『持統紀』に「続守言」と「薩弘格」への「褒賞」記事があります。これは「六九二年」という年次に書かれているもので、「続守言」と「薩弘格」という「唐人」に対して「褒賞」として「水田」を下賜した記事です。
「(持統)六年(六九二年)十二月辛酉朔甲戌。賜音博士續守言。薩弘恪水田人四町。」
ところで、この記事の直前記事は
「(持統)六年(六九二年)冬十月壬戌朔壬申。授山田史御形務廣肆。前爲沙門學問新羅。」
というものであり、「山田史御形」という人物を「還俗」させ冠位を与えたことが書かれています。
「国家」の命によりその知識と経験を生かすという意味で、「還俗」させているわけですが、彼は「八世紀」に入って「文章博士」なども歴任することとなっており、おそらく「続守言」「薩弘格」などについて「漢文」の勉強をしたものと考えられ、ここでなされた「褒賞」はそのことに対するものと推測され、それは『日本紀』の執筆・編纂を行うための準備作業であったと考えられます。つまりこれ以降この三人で(「山田史御形」は助手か)「原・日本紀」を編纂(執筆)し始めたというわけです。
しかし『書紀』本文中に挿入されている「割注」は「八世紀」段階のものと推定されます。つまり「八世紀」に入ってからの「潤色」「変改」の一端として「割注」が書かれているわけです。「伊吉博徳」の「書」や「言」が書かれたのも「八世紀」に入ってからと考えられますが、そのことから『持統紀』部分の追加、という作業はそれ以降と考えられると推定されます。理由は、『持統紀』には「伊吉博徳」の「大津の皇子謀反事件連座」と云うことが書かれているからです。
「謀反」に「連座」したという、いわば非常に不名誉な記事であるわけですが、そのような記事が、当の本人である「伊吉博徳」の在任中に書けただろうかと云うと、はなはだ疑問であると考えるものです。
「伊吉博徳」という人物は最終官位が「正五位上」という「中級官人」であり、また「倭国外交」の第一線に長くいたことや、『大宝令』撰定など重要な職務をこなしてきていた経緯もあり、彼については当時の「新日本王朝」の中枢からの覚えもめでたいと存在であったと考えられ、その彼にとって「不名誉」とも言える記述を含んだ『持統紀』追加という作業が、彼の在任中に行いうることであったかについては否定的にならざるを得ないと思われ、そのことは『持統紀』の編纂時期の判断にも影響してくると考えられます。
これに関しては「白雉年間」の遣唐使に関することとして「伊吉博徳言」というものが書かれていて、その中の「今年」が「七〇四年」と推定されること、「伊吉博徳」が『続日本紀』に最後に登場するのが「七〇三年」であること(大宝令編纂に対する褒賞記事)、「後継者」と考えられる「伊吉連子麻呂」という人物が最初に登場するのが「七〇七年」であることなどから考えて、彼が「引退」したと考えられる「七〇四年」以降に「持統紀の」追加と変改が行われたものと考えられます。
また『書紀』の「国譲り神話」では「大国主」の子供である「武御名方神」は国譲りに反対し、武力で抵抗しますが、打ち負かされ、「諏訪」まで逃げ延びて降伏したとされています。この「建御名方神」が「宗像氏」を意味するというのは定説ですが、その「宗像氏」である「宗像徳善」は『書紀』編纂時に有力者であった「長屋王」(長屋親王)とその父「高市皇子」に非常に近い存在です。(曾祖父であり祖父でもあります)
彼等の「目の黒いうちに」このような神話が書けるものでしょうか。とてもそうは思えません。この「国譲り神話」は明らかに「長屋王失脚」以降に付加された部分と考えるべきでしょう。
そう考えた場合、この「国譲り」という行為そのものが「遠い過去」の出来事を記したものと言うより「長屋王失脚」という事件に直接関係する事象をあたかも「遠い過去」に投影して書いたものではないかという疑いが生じます。
既に述べ来たったようにこの時の「潤色」と「変改」はまず、「改新の詔」について行なわれ、その最初のものは「七世紀初め」の「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の時代のことであったと思われ、中央集権的権力の宣言として書かれたと思われます。
さらに、「庚寅年」に再び「権力」の移行が起こり、それに伴って第二次の「改新の詔」が出されたものと推量します。最後に「七世紀末」という時点で大きな権力移動が発生したものであり、この時点で第三回目の「改新の詔」が出されたと見られるわけです。
『書紀』ではこれらを一箇所にまとめて記事を構成していると考えられ、「七世紀末」の事業と「七世紀初め」の事業がいずれも「七世紀半ば」の孝徳朝のこととして書かれることとなったものです。こうすることで「七世紀全体」に亘る「倭国王」の支配の実情が完全に「隠蔽」することができるようになったものです。
「八世紀」に入って初めて「列島」の覇者となった「近畿王権」を主力とする「新日本王権」は、それ以前に存在した「統一王者」の存在が「邪魔」であったものと思われ、そのため「七世紀」を通じて日本列島に存在した「統一権力者」を隠蔽することとなったというストーリーが考えられます。
