「岸俊男氏」の研究によれば、「大宝二年戸籍」による「女子」年齢別人口について調べてみると「十歳」ごとに人口が増加しているように見え、これは「十年ごと」の改籍の際に一括して追記された可能性があるとされています。(※1)
「大宝二年戸籍」で女子の人口が多いとされる「二十二歳」「三十二歳」「三十三歳」と「四十二歳」「五十二歳」「六十二歳」「七十三歳」であり、それは生年が各々「六八一年」「六七一年」「六七〇年」「六六一年」「六五一年」「六四一年」「六三〇年」と推定されています。しかし、これについては「干支一巡」の遡上が考えられ、実際には「六二一年」「六一一年」「六一〇年」「六〇一年」「五九一年」「五八一年」「五七〇年」と改めて推定されます。
つまり「大宝二年」とは「六四二年」ではないかと考えられるわけです。これらについて各々の年の状況を確認してみます。
最初の「五七〇年」はその前年である「五六九年」に『書紀』に「戸籍」関係の記事が見えます。
「(欽明)卅年(五六九年)春正月辛卯朔条」「詔曰。量置田部其來尚矣。年甫十餘脱籍兔課者衆。宜遣膽津膽津者。王辰爾之甥也。『檢定白猪田部丁籍』。」
「同年夏四月条」「膽津檢閲白猪田部丁者。『依詔定籍』。果成田戸。天皇嘉膽津定籍之功。賜姓爲白猪史。尋拜田令。爲瑞子之副。瑞子見上。」
これには「年甫十餘」とあり、当初は「十二年一造」の戸籍であったことが示唆されています。この記事では「吉備」だけに造籍されたように受け取られますが、実際にはもっと広い範囲で造籍が行われたものと思われ、上の『書紀』の記事では「十数年経過」して「籍」から漏れた人が「課役」を免れている実態があったとされており、これを是正する意味もあったものと考えられます。
この「五六九年」の「造籍」の際に「戸籍」に「一括追加」されたのが当初の造籍からの「十二年間」に産まれた女子であり、(全てではないと考えられますが)彼女たちをこの「改籍」の際に「追加」したために「七十三歳」の女子人口が多いのではないかと考えられます。
その後「五八一年」になって「隋」が成立して以降「十年一造」となったものであり、この時以来本格的な「隋制」の導入が始まったものと思料されます。
『隋書』の新たな解析により「遣隋使」を派遣したのは「隋の大業三年」と「開皇二十年」ではなく、いずれも「開皇中」のことと考えられることとなっています。それは「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」の事業であり、「隋」と国交を開始し、多くの「僧(学生)」などを送り込み、「隋」の制度、技術など広範囲にわたって吸収しようとしたものと考えられます。
「大宝二年戸籍」の「筑前」「豊前」「豊後」「下総」などの「戸籍」についてはその「様式」が中国「北朝」の様式に酷似しているという指摘がありますが(「北魏型両魏式」と称する)、これは「隋」でも採用されていたものと見られます。(但し「隋」の制度は現存していないため推測となりますが、「唐」の戸籍の様式が「両魏式」に良く似ていることから、その前代の「隋」の様式も同様であったものと見て間違いないであろうと思われています。)
ただし細かいところで「隋・唐」の様式はこれと異なるという指摘もあり、それ以前の「北朝」の形式が流入したものという指摘もありますが(※)、上に指摘したように「隋」の戸籍はまだ発見されておらずその意味では「唐」と全く同じであったか、言い換えると「唐」は「隋」の戸籍制度をそのまま継受したのか、さらには「隋」がそれ以前の北朝の形式をそのまま継受していたかそうでないかは不確定といえますが、当時の倭国が「隋」以前の「北朝」との直接交渉が全くなかったらしいことを考えると、「両魏式戸籍」の流入はやはり「隋代」以前とは思われず(「戸籍」という制度の流入が正式な国交の元で行われたと見るのが相当ですから)、「隋」の時代の戸籍が導入されたものであり、その戸籍は前代の「北周」ではなくそれ以前の「北斉」の制度を継承したものであったと見るべきこととなるでしょう。
