「大嘗祭」や「新嘗祭」については、「冬至の日」に行なわれていたというような記事等を良く目にします。しかし、『書紀』を見るとそうとはいえないことが分かります。
少なくとも『書紀』で「冬至の日」に「大嘗祭」や「新嘗祭」を行った記録は見あたりません。もっとも、『書紀』を調べてみるとそもそも「新嘗(祭)」「大嘗(祭)」という用語の「使用例」が少ないことに驚きます。
『書紀』の「神代巻」には「大嘗」は全く出てこず、「新嘗」という用語であれば何回か出て来ますが、「日付」を伴うものではありません。また「人代巻」にも以下の(A)(B)二例において「新嘗」という言葉は出てきますが、やはり日付を伴っておらず、それらを除くと「日付」がわかるものは(イ)から(ヘ)までの「八例」しかありません。
以下にそれら全用例を列挙します。
(A)「仁徳天皇四十年(壬子三五二)是歳。當新甞之月以宴會日賜酒於内外命婦等。」
(B)「白髮天皇二年(辛酉四八一)冬十一月。播磨國司山部連先祖伊與來目部小楯。於赤石郡親辨新甞供物。一云。巡行郡縣收歛田租也。」
(イ)「(用命)二年(五九二年)夏四月乙巳朔丙午(二日)。御新甞於磐余河上。」
(ロ)「(舒明)十一年(六三九年)春正月乙巳朔壬子 車駕還自温湯。
「乙卯(十一日) 新甞。盖因幸有間以闕新甞歟。」
(ハ)「(皇極)元年(六四二年)十一月壬子朔(中略)丁卯(十六日)。天皇御新甞。是曰。皇太子。大臣各自新甞。
(ニ)「(天武二年)十二月壬午朔丙戌(五日)。侍奉大嘗中臣。忌部。及神官人等。并播磨。丹波二國郡司。亦以下人夫等悉賜祿。因以郡司等各賜爵一級。」
(ホ)「天武五年(六七六)九月丙戌(二十一日)神官奏曰。爲新甞卜國郡也。齋忌齋忌。此云踰既。則尾張國山田郡。次次。此云須岐也。丹波國訶沙郡。並食卜。」
「十月丁酉(三日)祭幤帛於相新甞諸神祇。」
「十一月乙丑朔 以新甞事不告朔。」
(ヘ)「天武六年(六七七年)十一月己未朔。雨不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人賜祿各有差。且專捕赤鳥者。賜爵五級。乃當郡々司等加増爵位。因給復郡内百姓以一年之。」
「是日。大赦天下。」
「己卯(二十一日)。新甞。」
「乙酉(二十七日)。侍奉新甞神官及國司等。賜祿。」
(ト)「持統五年(六九一年)十一月戊辰(一日)。大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋讀天神壽詞。」
「壬辰(十六日)。賜公卿衾。」
「乙未(二十七日)。饗公卿以下至主典。并賜絹等。各有差。」
「丁酉(二十九日)。饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨國因幡國郡司以下至百姓男女并賜絹等。各有差。」
ここで各記事について見てみると、(イ)を見ると、「夏四月(二日)」に「新嘗祭」を行っているように書かれています。また(ロ)になると「正月(十一日)」に「新嘗祭」を行っているように見えますが、「書紀編纂者」の「注」として「有馬」に行っていたから(「十一月」の「卯の日」には)出来なかったものか、と言う推定をされています。つまり一ヶ月ずらしたというわけです。それがもし本当なら「神祇令」に叶っていることとなります。『令義解』によると「新嘗祭」(大嘗祭も同じ)の日程については「仲冬」(十一月)の「下卯の日」とし、「卯」の日が三回ある場合は「中卯の日」とすると書かれています。
(ハ)ではその「神祇令」に定められた「十一月中卯の日」という規定に合致しているのが分かります。しかし、これ以降常に「神祇令」に合致しているのか、と言うとそうではなく、(ホ)を見ると、この文章からは「告朔」という月例の行事が「新嘗祭」のために行われなかったと書かれているわけであり、この時点で「新嘗祭」は「十一月朔日」に行われていたことが分かります。
(二)では「大嘗祭」が行われたらしいことがわかりますが、それがいつどこで行われたかが不明となっています。日付からいうと十一月のどこかで「大嘗祭」を行ったように窺えますが、はっきりしません。
ところが(ヘ)になると(ハ)と同様「神祇令」に定められた「十一月中卯の日」に適合するように「戻って」います。
さらに(ト)は『書紀』中「唯一」の「大嘗祭」実施記事ですが、その実施日付とされる「戊辰」は「朔日」となっており、この日も当然「中卯の日」ではありません。(これについては「周正」採用の事実を隠蔽するための工作の跡と理解する考察が行われています。(※)
以上の中で「実施日」が「冬至」であった日はありません。一番近いのは(ヘ)の例で、実施日の二日前が「冬至」でした。(ト)の例は、この年の「冬至」が「二十四日」の「辛卯」であり、これは「中卯」という規定に合致していたと考えられますから、もし「神祇令」通りに実施されていたとしたら、「中卯の日」が「冬至」である「最初」の例になっていたものです。