その後「伊吉博徳」から提供された資料を追加するような「編集」作業が続き、さらに本来の『天武紀』を削除して(これは「薩夜麻」の削除です)「三十五年前の」『孝徳紀』から移動させ、その後同様に『持統紀』を「三十五年前」の「斉明紀」から移動させて完成させているようです。
このような隠蔽を行ったと見られるわけですが、「薩夜麻」の治世を隠蔽した際には、「薩夜麻」の「捕囚」を隠したかった「倭国王権」の「意図」と「方法」を利用しているとも考えられます。つまり、「倭国王権」が作り上げた「原・日本紀」にもそもそも「粉飾」があったと考えられるわけです。それは「薩夜麻」についてのものであり、「薩夜麻」の「捕囚」事件についての部分です。「倭国王」が敵の捕虜になったというようなことを正確に書くわけにはいかなかったものと推量されます。
また、「捕囚」によって「倭国王」が不在となった時期の「帝紀」と「起居注」は存在していないわけですから、正確には書ける道理がないともいえます。これを隠蔽するために「当初」の「原・日本紀」でも何らかの「潤色」「変改」があったと考えられるものです。
「薩夜麻紀」の「空白」となるべき部分の「捕囚期間」を埋めるためとして、それ以前の記事から「移動」して「薩夜麻紀」を構成していたものでしょう。(このあたりは『隋書』の成立事情によく似ています)この記事移動部分はその後の「変改」実施の際にも残されたものと推察されます。
「八世紀」の「新日本国王朝」は「前王朝」である「持統朝廷」に至る「史書」を書くこととなり、(それは自らの大義名分を示す意味でも必要であったもの)それまでにすでにある程度完成していた「九州倭国王朝」の側から見た「当初」の「原・日本紀」に、『持統紀』と『天武紀』を書き加えたのです。そして『持統紀』は「三十五年遡上」して「斉明紀」付近から持ってきているため、「森博達氏」によれば「特殊」であり、「β群」でありながら、字句構成は「α群」によく似ているとされています。「α群」から記事を切り取ってきて主要な部分を構成しているわけですから、似ているのは当然でもあるわけです。(天武紀も一部記事移動がありますが全体に亘るものではなく、後半部分のみのようです)
この『持統紀』がそのような記事移動などを経たものであるのはそこに「天皇」の行動について書かれる際に「主語」つまり「天皇」あるいは「帝」「上」などが省かれている事でもわかります。同様に「主語」を省く傾向が強いのは「孝徳紀」以前の部分であり、そこと本来接続されることが推定されるからです。
「新日本国」を創始した人達は、このようにして、「新」『日本紀』を造ったわけですが、しかし、その付加部分の内容は「空疎」なものであり、この時代に実際に起きた出来事は(特に重要な記事は特に)ほぼ何も書かれていないこととなります。なぜそのようにしたか、というとそこには「重要」な事項がそこにあったが故に書かれなかったと考えられます。正確に書くと現在の自分たちの政権の「正統性」に支障となる可能性がある「事績」があったため、それを「なかったことにする」ためにそれらの事績を正確に記さず、「移動」あるいは「削除」されたと考えられるわけです。
推測すると、この時最初に書かれた(その後捨てられた)『原・日本紀』には「倭国」の「正確な」歴史が書かれていたと考えられます。
「新日本国王権」の「史書」作成動機は、新王朝の「正統性」の主張に利用するものであり、「現在」の「王権」の権威が「弥生以来『連綿』と続く」倭国王家の正当な「権威」と「伝統」に立脚したものである、ということを強調し表現するためのものであったことは疑いないところです。このようなものが「持統朝廷」において造られたのは、その権力の内実がそれまでとは全く異なるものであり、まさに「新日本国」の名に恥じない性質を持っていたことを示すものですが、特に「倭国王権」の統治体制の「大義名分」を明確にするために必要であったと考えられ、「倭国王権」の及ぶ範囲が「元々」この日本列島の全てを覆っているのだ、という主張であったと思われます。
それまで「諸国」内は、「阿毎多利思北孤」と「伊勢王」の時代に同様な趣旨の「全国再統一」事業が行われたものですが、「首都」が「筑紫」という時代に行なわれたものであり、「近畿」以東の統治は「難波」ないしは「飛鳥」という「副都」からの「統治」でした。このため、「権威」の及ぶ「範囲」と「強度」に違いがあり、もっとも強力な「統一国家」を作ろうとしたのがこの時の「持統朝」であったと考えられます。
近畿周辺各国にしてみれば「大地震」の傷跡も癒えぬ間に劇的な政治体制の変化があったわけであり、それにより「九州倭国王」とその周辺の一握りの高貴な人たちだけが潤うと言うこととなったことに対し、反発と抵抗があったものと見られます。
(※)森博達氏『日本書紀の謎を解く-述作者は誰か』中公新書
(この項の作成日 2011/06/16、最終更新 2017/08/18)