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「第三次藤原宮」について


 既に見たように「第二次藤原京」(下層条坊後期)は「六八七年」付近で整備が完了したものと見られます。そして、この「宮殿」はその後「礎石建物瓦葺き」へと建て替えられる事となったと思われます。
 「掘っ立て柱」に「板葺き」という宮殿形式はすでに旧式であったと思われ、「筑紫宮殿」が「礎石建物」に整備が終了した後「藤原宮」においても同様に整備が行われることとなったものと推量します。
 この段階で「持統」から「次代」の」倭国王」への継承が行われたものと見られ、本格的な「首都」として整備が「藤原京」において行われることとなったものと思われます。それに併せ「京師」と「畿内」を新たに設定されることとなったと思われます。
 「第二次藤原宮」が「首都」(京師)へと格上げされることに対応する整備により、「内裏」など周辺施設も同様に解体再整備されることとなったものではないでしょうか。

 「難波宮殿」は「六八六年」に火災に遭い、その後使用できる状態ではなかった、という指摘もあります。確かに『書紀』にも書かれているとおり、「火災」はあった模様であり、その後発掘された「壁土」の中には、「強い熱」を浴びたと思われるものが含まれていたり、建物の「柱穴」の底から同じように「強い熱」を浴び「焼土」となったものも発見されているなど、「火災」で「焼亡」した、というのは考古学的に証明されているようです。
 元々正都「筑紫」と副都「難波」にはそれぞれ別々の人員が確保されていたと考えるべきです。「仮宮」や「行宮」などでは「官人」などもその「天子」(皇帝)の移動に伴って一緒に移動するわけですが、「副都」の場合は主要な人員(体制)は「副都」側にも別に用意されているのが通常です。つまり、多くの場合、複数の要員を確保して「首都」と「副都」に分けて配置する策が取られていたと考えられるわけですが、後に八世紀に入って『大宝令』で規定された「筑紫太宰府」の組織を見ると、たいていの上級官人が「正副二名」体制になっていて、このような体制になっているのは「副都」のための人員の確保のためではないか、と考えられるものです。
 ところで、「第二次藤原京」ができた際にも同様に専用の人員が確保されたと見られますが、「白鳳地震」により被害を受けた後、一部については復旧要員として残ったものの、多くは「難波京」と「筑紫宮」にそれぞれ帰還、収容されたと見られます。このような状況の中で「難波宮」が焼亡し、これを放置(放棄)してしまったとすると、この「難波宮」に配置されていた人員の処遇にも困ることでしょう。
 つまり、「難波宮」は「部分的」にでも復旧されていたのではないかと考えられますが、それを示すように『続日本紀』に(『文武紀』)「難波宮」への行幸記事があります。