ただし、この「戸籍制度」改制は「列島内」全体には行き渡らなかったと考えられ、「美濃」などについては「西晋型西涼式」という古い様式と考えられるものがそのまま使用されていたということが確認されています。この「戸籍」の様式は「西晋」に始まり「未確認」ではあるものの「南朝」でも使用されたものと考えられ、「阿毎多利思北孤」以前から「倭国内」で使用されていたものと考えられます。この「戸籍」は「倭の五王」の頃の導入ではないかと推察され、「暦」と「文字」の日本語化が行われた倭王「武」のころである「五世紀後半」が想定されます。
たとえば「三野(美濃)国」には「小丁兵士」が存在していた事が判明しています。本来「軍防令」では「兵士」になることができるのは「正丁」に限られており、「二十歳以下十六歳以上」の「中男」にはその義務はありませんでした。しかし「三野国」の「戸籍」(古制による戸籍)ではその年齢は「小丁」という区分けとなっており、それに基づいて「軍制」が施行され、彼等「小丁」には「兵士」になる義務が課せられていたのです。
このように地域によっては従前の戸籍制度をそのまま継続使用したところもあったようです。これが何を意味するかはやや不明ですが、美濃方面への官道整備が遅れ中央からの軍事力展開に支障があった結果、統治が不十分となり、そのため他地域と同じタイミングでの制度改定が行われない原因となったという可能性もありそうです。
この「戸籍」整備が始められた「五六九年」以降「十二歳」以上の男女に「班田」を支給していたものでしょう。このように「女子」に関してかなり「ラフな」戸籍の補足の仕方であるのは、後の『大宝令』などからの類推によれば「課役」に関しては「正丁男子」だけが対象であったと推定され、女子は「班田支給」の対象ではあったものの「課役」の対象ではなかったため、その「把握」も「造籍」のたびごとに一括で書くという「雑駁」な戸籍の書き方でも構わなかったものと思われるわけです。
その後「五八一年」になって「隋」が成立し、改めて「隋」との国交を開始したことにより「隋制」の導入が進み、「改籍」が行われそれにより今後は「十二年一造」から「十年一造」に変更されたものと見られます。これは「兵力」と「課税」対象者をより正確に把握するためのものであったと考えられます。(口分田の支給対象も十歳以上に下げられたものと推定されます)
また、土地開墾が進み(国家によるものも「私的」なものもあったと思われます)支給可能な土地が増加したことなどもあったものとも考えられ、それは新たに倭国の「本国」(直轄領域)が増加した(組み込まれた)ことなどもあったかと推察されます。
『隋書俀国伝』の行路記事でもわかるように、「倭京」遷都までは「肥の国」に倭国の「本国」が押し込められていましたが、「筑紫遷都」と「九州」制の施行などは、明らかに「直轄領域」の拡大を示しており、「附傭国」である「諸国」も含め「阿毎多利思北孤」の時代に一種の拡大政策があったのではないかと考えられます。「十年一造」の改籍と、口分田配布年齢の低下とはそのような事情を背景にしていると思われます。
次の女子人口ピークである「五九一年」更に「六〇一年」と造籍されたと見られますが、これらは通常の十年一造のタイミングであったと見られます。
そして次の「六一一年」の直前である「六一〇年」が「庚午年籍」の行われたとされる年なのです。
この造籍事業は「天智」の行ったこととされていますが、「六一一年造籍」もまた別に行われたのではないかと考えられます。それは「庚午」に造籍が行われたのが(今度は逆に)「美濃」だけではないかと考えられ、他の地域は「辛未」つまり「六一一年」に「戸籍」が造られていることから判断できます。
「大宝二年戸籍」でも「筑前」「豊前」「豊後」は「辛未」生まれである「三十二歳」人口が多く、「美濃」の「三十三歳人口」が多いことと食い違っています。
このピークが「美濃」と「筑前」「豊前」で一年ずれているのは、「戸籍」を作るべき根拠法令が「西海道」と「美濃」では異なっていたからではないかと考えられ、「庚午年籍」を造る、と言う「指示」を出した主体と「辛未戸籍」を造るという主体が「別」であったと言うことを強く示唆しています。(前述したように「様式」も異なるわけです)「一つの国」で「暦」や「戸籍」が違うことはあり得ず、行政の主体が異なっていたことを想定させます。
それを示すものとして「弘仁」年間に出された「太政官符」があります。
