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北部九州の地割制度について


 「北部九州」の地割制度については既に「大越氏」による詳細な論(※)がありますが、その議論をなぞる形で以下に述べてみたいと思います。
 先に見た「大宝二年戸籍」の中の「筑紫」地方の戸籍の中に「班田」に関する記述からの解析として以下のような結果が導き出されていますが(これは「虎尾俊哉氏」の成果(※)によるところが大きい)、ここで見られる「地割」の単位はいわゆる「慶雲三年格」に示された「令前」とも「令後」とも異なっています。
 これを地域別にまとめると以下のようになります。

「筑前国」
   良民  奴婢
 男  600  180
 女  420  120
 比率  0.7  0.6666

「豊前国」
   良民  奴婢
 男  594 198 
 女  396  132
 比率  0.6666 0.6666 

「豊後国」
   良民  奴婢
 男  478  不明
 女  318  不明
 比率  0.66527  

「大宝田令」
   良民  奴婢
 男  720. 240
 女  480 160
 比率  0.6666  0.6666

 このように「地域」ごとに「良民男子」を中心として受田額が設定されていますが、そのいずれも『大宝令』で設定された「受田額」と一致していません。
 この「大宝二年戸籍」はその名の示すとおり、「大宝二年」という日付が確認され、明らかに『大宝令』施行後の「戸籍」であるわけですが、にも関わらずそこに示された「受田額」が『大宝令』に拠っていないというのは不審極まるものです。これについては「田地」が少なかったために削減せざるを得なかったという説や、王権側があえて規定よりも少ない受田額を設定した(いわば削った)という説もありますが、いずれも納得できないものです。それはたとえば「豊前」の場合はほぼ「筑前国」の良民の場合と同じであり、この様な些少の差は「削った」とか「少なかった」というような事情ではないことは明確であり、これが『大宝令』に拠っていないのは「北部九州地方」に特有の別の「規定」が(以前から)有り、それを根拠として設定されたとしか考えられないこととなります。
 それは「受田額」として示された数字に「端数」が出ており、「筑前」を除き「完数」となっていないことから推測できます。しかし、そのように「端数」が出るにもかかわらず、「受田額」の「男女」の比率は3:2であり、また良民と奴婢との比は男女共3:1というように整然としたものになっています。これはその「端数」が出る値が何らかの「規制」を受けた数量であることを示しており、『大宝令』以前に制定されたある「法律」様のもので設定されたものを「換算」ないし「変換」した際に現れたものと見るべきではないでしょうか。(この点については「虎尾氏」は「浄御原律令」と推理するわけですが)

 また、上の表を見ても判るように『大宝令』(田令)の基準(男女比および奴婢に対する割合など)は、実は「豊前」「豊後」とに共通しており、これらが深く関係しているのが判ります。
 (「豊後」における良民と奴婢の割合は不明ではあるものの、豊前と同様であったと推測するのは自然です。)
 それに対し「筑前国」はそれらの「比率」が「突出」して異なり、「豊後」「豊前」とは明らかに「別」の基準で設定されたことが判ります。
 しかし、「受田」の基準となっていると見られる「良民男子」の「受田額」は「筑紫」と『大宝令』は共に「完数」になっているところから考えて、明らかに同一のスケール(基準尺)で設定されていると思われ、逆に関係が深いと考えられます。かえって「豊前」と「豊後」の「受田額」は『大宝令』との関係はつかみにくいものです。
 これらのことから考えて、「豊前」と「豊後」という地域に使用された基準尺(測地尺)は『大宝令』や「筑紫」とは異なると考えられるものであり、このことから「豊後」「豊前」については『大宝令』以降も「古制」に拠っていたのではないかという推測ができそうです。つまり当初から『大宝令』の規定に則って「受田額」が決められたのではなく、別基準で決められたものを「換算」されたものと見られることとなります。
 つまり、ここに現れた「基準尺」(地割制)を「新旧」の時系列として並べると、古い方から「豊前」「豊後」続いて「筑紫」(筑前)そして『大宝令』という順であったと考えられる事となるでしょう。つまり「豊後」「豊前」は以前からのものを「換算」しただけで済ませたものであるのに対して、筑前は改めて受田額を再設定したと思われるわけです。
 
