「山上憶良」の作品に「貧窮問答歌」というものがあります。
「万葉集八九二番歌及び八九三番歌」
「貧窮問答歌一首并せて短歌(山上憶良)」(以下万葉集の読み下しは「伊藤博校注『万葉集』新編国歌大観準拠版」(角川書店)によります)
「風交(まじ)り 雨降る夜の 雨交り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を とりつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげ掻き撫でて 『我れをおきて 人はあらじと』 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被(かがふ)り 布肩衣 ありのことごと 着襲(き)へども 寒き夜すらを 我れよりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒(こ)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る
天地は 広しといへど 我がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて 父母は 枕の方(かた)に 妻子どもは 足(あと)の方に 囲(かく)み居て 憂へさまよひ かまどには 火気(ほけ)吹き立てず 甑(こしき)には 蜘蛛の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間(よのなか)の道」
「世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」
この歌は「高校」の古典などの時間に必ずお目にかかるものであり、民衆に優しいまなざしを向けたもので、古代律令制の「暗部」を指摘したものという理解が大勢でした。また構成として「貧」と「窮」の会話という見立てが大勢を占めており、共に「農民」というように理解するのが通常でしたが、近年「貧」の方は「窮」の実情などを調べる役人ではないかといわれるようになったようです。
ところで、この「貧窮問答歌」においてはいくつか「疑問」があります。
(一)「貧」の人物の言葉の中に「父母」と「妻子ども」は「飢ゑ凍ゆらむ」「乞ふ乞ふ泣くらむ」と「推量」で記されています。これは目前の事実ではないことを示すものです。これが自分の「父母」「妻子ども」の意であるとすると、彼らとは同居していない(と云うより遠く離れている)ことが知られます。つまり、「貧」の方の人物は「家」や「家族」から離れて、「単身」でどこかにいることが判ります。彼はなぜそのような場所にいるのでしょうか。この点についてはやはり疑問に考える向きもあるようで「窮」の家族のことと解釈する考え方もあるようです。しかし、それは「文意」とは全く異なるものであり、文章を素直に解するとこの父母は「窮」のそれではないことがすぐわかるでしょう。「貧」が尋ねているのは「あなたはどのようにして世を渡るか」ということに尽きるのであって、「父母」と「妻子」は別の話と思われます。また、「窮」自身ではなく、「窮」の「家族」のことを尋ねているというのも奇妙な話しではないでしょうか。
(二)この「貧」の人物は「『我れをおきて 人はあらじ』と誇」っていますが、彼は何を「根拠」にそのようなプライドを持っているのかということです。これについては「貧者の心意気」などと理解するのが通常であるようですが、「誇り」の根源は別にあると考える方が正しいと思われます。
(三)「窮」の人物の言葉の中には「里長」というものがありますが、これは原文(万葉仮名)では「五十戸良」と書かれています。
「…短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻俤 来立呼比奴…」
つまり、「五十戸」で「サト」と読ませているわけですが、「木簡」などから「五十戸制」が「里制」に変えられたのは、遅くても「六八九年」以前のことであることが判明しています。
しかも「里長」というのは「国家」から「認定」あるいは「任命」された職掌ですから、そこに使用されている「五十戸」という表記についても「国家」の制度の一部が反映していると考えるべきこととなります。そう考えれば、この「歌」の造られた実年代として「六八九年」以前である事が強く推察されますが、「山上憶良」は「筑前国守」となって「筑紫」に滞在していたのが「天平三年」(七三一年)から「天平五年」(七三三年)頃であり、この歌もその頃詠まれたものとされています。ではなぜ「五十戸」という表記がこの歌の中に現れるのでしょうか。(地名ならば遺存すると言うこともあり得ますが、ここではいわば「役職名」として登場するのですから、不審であると言えます)
(四)「貧」と「窮」はなぜこんなに極限的な「貧」と「窮」の状態に置かれることとなったのでしょうか。
