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「班田収受」の制度改定について


 「庚寅年」(これは六九〇年ではなく六三〇年と思われる)に多くの改革が行なわれたと思料されますが、その中に新しい「班田収受」の制度が始められたものと見られます。それを示すのが「正倉院文書」における「西海道戸籍」の中の「女性人口」の変動であったと思われますが、そこでは「十年一造」であったと思料され、それは即座に「班田」の支給年齢が「十歳」以上であったことを示しています。そしてこの「庚寅年」以降「六歳」以上について支給すると言うことに改定されたと見られますが、その支給の為の「土地区画割り」に関する制度についても同時に改定されたものと見られます。この時の事情から考えると、当然その時点以前よりも多くの土地が必要となることは間違いなく、土地はその分「小割り」にすることとなったと考えられます。

 「七世紀初め」に導入された「隋」の「均田法」を移入する以前から、「倭国」中央では「頃畝制」であったと思われます。この制度は秦・漢代の頃から用いられていたものであり、古代中国では一般的であったものです。このような制度が「倭国王権」のお膝元で施行されていなかったとは考えられません。そして、既に述べたように、少なくとも「天智朝付近」まではこの「畝頃制」が採用されていたと見られますが、「改新の詔」以前のどこかで「町段歩制」が導入されていたものと思われ、「改新の詔」で改めてその「畝頃制」を止めて「町段歩」制にするというように規定されているわけです。しかし、そこに書かれた内容は上にも見たように「畿内」に対してのものであり、「元」の「畿内」である「筑紫」管内で施行されていたものを新しい「畿内」においても適用するという意味であると思われます。
 「畿内」は「京師」がその中心地点であり、「畿内」を新たに制定したという事は、「京師」を遷した、つまり「遷都」した、という事となります。その時点で「畿内」に関わる「全て」を「旧畿内」から移行したものと考えられ、この「町段歩制」についても同様であったと考えられます。(つまり「庚寅年」以前から「町段歩制」は「畿内」(つまり「筑紫」)では施行されていたと見られます)
 「改新の詔」に書かれた内容というのは、「複数」の年次の詔が合体していますが、「庚寅年」の改革としては「近畿」に新しい「京師」を置き、そこを中心に「畿内」を設定するということ、そして、その新しく「畿内」となった地域である「近畿」に対してそれまで施行されていた「代制」を廃止し、「旧畿内」である「筑紫」の制度である「町段歩制」を導入し、移行するというものであったと考えられます。
 それに関連していると思われる記事が『二中歴』の「年代記」の「朱鳥」年号の部分の「細注」です。そこには以下のようなことが書かれています。

 「仟陌町収始又方始」

 この中の「仟陌」とは「畔道」を指し、「仟」が南北、「陌」が「東西」を示すものであり、また「方始」とは「田」の形を「方形」(正方形ないし長方形)にする事をここで始めた、という意味と考えられます。(「方格地割」を意味するものか)また「収」は「段」の誤記ではないかと考えられます。
 それまでは「多角形」もあれば「不定形」もあったものと考えられ、「面積計算」が煩雑であったことから、実際の「班田」の支給の際に業務の実行が円滑に進むよう「田」の形について「規制」を加えた、という事でないでしょうか。
 古代の中国においての「仟陌」制とは「田」の大きさと形及びその区切り方を示すものであり、八歩×三十歩で一畝としそこで「陌」を設け「東西」に区切るというものでした。この区切りが最低単位であり、以下これを縦につなげていって十畝となったところに「仟」を設け「南北」に区切るとされます。この「地割制」は「秦」の時代の商央の変法によって制度として決められて以来連綿と中国では続けられてきたものであり、「隋」「唐」に至っても当然のように使用されていました。
 この『二中歴』の記事は「朱鳥」年間のどこかで、このような制度が「倭国」にも導入されたことを示しており、当然それは「改新の詔」が出されたと考えられる「庚寅年」(六三〇年)のことであったと考えるべきと思われます。
 実際に「班田」制を実施するためには「戸籍」「暦」とともに「測量」が必須と考えられ、その進捗に支障が出ていたものと思われます。それは「田」の形で「不定形」や「縦横」にそれまでルールがなかったためであり、これを解決するために「田の形」を「方形」にし、直交する「畔道」で区切るよう「通達」を出したのではないでしょうか。