(「類聚三代格」国史大系本)
「太政官符
応以辛未年籍爲甲午年籍事
右得常陸國解稱。依令。近江大津宮庚午年籍不除。而今無有其籍。仍去弘仁二年具状言上。即依太政官同年七月四日符。就民部省令寫之。而依無庚午籍。僅寫辛未籍。午未両年。歳次相比。定知庚午始作。辛未終成。名実之違。識此之由也。望請。依件爲定者。大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣宣。依請。
弘仁十一年五月四日」
つまり、「常陸」の国の役人が「庚午年籍」の提出を命じられ、「庚午」ではなく、「翌年」の「辛未」の戸籍なら有る、という説明をしているわけです。「太政官符」の中ではその理由について作り始めてから作り終えるまでに年をまたいでしまったからとしていますが、不審です。なぜならそもそも「戸籍」は二年にまたがるのが通例だからです。作成開始は十一月であり、翌年の五月に作成終えるものとされていますから、半年は期間として必要と考えられていたものであり、その意味ではどの戸籍も「両年」にまたがっていると言えます。
「庚午年籍」は周知の通り「天智天皇」が「近江朝廷」で造らせたとされるものですが、事実として「西海道」や「常陸」では造られていなかったわけであり、「倭国」の中心地域には「近江朝廷」の権威が届いていなかったものと考えられます。(それはその後「壬申の乱」で近江朝廷が西日本連合に破れるという事実から考えても理解できます)
このように「庚午年籍」が「常陸」の国には存在していなかったわけですが、「常陸」の国と「筑紫諸国」の近似性は『風土記』の記載様式などにも現れており、また「装飾古墳」などの存在や「同一地名」の存在などにも見られるもので、「戸籍」についても「庚午年籍」に対して「筑紫諸国」と同じズレ方をしていることもそれほど不思議ではありません。
「二十二歳」のピークは「六二一年」ですが、『天武紀』には「造籍」記事はありません。しかし、『孝徳紀』「白雉三年条」(六五二年)に「造戸籍」という記事があります。
「是月。造戸籍。凡五十戸爲里。毎里長一人。凡戸主皆以家長爲之。凡戸皆五家相保。一人爲長。以相検察。」
ここに書かれている「五十戸」と言う制度を「里」という制度に変更する、という事が実施に移されているのは、出土した「木簡」からの解析により「六八一年」以降であることが確実となっていますが、これは実際には干支一巡遡上した「六二一年」のことと思われ、「六二一年」以前には「五十戸」表記しか見られないのに対して「これ以降」少しずつ「里」表記が確認できるようになり、「六八九年」(六二九年)以降は完全に「里」に代わるのです。このことから「白雉三年記事」は本来「六二一年」に出されたものではないかと思料されることとなるでしょう。また、そのことはこの「改定」が「造籍」の一環であったとされていることから、「造籍」も「六二一年」に行われたという推測が可能です。
そして「六三〇年」の「庚寅年籍」以降「六年一造」の戸籍制度ができたのは確実と考えられ、これは「持統朝廷」での事績であり、「浄御原律令」の存在に深く関係していると考えられます。(この時点で「造暦」し「戸籍改定」しているのは「大地震」による「浮浪者」等が多量に発生したため、改めて人民の所属を確定させる必要が出たためとも考えられます)
「岸俊男氏」による「大宝二年戸籍」の研究から、「干支」にちなんだ命名法が一般化したのが「庚寅年」(実際には六三〇年と思われる)からと考えられること。そしてその際何らかの理由により「一年ズレ」現象(生年の翌年の干支を名前に使用する)が起きたこと。そして、この「ズレ」が「大宝二年」以降解消していることが判明しています。このことから「丙申」にも造籍が行われたことと推察され、「持統王権」の治世下で「六年に一度」の造籍が定められていたこと、そしてそれが『大宝令』に引き継がれたことなどがわかります。
(※1)岸俊雄「戸籍記載の女子年齢に関する疑問」(『古代籍帳の研究』塙書房一九七九年所収)
(※2)久武綾子「古代の戸籍 -日本古代戸籍の源流-」(『愛知教育大学研究報告』40 一九九一年二月)
(この項の作成日 2011/06/11、最終更新 2017/02/12)