これが「普遍的」な「律令制下」の状態であったという考え方もあるでしょうし、それはおおよそ同意するものですが、特に「窮」の方の状態は「究極的」なものであり、このような状態が当時「普遍的」であったとは少々考えにくいと思われます。ここで「窮」の実情として書かれていることは、何か「政治的」(戦争などの影響)あるいは「自然災害」(日照り、台風、地震など)などの影響を受けたためと考えるのが正しいと考えるものですが、その様なものとして何が考えられるでしょうか。
(五)そのような状態にも関わらず「里長」が「しもと」(「笞」)を持ってやって来て、強制的に何かを取り立てているように見えますが、それについてもなにか「政治的」な政策の不毛が感じられるものであり、当時の「政権」の政治的意思の所在についても疑問を感ぜざるを得ないのです。
これらについて考えたとき、一つの可能性が浮かびます。つまり、この歌が「五十戸制」が「里制」に変えられる以前の「六八九年以前」に詠まれたものであるとすると、上の疑問は説明が付くのではないでしょうか。
「六九八年」にほど近い年次の「事件」「事故」を考えるとき考慮から外せないのは「六八四年」に発生したとされる「西日本大震災」ともいうべき「大地震」と、それに伴う「津波」被害です。
この時の「地震」は(近い将来起こると推定される地震も)今回の「東日本大震災」を上回る規模と被害が推定され、これにより「西日本」の各地に収拾困難な事態が発生したものと考えられ、『二中歴』によれば「兵乱海賊初めて起こる」とされるほど、政情が不安な状態となったものです。当然、それは「下層民」を直撃したものであり、彼らは当座をしのぐのも困難なほど「困窮」したものと考えられます。
「倭国中枢」はこの状態に対応して「借金」の「元本」も「利息」も免除するという「徳政令」を発したものですが、この時これに先立ち各地に人員を派遣しています。
「十四年(六八五年)九月甲辰朔戊午条」「直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者。直廣肆石川朝臣虫名爲東山使者。直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者。直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者。直廣參路眞人迹見爲南海使者。直廣肆佐伯宿禰廣足爲筑紫使者。各判官一人。史一人。巡察國司。郡司及百姓之消息…」『天武紀』
この記事は「地震の被害」の確認を行うために派遣されたと見られ、それは被害が少なかったと見られる「北陸道」に対するものを含んでいないことからも推定できますが、この時に派遣された「判官」と「史」というのが、「貧窮問答歌」の中の「貧」者の部分の主人公であり、またそれを記録している「山上憶良」ではなかったかと考えることができるのではないでしょうか。そう考えると、「貧」が「単身」で「家族」から遠く離れているという状況も理解できるものです。
「山上憶良」は「七〇一年」の遣唐使団に選ばれたとき「四十二歳」であったとされますから、各地への巡察者を派遣した「六八五年」には「二十六歳」であったものであり、「任官」のできる最初の年齢である「初叙」の年次(二十五歳)直後と推察されます。彼の「初めて」の大きな仕事が「諸国」の民衆の状況の視察であったという可能性もあると考えます。
彼は「山上憶良『大夫』」という表現がされることがあるように最終冠位が「五位」であったものですが、『続日本紀』では彼について「遣唐使」派遣記事の中では「無位」(无位)であると書かれています。
「大寶元年(七〇一年)春正月乙亥朔丁酉条」「以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。」『続日本紀 文武紀』
「無位」でしかも「四十歳」過ぎたような人物が「少録」として「渡唐」するというのは「異例」と思われ、さらにそのような人物がその後「十年」ほど経過すると「従五位下」へ昇進して「貴族」の仲間入りをしているというわけですから、その昇進自体「異例」過ぎるものです。
彼は、上に見たように「五十戸制」が存在していた時点ですでに「官吏」であった可能性が強いと考えられますが、そうであれば、「彼」が「旧王権」(倭国王権)時代の人間であり、その経歴に謎があるのはそのような「旧王権」との関係が「隠蔽」されているからとも考えられるでしょう。
「旧王権」関係者の中には「葛城王」(後の「橘諸兄」)や「伊吉博徳」など、「冠位」(爵位)を大きく降下させずにそのまま「新王権」に仕えているような人たちもいますが(ただし「伊吉博徳」の冠位について見てみると途中に明らかな「停滞」がある)、中には「無位」に落とされるような経験をしたものもいたのではないでしょうか。(これは本人の「能力」と「忠誠心」の差によるものでしょうか)