 また、これ以前から「方格地割」、つまり「方形」の田が作られていた、と言う主張もあります。それは「古代官道」と接する領域であり、「官道」が造る直線が基準線となってその周囲に「方形状」の田ができていたことが確認されています。これはその「官道」と共に「潅漑」など使用可能な「溝」が造られた場合などに顕著なようです。しかし、その「官道」から遠く離れた場所では種々雑多な形の田も存在していたものでしょう。日本列島には平野もあれば山間地もあり、平野であっても狭小な場所もあり、このような場所では「水田」が「方格地割」によって「自然に」全て作られていたとは思われません。
 しかし「岸俊男」氏によれば、「藤原宮」などから出土した木簡のうち「浄御原令施行期間」に属すると見られるものは、地積の表示に「代」を用いて「町段歩」ではないこと、特にその一つには「五百代」と記されていて「一町」とは記されていないことなどから、「町段歩制」が成立したのは『大宝令』においてである、と論証しています。(※)これについては、当初、つまり「改新の詔」時点から『大宝令』時点までという期間については、「改新の詔」で「畿内」として新しく設定されたに範囲にのみ「班田」支給が実施されたという考えを補強するものとなると考えられます。また、当然そのことは、その支給する「班田」の面積計算に使用される基準の単位である「町段歩」についても、その制定とその適用が当初「畿内」のみであった事を示していると考えられます。
 出土する木簡等を見ても「藤原宮」木簡のほとんど全てが「畿外」諸国からの「荷札木簡」か「過所木簡」ですから、ここで記されている面積単位としての「代」は「畿外諸国」に特有のもの、という考えが可能です。もしそうであるとすると「木簡」から確認される「畿外諸国」の「地積」の制度が、この期間「古制」のまま(「代」制)であることも理解できるものです。(『書紀』においてこの「代」という単位が「全く」現れないと言うことについては「評」と同じ扱いであることとなり、それは「評」が隠蔽されているのと同じ「政治的」意味があったものと思料されます。つまり、「代」という制度が「倭国九州王朝」が施行した制度であるという可能性を感じさせるものです)

 そして、「庚寅年」の改革により新しく「畿内」となった「近畿地域」で「評制」が変更され「郡制」として他の地域に先行して変更されたように、「段町歩制」についても新しい「畿内」で「限定」して施行されたと考えられ、それが一般化し、広く国内諸国で行なわれるようになるのが「八世紀」に入ってからのことと思料されます。それを示すのが「慶雲三年の格」と言われるものです。それに関する『続日本紀』の記事と『令集解』を示します。

『続日本紀』「慶雲三年(七〇六)九月丙辰。遣使七道。始定田租法。町十五束。及點役丁。」

「令集解」田令第一条集解。「古記云。慶雲三年九月十日格云、准令、田租、一段租稲二束二把。〈以方五尺為歩、歩之内得米一升〉。一町租稲廿二束。令前租法、熟田百代租稲三束。〈以方六尺為歩、歩之内得米一升〉一町租稲一十五束。右件二種租法、束数雖多少、輸実不異。(以下省略)」

 ここで見られる『続日本紀』の文章には「始定」とあり、またそれは「七道」という表現でも分かるように「畿外諸国」に向けたものであったわけで、それまで「畿内」だけに向けたルールであったものを、全国に「敷衍」するという宣言であると考えられます。
 『書紀』『続日本紀』記事中の「始めて」は常識的な解釈と何も変わらず、「それまではなかった」という意味しかありません。つまり「畿外諸国」には「田租法」というものは「それまでなかった」事を示しているのです。(ただし地割制が決まっていなかったわけではない)
 このことは上に見る『続日本紀』の記事と『令集解』の記事は、同一日時同内容でありながら、一方は「租法」が始めて定められたものであり、もう一方は既にあった令を修正したものという、全く異なる記事であったことを示すものです。
 「畿内」には「庚寅年」の時点で決められた「制」により定められたことが「その時点」で「日を措かず」適用されたものと考えられます。その「庚寅年の制」というものが「令前租法」とされているものであり、そこに示されているように「畿外諸国」には「代制」が施行されていたと思われます。そして「令」(これは「大宝令」を指す)では「租稲」としてそこで規定した通り「一町二十二束」が示されたと考えられますが、推定によれば施行後「トラブル」が多発したものでしょう。それは「五尺一歩制」への変更と同時に行なってしまったためであり、そのため混乱が起きたものと思料します。
 「慶雲三年格」に引用された「古記」の解釈からは、「一歩」から得られる「米」の量の違いが問題になったものと考えられ、その結果「倭国王権」は「令」の規定を部分的に変更する「格」を作ったと思われ、それにより「一町十五束」に「戻された」形となり、「令前」に復帰したことが知られます。
 つまり、「畿外諸国」には「始定」とされているものの、「畿内」に向けたものとしては「格」であり、これは「令」の修正を個別に行なう際の方法ですから、既に適用されていた「令」をこの「慶雲三年格」により「変更」したというものであり、それまでと取り扱いを変えるというものであったと考えられます。

 ところで、上に見るように一畝が二百四十歩であるのに対して一段は三百六十歩となるわけですから、当然1.5倍の広さとなりますが(同じ「歩」という単位系において)、その一段からの租稲が二束二把とされているのですから、一畝からはその2/3の一束五把の租稲が決められていたとすると「令前租法」の一段からの租稲とされる数字とぴったり合致します。
 つまり「庚寅年」の「制」(つまり「令前租法」)の中身としての用語として「歩−段−町」が採用されたものの、「実収量」は「歩−畝−頃」制による単位収量がそのまま公定されたこととなります。(「代制」で書かれているのはそれが「諸国」における制度であったからです。)
 このことは「実長」はともかくとして「歩」という言葉を使用する範囲では「畝」と「段」は同じ意義で使用されていたことを示す事となります。というより「歩−畝−頃」という従来からの地割制が「歩−段−町」という新しい地割制に「同意義」として変換されたということではないでしょうか。この点で「大宝令」は確かに「庚寅年の制」つまり「浄御原令」を引き継いでいることが確認できるわけです。


(この項の作成日 2011/05/21、最終更新 2020/06/20)