 一般には『大宝令』とその比率が同じであることから、「豊前」「豊後」については『大宝令』に基づいて受田額が作成されていると考えられていますが、実際にはその「逆」であり、『大宝令』の方が以前からあった「豊前」「豊後」の規定(男女間の配分割合や良民と奴婢の配分割合などの規定)を原型として作られたと想定されるのです。
 それでは「豊後」「豊前」に以前から適用されていた「地割制」とはどのようなものなのでしょうか。「数値」においては、本来「完数」であるはずのものが、計算結果は通常では理解しにくい「端数」となっており、何らかの「換算」が施された形跡であると考えられますが、可能性があるのは「短里系」から「長里系」への移行の際の「換算」ではなかったでしょうか。

 一般に「地割制」というものは「班田」と深く結びついた制度であると考えられます。「人民」に「班田」を給付するために「土地」を分割する必要が生じ、そのための基準として「地割制」があったものと思われるからです。
 ここで「班田制」を行う動機となったものは「遣隋使」以前に「百済」から導入された制度の中にあったとみるべきであり、その規格はやはり「百済」の制度に拠ったものではないかと見られることとなります。
 「倭国」では「遣隋使」以前から「周以前」の古制による「度量衡」を使用していたと考えられますが、それが「代制」ではなかったかと考えられるわけです。それは「貸稲制」が「百済」の制度の導入であったらしいことからも推察できます。
 すでに見たように少なくとも「六世紀終わり頃」には「貸稲制」が「百済」でも「倭国」でも行われていたらしいことが推察されることとなっていますが、当然それは「班田制」つまり割り当てられた「田」から租稲を徴集するシステムの存在を前提としたものと考えるべきでしょう。
 「租税」納入責務を全うできないために「稲」を借りるという行為が行われていたものであり、そのような制度が「公的」に行われていたことは、これが「国家」として「租税」納入促進のためのツールであったことを示していると思われます。つまり「班田制」は「租税」を人民に負担させる制度の一端であり、その「租」は「班田」から「屯倉」へ納付され、それが「王権」へ直送されることとなっていたと見られることとなります。
 このような制度が中国古来からの「頃畝制」として存在していたところに新しく「隋」から「新度量衡」が導入されたものであり、測地系の単位である「歩−里」の中身が変更となったとすると(「坊」の規格が変更になったように)新単位系の構築が必要となったであろうと思われ、それが「町段歩制」であったと思われるのです。

 「筑紫都城」の「一坊」の規格については既に述べたように「隋」の「大興城」の規格に一部則っていたものと思われ、『周礼考工記』の述べるとおり「一坊一里」であるとすると、発掘から計測された一坊約90メートルというものがこの時点で新しい一里として認識され、採用されていたことを意味すると考えられます。
 これに対し従来「短里」としては「周髀算経」などの計算から「一里」として「75メートル付近」であったこともまた明白です。(古田氏は「75-90メートルの間75メートルにより近い」とされていますし、正木氏によれば80メートルではなかったかとされる))
 この「一坊規格」の変更から考えて、「短里」の実長としては(正木氏が言うように)「80メートル付近」であることが推察されます。この値が「拡大」され「90メートル」程度となったとしてその「換算比」を推定し、それを地割に適用してみると、(縦横共に90/80倍されるとすれば面積は縦横の積ですから、1.2656倍程度となります。)そうすると元々の受田額を算出してみると「豊後」の場合は元々「四〇八歩」であったものと思われることとなり、また「豊前」の場合は本来は「五一〇歩」であったと推定できることとなります。(ただし、「長里」を「90メートル」とし、それ以前の「短里」を「80メートル」程とした場合)