『続日本紀』
「文武三年(六九九)正月癸未廿七。(中略)是日幸難波宮。」
「文武三年(六九九)二月丁未丙戌朔廿二。車駕至自難波宮。」

 この時の行幸の目的ははっきりしませんが、「釈迦」の命日である「二月十五日」を挟んでいますから、「涅槃会」を行ったのではないかとも考えられ、「難波宮殿」でそれら「儀典」の類を行なったものと考えられます。また三週間ほどの長きに亘り滞在していることから、この時点の「難波宮」にそれなりの設備があったと考えざるを得ません。「温泉」に湯治に行っていたわけではありませんから、側近だけではなく、ある程度高官の官人たちも同行していたと考えられ、その間の「執務」や行幸の本来の目的に関する「儀典」などが行われたものと考えると、「難波宮」がある程度「機能」していたと考えざるを得ないものです。
 「難波宮殿火災」の記事にも「唯兵庫職不焚焉。」とあり、「兵庫」とは「武器」の他「儀典」に必要な物品などを収容する倉庫とそれを管理する職掌を指しますから、それらがここにあり、且つそれは無事であったとされているわけであり、「仮復旧」さえできれば、「儀礼」「式典」の類を行うための最低条件は整っていたものと考えられます。
 それに関して「難波宮殿」の東方に所在していた、いわゆる「東方官衙」の中に「大規模建物」の遺構があり、それが「威儀、格式」の高い建物の遺構である可能性が指摘されているところからもここは何らかの「宮殿」建物と考えられ、また火災の形跡が確認されていないことからも「難波宮殿」の火災後も「使用可能」であったとみられ、「儀典」などをここで行うことは十分可能であったと思料されます。
 またここでは「涅槃会」を行ったと見られるわけですが、「広瀬・龍田」への祭祀の際に検討したように、この時期「阿毎多利思北孤」は「釈迦」に擬されていたと見られますから、「涅槃会」も「釈迦」と言うより「阿毎多利思北孤」に対する遺徳顕彰が目的であった可能性もあります。(「阿毎多利思北孤」の命日は「法隆寺釈迦三尊像の光背が言うように「二月二十二日」であったとは思われますが、「釈迦」に対する「涅槃会」の日にそれも併せて祭祀することと変化したものと思われます。)
 さらに「後期難波宮」は「前期難波宮」の「回廊」で囲まれた内部(朝庭)に収まるように建てられたと考えられており、このことから焼け残った「前期難波宮」は解体されずそのまま「聖武天皇」の時代まで「保存」されていたとみられます。誰も解体せず、跡地を別用途に利用しようとともしていなかったわけであり、それも「阿毎多利思北孤」に対する畏敬の念からであったかもしれません。ただしその場合「難波宮」と「阿毎多利思北孤」が関係があったということにつながるとも思えますが、彼が「難波天皇」と呼称されたとするならそれも同意できるものです。 
 この「六九九年」という時点では「第二次藤原宮」は解体されており、また「第三次藤原宮」はまだ完成していないと言う状況と推察されますから、「儀典」を行えるような規模と格式を両方備えたものは「難波宮」しかなかったと言えるでしょう。
 このように「難波宮」がこの時点(六九九年)で使用可能状態になっていたということは、それまでのどこかで「修復作業」が行われたことを意味していると考えられ、「火災」発生直後から余り「日」をおかず、復旧作業に取りかかったのではないかと推量されます。こうして、「倭国」としては「難波宮殿」の最小限度の統治機能回復を急いだものと考えられ、それと平行して「第三次藤原宮」建設計画に着手したのではないでしょうか。
 (その後も「聖武天皇」は幾度か「難波宮」へ行幸していますが、明らかに「後期難波宮」の着工前や着工途中の行幸記事があり、さらにこの時点で「難波宮」に詰めていた官僚がいたことを示唆する記事もあるなど、「聖武」の治世期間においても依然「難波宮」が使用可能であり、また「平城京」とならび必要な官人が配置されるなど「陪都」としての機能があったこととなります。)

(神龜)三年(七二六年)…冬十月…癸亥。行還至難波宮。
庚午。以式部卿從三位藤原朝臣宇合。爲知造難波宮事。陪從无位諸王。六位已上才藝長上并雜色人。難波宮官人。郡司已上賜祿各有差。
癸酉。車駕至自難波宮。

(神龜)四年(七二七年)…二月壬子。造難波宮雇民免課役并房雜徭。

(天平)四年(七三二年)…己巳。知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上。賜物各有差。

(天平)四年(七三二年)…三月…己巳。知造難波宮事從三位藤原朝臣宇合等已下仕丁已上。賜物各有差。
…九月辛丑朔。…乙巳。以正五位上中朝臣廣見爲神祇伯。正五位下高橋朝臣安麻呂爲右中弁。從五位上縣犬養宿祢石次爲少弁。外從五位下箭集宿祢虫麻呂爲大判事。正五位上佐伯宿祢豊人爲左京亮。正五位下石川朝臣枚夫爲造難波宮長官。從四位上榎井朝臣廣國爲大倭守。外從五位下佐伯宿祢伊益爲三河守。外從五位下田口朝臣年足爲越中守。從五位上石上朝臣乙麻呂爲丹波守。外從五位下土師宿祢千村爲備前守。從五位上石川朝臣夫子爲備後守。兼知安藝守事。

(天平)六年(七三四年)…三月辛未。行幸難波宮。
…丁丑。陪從百官衛士已上。并造難波宮司。國郡司。樂人等。賜祿有差。免供奉難波宮東西二郡今年田租調。自餘十郡調。
戊寅。車駕發自難波。宿竹原井頓宮。

 以上の記事では「後期難波宮」の造営に関わると思われる官司配置記事以前あるいはそれと並行して「難波宮」に行幸しており、この「難波宮」が「前期難波宮」を指すことは明白です。)

 そして、「第三次藤原宮」は「六九五年」段階で「掘立て柱」の建物として「仮」の「大極殿」が造られたと見られ、この時を期して「大化」と改元し、本格的統治の開始となったと思われます。(このように「掘立て柱」で「仮」の「大極殿」を造るのは後の「平城京」でも行なわれていたものであり、それは「藤原京」の方式を踏襲したとも言えるでしょう。)

 「木簡」の解析によれば、この時点以降「各諸国」からの「租」や「調」などが「藤原宮」に送られてくるようになったものと見られます。しかし、まだこの段階で「宮域」が未完成です。これ以降「七〇四年」付近まで「回廊」と「大極殿」などの主要建物が順次造られていったものと見られます。


(この項の作成日 2013/01/13、最終更新 2015/05/05)