そのことは「彼」の作品で「嘉麻三部作」というものの中に現れているようです。そこでは「山沢に亡命」している人たちに対して「家」へ早く戻るよう、「家族」の元へ戻るように呼びかけています。そこでは「銀(しろがね)も黄金(くがね)も玉も何にせむに勝れる宝子にしかめやも」と歌い、あるいは「父母を見れば尊し妻子見ればめぐしうつくし世の中はかくぞことわり」とも歌っています。また、「ひさかたの天路は遠しなほなほに家に帰りて業をしまさに」とも歌い、家業を全うすることを説くと共に、「咲く花の移ろいにけり世の中はかくのみならし」であるとか「常磐なすかしくもがもと思へども世のことなれば止みかねつも」などと、人生の短いことを歌い、元の自分に戻る事を説いています。
ここで言う「亡命」は「宗教的」と言うより、現在の「亡命」とほぼ同じ意義であり、「政治」的な立場の違いなどに発するものであると考えられています。しかし、それは「元明」の詔に有るような「紋切り型」ではありません。彼は明らかにそのような「亡命者」に対して「シンパシー」を感じているものであり、そのような人物だからこそ、「説得」には最適と考えられたのかも知れません。彼が「筑前国司」として赴任したというのもそのような事情が背景にあるとも考えられます。
このような「シンパシー」は、元々彼が彼等と同じ「政治集団」の中にいたことを示唆するものであり、そのことと「四十歳」を過ぎて「無位」であったこととは関係していると考えられます。
そうすると「貧」という人物についても「旧王権」に仕えていた人物という解釈が可能となりますが、彼が「我を起きて人はあらじ」と誇っていることと、それとは対象的に「下級役人」として「任地」に単身で派遣されているような現実が存在していることから、彼が「旧王権」から排除されているあるいは厚遇されていない人物であり、「近畿王権」など「倭国中央」から離れた「諸国」の出身であったのではないかということが推察されます。
ところで、この「貧窮問答歌」については「上田武氏」の研究により「西晋」の「司書郎」であったという「束皙」の「貧家賦」という作品が、「七世紀初め」に編集されたという「芸文類聚」に採られていて、これを参照したという可能性が高いとされています。(※)
確かにこの作品からヒントを得て造られている部分はあり、語句についても類似しており、議論には大筋同意できるものですが、上に見た「我をおきて人はあらじ」という「物言い」はその中には確認されず、これは「漢詩」など中国古典には「典拠」を持たない可能性が高いと考えられ、これは何か別のルーツを持つものと考えられます。
この言葉は彼(「貧」)にとって、ある種「言い慣れた」ものであることを推量させるものであり、そのことからこれが「彼」というより「彼ら一族」にとってなじみの深いものであるように思われますが、そのようなものを探してみると、冒頭に挙げた「大伴家」などに伝わる「家訓」が元となっているという『万葉集』の「陸奥出金詔歌」が浮かびます。
この歌の中に「貧窮問答歌」同様「我れをおきて人はあらじ」という文句が出て来ます。
この歌は「聖武天皇」が「大仏建立」に際して「黄金」を探していた際に「陸奥」から「百済王敬福」が「黄金」を献上し(七四九年)、「聖武天皇」がそれに感激して「東大寺」に感謝を込めて参詣し、その時出された「詔」に「大伴氏族」達に言及した内容があり、そのことに感激した「家持」がその「詔」を詠い込んで「歌」を作ったというわけです。つまり、「山上憶良」の歌よりも「後」の時代の事となりますが、「聖武天皇」の「詔」では「大伴佐伯両氏」が「天皇の朝」を守るのに「顧みない」という事を「常に聞いている」という意味のことが述べられています。また「汝達が祖先から伝えられているように」という言い方で「海ゆかば」以降の文章が書かれており、「聖武」は彼ら「大伴佐伯氏族」の「天皇家」に対する姿勢を普段から熟知していることが判ります。(当然ともいえますが)
「続日本紀 聖武紀」
「(天平感宝元年)(七四九年)夏四月,甲午朔条」「…又大伴、佐伯宿禰波(は),常母(も)云久(く),天皇朝守仕奉,事顧奈伎(なき)人等爾(に)阿禮(あれ)波(は),汝多知乃(たちの)祖止母乃(ともの)云來久(く) 海行波(は)美(み)豆久(づく)屍,山行波(は)草牟須(むす)屍,王乃(の)幣(へ)爾去曾(にこそ)死米(め),能杼(のど)爾波(には)不死 止(と),云來流(る)人等止奈母(となも)聞召須(す)。是以,遠天皇御世始弖(て)今朕御世爾(に)當弖母(ても),?兵止(と)心中古止波奈母(ことはなも)遣須(す)。…」
このことから、「大伴」氏や「佐伯氏」に伝わる「言立て(家訓)」が存在していて、それをベースにして「詔書」が書かれたと言うことが見て取れます。そうすると、この「詔書」やそれに対する「家持の歌」などに先立つ時期に「山上憶良」がその「家訓」を歌に取り入れたとしても不思議ではないこととなります。
