生まれた子供の名前に、生まれた年の干支を取り入れることがあります。たとえば、寅年生まれだと、「刀良」や「刀良売」、卯年生まれだから「宇提」「宇提売」「宇麻呂」などと名づけるのがそうです。このような命名法が一般化したのは暦法を取り入れて後のことであると考えるのは自然です。
古代の「戸籍」には「生年」(干支)と「名前」が記録されており、そこから計算すると「庚寅年」以前にはそのような命名法と考えられる例が少なく(つまり干支と人名に対応が見出せない)、多くの人々にとっては「干支」というものが身近ではなかった事が窺えます。つまり、「暦法」が導入され、国内に施行されたことによって「干支」というものが日常生活の中に溶け込んでいったことがこの「命名法」からも読み取れるわけです。特に「班田」の制度の施行と「名前」に「生まれ年」の「干支」を関連づけることが行われるようになったことは深く関係していると思われ、当初「十二年に一度」の班田支給がおこなわれていたことを推定させます。
ところがこの対応関係が「丙申年」以降一年「ずれる」現象が確認されています。(※)つまり、実際の生年の干支の「翌年」の干支を人名に用いることが頻出するのです。
「丙申年」まではその年の干支を人名にしているのが多くなっています。たとえばその前年(これは六九五年と思われていますが、六三五年という可能性も考えられるところです)は「未年」ですが、「羊」や「羊売」などと命名されているのがそうです。しかしこの翌年の「丁酉」になると突然、「酉年」であるのに「翌年」の「干支」である「戌」にちなんだ「犬麻呂」と言う名称が現れ、「酉(鳥)」に関する名称は見えなくなります。以降も同様に生年の「翌年」の干支が名称に使用されているのがわかります。その翌年は戌年ですが「猪手売」、更にその翌年である「己亥」(「六九九年」ないしは「六三九年」)は亥年であるのに「根麻呂」、「七〇〇年」は子年にも関わらず「牛麻呂」や「牛売」、「七〇一年」は丑年で「刀良」、「刀良売」、「七〇二年」は寅年で「宇麻呂」、「宇提売」などとなっています。そして、その年の干支を使用した例は「一件」も確認されていません。(このずれはこの「壬寅」つまり「七〇二年」(あるいは六四二年)で終了しその翌年からまた正常に戻ります。つまりそのつぎの「造籍」時に修正されたとみられるわけです。
これについて岸俊男氏は「籍帳」を製作した実年時と提出された年次の相違に帰して考察していますが、そうとは言い切れないのは当然です。その場合その年次付近だけになぜ現れるかを説明しなければなりません。
これについてはたとえば「暦」の切り替え時の混乱と考えることもできると思われます。(それはたとえば「元嘉暦」あるいは「戊寅元暦」から「儀鳳暦」へかもしれませんし、「四分暦」から「戊寅元暦」かもしれません。)
しかし最も可能性があるのは「周正仮説」ではないでしょうか。つまり「六九〇年」の十一月を正月(つまり次年度の)とする暦の変更です。これは「武則天」が行ったことであり、「新羅」も追随していました。これを「倭國」でも採用したのではないかと思われるわけです。それを示すのが「永昌元年」という「日付」が書かれた「那須国造碑」の存在です。
この「永昌元年」という日付は「武則天」が「夏正」を導入した年次であり、それは「永昌元年」と改元した直後のことでした。
その場合この年は十二月がなかったこととなります。その年の十一月に行ったはずの「大嘗祭」もその次年度のこととして記録されたものです。
ところで、この当時一般民衆は家族などが生まれたり死去したりした際に「役所」に届け出を行う必要がありました。そしてその時点で「戸籍」に書き込まれることとなったわけですが、当然生まれた日や死去した日は重要であり、それは「役所」に備え付けられていた「具注暦」(これは「中央」から頒布されたもの)で知ることとなったわけです。この「暦」には日付と共に「干支」が書かれていたものであり、それによりたとえば生まれた子にその生まれた年の「干支」にちなんだ名前をつけることができるわけです。そのためもしその「暦」が「ズレ」ていたとすると子供の名前も本来の干支とは異なる名前となってしまいます。
このとき「筑紫」地域の戸籍において「生年干支」とは異なる名前がつけられていたのはこの「基準」となるべき「暦」に「ズレ」があったからと見るよりなく、「頒布」されていた「具注暦」に何らかのトラブルが生じていた可能性が高く、その中身として最も考えられるのが上に見た「周正」への変更であり、「1月」と「正月」が同年に発生した結果、「干支」の数え方を誤った可能性が高いと推量します。
この「ズレ」は「周正」の影響と見ることができるのはその「ズレ」が「七〇一年」の造籍時点で修正されたらしいことからも言えます。なぜなら「周正」は「武周」において「七〇一年」まで継続したものであり、その翌年「夏正」に復帰したものであり(新羅も同様)、仮に「倭國」においてもこの時点で「復帰」したとすると「大宝二年」時点で元に戻ったこととなり、それは「戸籍」の示す状況と一致しているからです。
但し『書紀』の編纂者はこの「周正」を「なかったこととしよう」と企てたと見られます。それは「永昌」という年号の存在と共に「唐」の柵封国として隷属していた事を示しますから、「自尊心」の強くなっていた「近畿王権」の当局者には耐えられることではなく、これを「唐」と「対等」に交渉があったこととする方策を考えたに相違なく、そのため「周正」がなかったこととすることとされたものと見られ、「即位」から「大嘗祭」という儀式の型式がすでに成立していたであろうと考えられる時期において、あえて「正月」の即位と翌年の「大嘗祭」という記事を書き込んだものと見られ、その際「日付」のズレを隠すために「朔干支」を敢えて書かなかったと見られるわけです。
(※)岸俊男「十二支と古代人名 −籍帳記載年令考−」(『日本古代籍帳の研究』塙書房一九七九年)
(この項の作成日 2011/01/08、最終更新 2017/01/01)