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実際に使用された「暦」は何か


 「伊吉博徳書」の分析から、この当時「戊寅(元)暦」が使用されていたことが推定されていますが、「野中寺」の刻銘(銘文)からは「新暦」と「旧暦」の存在が示唆されています。
(以下「野中寺」の弥勒菩薩像の台座銘文)

「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」

 ここに云う「丙寅年」は通常「六六六年」と考えられており、また「旧」とは「旧暦」を指し、それは「新暦」に対するものとされています。この「旧」は「旧」ではなく「朔」であるという主張もありますが(「旧」の旧字体である「舊」は「旧」とは当時略さないという主張)、それが「旧」ではなくとも、この年次を示す暦がその「日付干支」などから考えて「伊吉博徳書」等で使用されていたと見られる「戊寅暦」ではないかと考えられることは確かです。
 そうであれば『斉明紀』付近から継続して『天智紀』のある時期まで使用されていたと見ることができるでしょう。これが「元嘉暦」であったとすると、「戊寅暦」から何時の時点で変更となったのかをいう必要があるでしょうけれど、この短期間にそれが行なわれたというのは困難な想定ではないかと思われます。
 仮にこの表記が「旧」であったとすると、この時点あるいはそれより以前に「新暦」が使用され始めていたこととなりますが、可能性のあるものとしては「麟徳暦」ないしは「元嘉暦」が考えられます。
 「麟徳暦」の場合は、「六六五年」に成立していますから、これが「即座」に「倭国」に伝わって「新暦」として受け入れられたという可能性について考慮しなければならないこととなります。
 このような可能性は(通常は)考えにくいと思われますが、「唐・新羅」との戦いに敗れた「倭国」が「唐」の「正朔」(暦)を受け入れたとするならば、「新暦」として「倭国」で「麟徳暦」が行なわれていたと言うことも有り得ることとなります。つまり、「薩夜麻」の補囚状態を解消し、泰山封禅に陪従者を伴って参列することとなった「倭国」の受け入れた条件の一つが「暦」(正朔)の受け入れであったかも知れません。
 「熊津都督府」にあって力を振るっていた唐将「劉仁軌」は「百済征討」の際には「東方に正朔を頒布する」ということを目的としていたとされますから(下記)、「百済」だけではなく「倭国」にも「暦」を頒布したという可能性もあるでしょう。


「初 仁軌將發帶方州 謂人曰 天將富貴此翁耳 於州司請暦日一卷并七廟諱 人怪其故答曰 擬削平遼海頒示國家正朔使夷俗遵奉焉 至是皆如其言」(旧唐書劉仁軌伝)

 ここでは「遼東」といい「夷俗」と言っており、通常これは「百済」を指すと思われていますが「倭国」も含めてその戦闘に関わった地域とそこに住む人々が対象となっているという可能性もあります。(「新羅」では既にこの時点で「唐」の暦が行なわれています)
 また、「倭国」は戦争終結に当たって「倭国王」の「降伏」と「唐」の「正朔」を受け入れるなどの条件を呑んだとみるなら、「年号」の使用についても「唐」の年号を使用することが「義務づけられた」こととなると考えられますが、「九州年号群」は「白鳳」が「六八四年」まで継続し、その後「朱雀」「朱鳥」と短い期間起用された年号が確認できるなど、「唐」の年号が即座に使用されたとは一見見られません。しかし「那須直韋提の碑」には「則天武后」時代の唐の年号「永昌」が書かれており、わずかながらその可能性を示唆しています。
 ただし、「六六五年」に来倭したとされる「劉徳高」は私見ではその前年に訪れたものと見られますし、仮に「六六五年」に来倭したとして彼が「暦」「麟徳暦」を持ち込んだとしても、それが一般に使用されるという事が果たしてあったのか、ありうるのかは非常に困難な想定ではないかと思われます。
 「劉徳高」達は「六六五年」の末には帰国しますし、この「野中寺」の刻銘は「四月」のことですから、ほとんど「頒布」の期間はなかったと思われます。この「刻銘」は「野中寺」の「知識」つまり「一般人」が中心でしたから、彼等に「新暦」に対する情報が伝わっていなければなりませんが、そのような想定はかなり恣意的なものではないでしょうか。こう考えると「新暦」が「麟徳暦」ではないという可能性が強いと考えられます。