 また「筑紫」の受田額は明らかに「後出的」であり、『大宝令』の規定にある意味直結する時代的位相を持っていると考えられます。
 そもそも、『大宝令』の規定というのは、その元となった「庚寅年」の改革で示された「制」(これを一般には「飛鳥浄御原律令」とされますが、ここではその呼称を用いません)に依拠していると考えられ、それを「京師」とそれを取り巻く「畿内」に設定したものと思われますが、「近畿」への「遷都」という事態以来元々の「首都」である「筑紫」周辺に適用されていた規定を新しい「京師」に敷衍したことを意味すると考えられますので、「西海道戸籍」に見る「筑紫」の「受田額」というのは、「(遷都)後に」変更されたものであるということとなります。
 つまり、『大宝令』に規定する値(基準値である「良民男子」の値)が元々の「筑紫」のものであって、その後「筑紫」では「豊前」並みに減額されるという事象があった事が推定されるということです。
 そしてこれは「長里」換算されたものと考えられる訳ですから、それ以前の「短里」段階においては「良民」に与えられた「受田額」は「六〇〇歩」とやはり完数となり、「豊後」−「豊前」−「筑紫」が各々「四〇八歩」−「五一〇歩」−「六〇〇歩」というように 「筑紫」周辺の地域には「京師」(筑紫)からの距離に応じて「受田額」が逓減するようなシステムがあったものと推定できることとなります。

 このようにこれら北部九州の地方では『大宝令』段階でも「頃畝制」が「遺存」していたと考えられますが、「京師」である「筑紫」ではそれ以前のある時点で「町段歩制」への移行が行われたと思われます。
 この「町段歩制」は「条里制」と深く関連しており、更にその「条里制」は「京師」における「条坊制」の存在が始まりという考え方もあります。つまり「京師」に作られた「条坊」をその周辺の地域(畿内)に敷衍したのがその始まりとされます。たとえば「難波京」には「条坊」が施行されていたらしいことが明らかになりつつあり、これが「町段歩制」の起源につながるという考えもできるでしょう。(孝徳朝に「町段歩制」施行記事が置かれている意味もそのあたりにあるのかも知れません)

 また、「筑紫」に見る「男女比率」「奴婢比率」の値は、他地域と全く異なるわけですが、それは「筑紫」(筑前)という地域の特殊性を反映したものと考えられます。
 「筑前」は両サイドに「山地」があり、前面は「海」ですから、そもそも「班田」に給する「面積」がかなり少なく、総班田面積には「上限」があり、そのため「総班田面積」を抑制することが求められたものと思われ、「弾力的運用」が必要となったものではないでしょうか。つまり「受田額」と「人数」の間には反比例的関係が発生したと見られます。
 ここでは「女子」の受田額が多いことから、女子人口としては少なかったと見られること、逆に「奴婢」は人口が多かったと見られることが考えられます。これらにより「微調整」が行なわれた結果、「豊前」「豊後」などとは違う独自の班給比率が形成されたと見られます。
 これらのことは「王都」であるために生ずる現象と考えられ、「王都」を警備する「首都防衛組織」の存在により不可避的に「男子」が多くなり、女子の比率が相対的に低下することとなると見られます。その場合「男子良民」の受田額の減額を行っていないのは、その「受田額」の量が多いことが「一種」の「特権」であったからではないでしょうか。
 また、「権力中枢」が存在するため、王権関係者とその親類縁者が多いことから、彼等により附庸される「奴婢」も数多くなるという事情があったと考えられ、それらが「班給比率」を調整する要因となっていたと思料されます。

 ただし、「町段歩制」の施行というものがいつの段階で行われたものか、という「時期」については明確であるとは言い難く、「直接的」な資料がない現在「推測」するしかないわけですが、「唐」では「隋」以降も継続して「頃畝制」が施行されていたものであり、この「町段歩制」が「唐」の制度を持ち帰ったものとは考えられないこととなります。つまり、「遣唐使」段階での導入は考えにくく、さらのその後「百済」をめぐり「唐・新羅」と戦いになった経緯を考えると、それ以降の導入であった可能性が高いものと思料します。少なくとも「薩夜麻」帰国後に制度改定などがあったと見るのが相当であり、その後の「壬申の乱」等により、国内情勢の不安定要因がある程度除去され、混乱が終結した時期に制度改正が行われたと考えるべきでしょう。それを考慮すると「藤原京段階」である「六八一年」という年次が有力であると考えられます。
 そう想定するのは「大宝二年戸籍」が示す「女子人口」のピークの一つが「二十二歳」にあり、これは逆算すると「六八一年」になるからです。つまり、この年次に「造籍」と「班田」が行われていると考えられるものですが、それに併せ「地割制」も変更したと考えるのはそれほど「無理」がありません。
 これに関しては『天武紀』には「造籍」記事も「地割制」変更記事も見えませんが、『孝徳紀』「白雉三年条」(六五二年)に「造戸籍」という記事があります。