ところで、この(ト)の『持統紀』の「大嘗祭」の日付については以前から疑問が提出されています。この点については『書紀』の「大系」の「頭注」では、「この段階ではまだ大嘗祭の日付は確定していなかった」というような解釈がされていますが、「神祇令」は『養老令』中にあるものであり、それは『大宝令』にもあったと考えられるわけですが、『大宝令』はまた「飛鳥浄御原令」を「准正」としたと『続日本紀』に書かれているわけであり、「神祇令」に規定されたことは「飛鳥浄御原令」にもあったものと推定できますが、そうであれば「持統」の「大嘗祭」の日付が「朔日」であるのは大きな疑問とならざるをえません。
また、その「大嘗祭」に参加した関係者に対して「饗」を催して「慰労」しているのが「二十七日」及び「二十九日」であって「月末」ですから、「大嘗祭」実施からほぼ一ヶ月後の事となってしまい、時期としては遅すぎると考えられます。たとえば、その前の(ヘ)の「新嘗祭」記事を見ると「己卯」(二十一日)に「新甞」が行なわれ、その六日後の「乙酉」(二十七日)に「侍奉新甞神官及國司等。賜祿。」というわけですから、この場合は「新嘗」から「賜祿」までの期間も特に長すぎるということもなく、リーズナブルな進行と言えるでしょう。
このことは(ヘ)の例も実際には「中卯の日」に行なわれたものではないかと考える余地を与えるものです。そう考えると、その前に書かれた「壬辰(十六日)。賜公卿衾。」という記事は、「大嘗祭」に出席する「公卿」に儀礼用の衣装を与えた記事と考えられ、これも流れとして首肯できるものです。
つまり、実祭には(ヘ)(ト)と続けて「神祇令」に合致している結果となるわけで、その前の(ハ)も「神祇令」に合致していることとなります。
(ニ)(ホ)では「十一月一日」つまり「冬至」の日に「新嘗祭」を行なっているように見えるわけですが、これは「唐」で行なわれていた「冬至」の催しの開催日が「十一月一日」であったことと関係があるのではないでしょうか。
「六五九年」に派遣された「伊吉博徳」の書いた「記録」が『書紀』に引用されていますが、その中に「冬至之會」というものが出てきます。
「(伊吉博徳書)十一月一日 朝有『冬至之會』。會日亦覲。所朝諸蕃之中 倭客最勝。後由出火之亂 棄而不復檢。」
つまり、「冬至之會」なるものがあり、そのため「諸蕃」の国々が集まっていたのですが、「出火」事件が起き中止となったという記事に出て来ます。この年は「十九年に一回」という「朔旦冬至」でしたから、一日の朝(日の出)に「冬至」の儀式を「洛陽」の「南郊」で行ったものであり、特別な年であったものですが、それに出席した「倭国」からの使者がこれを持ち帰って報告したことを受けて、「倭国」でも「十一月朔日」に「同様」の儀式を始めたと言う可能性があると考えられます。さらにいえばその十九年前の六四〇年も「朔旦冬至」であったわけであり、この時点以降「冬至」の日に「新嘗祭」を行っていたとして不思議ではないでしょう。そう考えると、「大嘗祭」「新嘗祭」の日付の変遷には不審があることとなります。つまり「伊吉博徳」以前の「舒明」「皇極」は「神祇令」に則っていたように見えるわけですが、これは時期として「十一月朔日」であったとする方が自然であり、「天武二年」「天武五年」には確かに「十一月朔日」に行われているとみられるものの、「天武六年」「持統五年」はふたたび「神祇令」に合致している可能性が高く、この流れは一見して不自然でしょう。つまり問題は「舒明」「皇極」の二つの記事と思われるわけです。
この段階で後の「神祇令」と同等なものが存在していたのか、「唐」の「朔旦冬至」の儀式を真似ることはなかったのかそれが疑問とされるわけです。
ただし、この時「高表仁」が来倭し「礼を争った」とされることも考慮に入れる必要があるでしょう。「唐」との関係を良好なものにする努力は「六四八年」を待たなければならず、それ以前は「倭國」独自のものであったという可能性も考えられます。
また、この「二代」の天皇についてはその存在が「不確か」という指摘もあり、この両天皇の記事については後代の「挿入」という可能性も考えられ、その内容を詮索するのは適当ではないかもしれません。
「天武六年」以降「神祇令」に則るかのように「十一月の中卯の日」に「新嘗祭」が行なわれるわけであり、この年がその「実施日」の切り替わりの年であったと思料されます。(二年連続で「新嘗祭」記事があるのは「ここだけ」です。)
この年にそのような切替えが行なわれることとなった理由としてはここにおいて「神祇令」を含む「律令」が完成したこと、さらに「藤原副都」整備が完了し、改めて「明日香」領域を「直轄地」とし、ここから「近畿」を含む「東国」を統治・支配していくというように体制が変更されたらしいことが挙げられ、新体制が整ったことを示すと思われます。
(この項の作成日 2011/01/03、この項の最終更新 2017/01/12)