御宇七年戊寅帰朝。彼師即以此年作一巻書。名依四分律鈔撰録文。即彼序云。戊寅年九月十九日。大倭国(一字空き)浄御原天皇大勅命。勅大唐学問道光律師。選定行法。(已上)奥題云。依四分律撰録行事巻一。(已上)(一字空き)浄御原天皇御宇。已遣大唐。令学律蔵。而其帰朝。定慧和尚同時。道光入唐。未詳何年。当日本国(一字空き)天武天皇御宇元年壬申至七年戊寅年者。厥時唐朝道成律師満意懐素道岸弘景融済周律師等。盛弘律蔵之時代也。道光謁律師等。修学律宗。南山律師行事鈔。応此時道光?(もたらす)来所以然者。…」(『三国仏法伝通縁起(下巻)』より)

 この「戊寅年」が「六七八年」であったなら「唐」の「儀鳳年間(三年)」にあたり、その場合であれば彼が多数持ち帰った「仏籍」以外にも「暦」もあったと見ることがてきるというわけです。こう考えれば「儀鳳暦」という謎の暦について、その名称の由来が理解できるとするわけですが、この「道光」についてはそれとは違う状況も措定できます。

 彼は帰国後「依四分律鈔撰録文」という書を著したとされています。また、上の『三国仏法伝通縁起』の後半に当時「唐」で盛んであったという「律師」の名が数名書かれていますが、いずれも七世紀の半ば以降八世紀前半に生存していた人物達であり、彼らと同時代であるとするとほぼ「道光」は「鑑真和上」より一世代上の人物であることとなります。
 「鑑真」は「七〇五年」に「十八歳」で「南山律師」から「菩薩戒」を受けており、さらに「七〇八年」には「弘景律師」から「具足戒」を受けています。それと比較すると、「道光」はその一世代前の人物とされていますから、六七〇年付近に「学律」を学んで帰国したこととして不自然ではないわけですが、しかし「道光」は本当に上の人物達と同時代であったのでしょうか。

 この後半の記事の中には「天武天皇御宇」という表記があり、この「表記」が示すところは『書紀』など後代知識を反映した「凝然」のオリジナルの記述であるという可能性が高いと思料します。文中には「浄御原天皇」とありこれを『書紀』と比較して「天武」と見なした上の記述と思われるのです。
 そう考えると「戊寅年」というものが「必ず「六七八年」でなければならない」という必然性はなくなります。『書紀』に「遣唐使」記事がないことと「唐側」の記録にも同様にそれが見あたらないというを考えると、「戊寅年」の帰国というのはかなり不審な情報というべきでしょう。
 そうであれば「儀鳳暦」は「道光」とは全く別の人物が別の時期に伝えたこととなるものと思われ、最も考えられるのは「新羅」からの使者によるものと見ることです。『書紀』の「六七九年」には「新羅」からの使者が多量の献上物を持参した記事があり、その中には「書物」の類が全く触れられていませんが、その中に「暦」や「暦法」に関するものがあったと見るのはそれほど不自然ではありません。


(この項の作成日 2011/01/08、最終更新 2015/08/18)