「是月。造戸籍。凡五十戸爲里。毎里長一人。凡戸主皆以家長爲之。凡戸皆五家相保。一人爲長。以相検察。」

 ここには、それまで「五十戸」と言う制度であったものを、今後「里」という制度に変更する、という事が書かれていると考えられますが、この変更が実施に移されているのは、出土した「木簡」からの解析により「六八一年」以降であることが確実となっています。
 この「五十戸制」というのは「七世紀初め」の時期に「利歌彌多仏利」により、それまで「八十戸制」であったものを改定したものですが、その「表記」が切り替わっていく状況が「木簡」から確認されます。つまり、「六八〇年」以前の「木簡」からは「五十戸」という表記しか見られないのに対して「六八三年以降」は少しずつ「里」表記が確認できるようになり、「六八九年」以降は完全に「里」に代わるのです。このことから、「六八〇年」と「六八三年」の間に「画期」となる年次が存在することが想定され、この「木簡」からは上記「白雉三年」記事は、本来「六八一年」に出されたものではないかと推定されることを示しています。
 そのことは同時に書かれている「凡戸主皆以家長爲之。」というものが基本的に「造籍」の一環の作業であったと考えられるものですから、これについても同様に「六八一年」に行われたものという推測を可能にするものです。
 そして、これらに併せ「地割制」も変更したと考えると事実関係が良く整合するものと思われます。
 また、この年は「六七七年」と推定される「第一次藤原副都」遷都の直後であり、「諸王及び諸臣」の「封戸」を「東国」に変更するという「詔」が出された後というタイミングでもあります。
 この場合「西日本」は「封戸」ではなくなったものであり、この時点で「区画割り」が変えられたとすると、そのような切替えに要する準備と手間を考えると、生産に集中できない情勢であったと考えられ、そのため「東国」に「封戸」を切り替えると言うことが為されたのではないかと思料されます。このことからこの時点で「西日本」特に「京師」である「筑紫周辺」に優先的・集中的に「町段歩制」が導入されたということが考えられます。

 このように「町段歩制」と「畝頃制」はその区画割りが「全く」異なり、「評」から「郡」のように「瞬間的」に切り替えることはできなかったであろうと思われます。
 現実に耕している範囲が変更になるわけですから、他人の田との切り分けなどをどうするか決めなければなりません。このようなものが一朝一夕に進むとは思えず、かなりの軋轢と紆余曲折があった事が推定できるものです。
 この「改新の詔」で示された「町段歩制」の規格については「近畿」つまり「新しい畿内」の「令」前後の「変換」(代制から町段歩制へ)の容易さを優先したものと考えられ、「九州」(筑紫など)で行われていた制度については全く考慮されていないと考えられます。「庚寅」の改革では「町段歩」という単位名だけはそのまま使用するものの、実態としての長さや面積などは「近畿」の以前の「代制」との互換性の方を優先したものと考えられます。(五百代一町となりわかりやすいものとされたと見られます)

 また、この「庚寅年」の「地割制」の変更は「長さ」の単位である「尺」の改定につながっています。「旧制」の「一歩六尺」から「新制」である「一歩五尺」へ「変更」されたこととなるわけであり、それは即座に「尺」の「長さ」の変更を意味すると理解されたと思われます。
 「一歩」の長さ(広さ)に変化がなければ、従来のものより長い「尺」が発生したわけです。
 ここで、従来の「尺」に対して「大尺」を設定することとなり「一尺二寸」を以てこれを行うとされたものです。これは一般には「唐」の「度量衡」の受け入れであると考えられていますが、実際には「倭国」の「度量衡」、つまり「元の京師である「筑紫」で既に行なわれていたという可能性があると考えられるものです。


(※)虎尾俊哉「浄御原令の班田法と大寶二年戸籍」(『史学雑誌』第六十三編十号)


(この項の作成日 2011/05/21、最終更新 2017/01/01)