 この「旧」が「旧」であってそれが「元嘉暦」であるという可能性もなくはありません。「唐」との間に「戦争」まで起こり、「和平」交渉にも手間取っていたと考えると、「戊寅暦」から「南朝起源」であり「百済」でも使用されていた「元嘉暦」を改めて採用したということも考えられるところです。
 しかし、この「元嘉暦」であったとすると、それを避けてなぜわざわざ「戊寅暦」によって日付を記載しているかが不明となるでしょう。そもそも「旧」はやはり「旧」ではないという可能性が高いと思料されます。(但し、「朔」であった場合「意味」がよく通じませんけれども)

 ところで、二〇〇三年二月二十六日、奈良県明日香村飛鳥の石神遺跡から「具注暦木簡」が発見されました。そこに使用されていた「暦」について「奈文研」から「元嘉暦」であるという発表が行なわれた訳です。
 そこには六八九(持統天皇三年)三月と四月の暦が、木簡の表と裏にそれぞれ一週間分書かれていました。これにより持統天皇四年(六九〇)条の勅命以前にも暦が使われていたということが明らかになったわけですが、ここに使用されていたものが「元嘉暦」なのかどうかは実際には不明と言うべきではないでしょうか。
 もちろん『書紀』に「六八九年六月」の記事として「飛鳥浄御原律令」施行とされていることと関係づけて考えられている訳であり、また『書紀』のこの時期の記述に使用されているのが「元嘉暦」であることも事実ですが、「麟徳暦」との比較だけでこれが「元嘉暦」であるというのはやや早計であると思われます。なぜなら「日の干支」や「十二直」などがこの「具注暦木簡」と齟齬しないのは「元嘉暦」だけではないからであり、「戊寅(元)暦」もその候補に挙げられて然るべきだからです。
 これが俎上に乗せられていないのは「戊寅(元)暦」が「六六五年」以降使用されていないという「思い込み」からではないでしょうか。それは「唐」においては確かにそうかも知れませんが、「唐」の国外においては「唐」における「施行期間」とは異なる時期に各種の暦が使用されていたのは別に珍しいことではない訳であり(多くの暦がそうであった)、この「戊寅(元)暦」がこの時点で「倭国」で使用されていたとしてもそれほど不思議ではないと思われます。
  
 『書紀』については太陰暦により日付が書かれているわけですが、詳細に調査すると五世紀の半ば(四五六年八月)以降八世紀の終わりまでは「元嘉暦」で記されており、(正確に言えば「三九九年」から「四五六年」まではどちらとも言えない)それ以前は「儀鳳暦」を使用して(ただし平朔)書かれていることが判明しています。
 五世紀半ば以前には「儀鳳暦」が国内に行われているはずはないわけですから、これ以前の暦は「儀鳳暦」に「換算」されたものか、あるいは「捏造」されたものと考えられます。それを示すように「儀鳳暦」段階では「閏月」表記がありません。「元嘉暦」の範囲内にだけ全ての「閏月」が存在しています。事象が任意に発生していたとすれば当然「閏月」においても発生したはずであり、それが「儀鳳暦」の範囲内だけは発生しなかったとは考えられないわけですから、この「儀鳳暦」範囲の事象は限りなく「捏造」である可能性が高いと考えられます。しかし、前述したように「元嘉暦」以前は「結縄刻木」していたわけであり、「日付」は「口承」による以外には(「事象」についての)記録されていたとは思えず、書かれたものとしてはなかったであろうと推定されるわけです。つまりいわゆる「日付入り記事(記録)」があったとは非常に考えにくいことと思われるわけですが、この時期の記事には日付が月の前半しかないことが確認されたており、それら「倭国暦」とでもいうべきものが口承として伝承されていたとみれば、それを「儀鳳暦」に換算したと思われ、その際に「二倍年暦」であることを見誤った可能性が高いと見られるものです。

 この「具注暦木簡」の年次の翌年(六九〇年)のこととして『書紀』には「元嘉暦」と「儀鳳暦」を使用するという宣言が出されており、ここで「改暦」することとなったと一般に考えられていますが、それもまた不審です。なぜなら「洞田氏」の論にあるようにこの時の「倭国王権」は「武則天」の「歳首変更」(「周」王朝の暦を使用するという宣言を行なった)をそのまま受け入れ、十一月を一月へと変更したものとみられますから、その暦が「元嘉暦」であるはずがないこととなります。そうであればこの時点以降「儀鳳暦」が施行されたものではないでしょうか。(ただしこれも『書紀』の記述に使用された暦とは異なると言えます)


(この項の作成日 2011/01/08、最終更新 2017/05/20)