つまり、この「物言い」が「大伴氏」や「佐伯氏」に伝わる「家訓」の一部であったとすると、この「貧」の歌の部分は彼らに属する人物のうちの誰が「主人公」であることとなるでしょう。つまり「大伴」か「佐伯」の誰かが、「下級役人」として「窮」の立場の誰かに問いかけている光景を推定させます。
そう考えると、「六八五年」に諸国に派遣された「巡察使」の中で「筑紫」に派遣されたのが「佐伯氏」であることが注意されます。これはこの時「陪従」した「判官」ないし「史」も「佐伯氏族」であったという可能性が考えられるものです。
「佐伯氏」は上に見た「家持」の「賀陸奥國出金詔書歌」で「大伴」と並び「家訓」が伝わっていたように窺える氏族ですから、そのような立場の人物であれば「下級役人」(判官)として「筑紫」に派遣され、そこで「家訓」を「唱えながら」「糟湯酒」を飲んでいるというような風景が詠われていたとしても不審とはいえないと思われます。
「大伴」や「佐伯」は「近畿王権」に非常に近いところにいたと考えられる氏族であり、それは「陸奥出金詔歌」でも「大君の御門の守り」というように「親衛隊」的立場にいたことが推察され、それは逆に言うと「倭国中央」からは「傍流」とされていたという可能性もあるでしょう。このような「氏族」の中には「地方」に派遣されるなど、「冷遇」されるという悲哀を感じていた人物がいたとして不思議ではないこととなります。
そう考えるとこの「貧窮問答歌」の背景(土地)としては「筑紫」であったという可能性もありますが、この「六八四年」の「西日本大震災」でも「筑紫」にはかなりの被害があったとは考えられるものの、実際にはそれ以前に発生した(六七八年)「筑紫大地震」による被害の影響の方が「筑紫」では大きかったと考えられます。その回復が進まないうちに「西日本大震災」が発生したものであり、そのため「困苦」に悩む人が一層増したという実情が「窮」者のような究極的な弱者が発生する要因となったと言う事を示すとも考えられます。
またこの時の「五十戸良」(里長)の「取り立て」の状況は、「租」などの「税金」や「貸稲」の「利息」の取り立てなどを行っている状況を推定させるものであり、このような地方の実情について(他の地方も大きく異なることはなかったと思われ)彼らなどからの報告が上げられ、それを元にして「倭国中央」において協議の結果、「債務」を「元本」「利息」とも免除するという「徳政令」実施となったという流れが推定されます。
以上の考察から、この歌は「山上憶良」が「筑前国守」となって「筑紫」に滞在していた時に詠んだものというより、本来はそれよりかなり以前の「諸国巡察」に同行した際にやって来た「筑紫」で見た情景を、その時点で詠んだものであったものと推察され、彼自身が「国守」となって再度やって来た「筑紫」での任官を終えた後に初めて「表」に出したものと思われます。それは『万葉集』においても「天平三年」の作と思われる「熊凝哀悼歌」(万葉八九二番から八九三番)以降には「貧窮問答歌」も含めて「官職名」が書かれておらず、これは一般には「退官後」の作品と考えられているわけですが、実は「無位」時代の作品であることを暗に示すものではないかと思われるわけです。
そして、そのように以前詠んだ作品を「後年」発表した理由のひとつは、この「貧窮問答歌」の直前にある「大伴君熊凝」という人物の死に際して彼の置かれた状況が「歌の内容」と似たシチュエーションであったこともあると思われます。
この「大伴君熊凝」は「国司の従人」であり、(多分「無位」)「キ」へ向かう途中で亡くなったとされていますが、「父母」を故郷において単身でいることや「しかとあらぬ ひげ掻き撫でて」という表現から、「貧窮問答歌」の「貧」の方は「髭」も余り濃くないような、かなり若い人物であることが推定されますが、それも「十八歳」という「大伴君熊凝」と重なるものであり、「巡察使」に出た頃の若かった自分に似ていたものでしょうか、何か共鳴するものがあったのではないかと思われます。また「大伴君」とされ「大伴一族」の「末端」に位置すると言うことも「我をおきて〜」の台詞が似合いそうな人物とも言えます。
「憶良」は、彼(「大伴君熊凝」)の死に際して彼の「志」を述べた「大典麻田陽春」の歌に「和する」歌を詠んでいますが、さらにこの「貧窮問答歌」を添えて「大伴君熊凝」という若者に対して「深い同情」と「鎮魂」の意を表したものと考えられます。
(この歌の「左注」には「謹上」とあり、この「左注」は「貧窮問答歌」に関するものではないという説もあり、そうであればこの「貧窮問答歌」も「誰に献上する」と言うことを志向していなかったものと思われ、それは逆に「大伴君熊凝」に対する純粋な思いを感じさせるものです)
さらに、そのように以前詠んだ作品を「後年」発表したわけとしては「筑紫」の実情が当時と余り変わらなかったからということも言えそうです。
「筑紫」は当時「新日本国王権」から「抑圧」されていたと見られ、また「嘉麻三部作」などに詠まれたように「抵抗」を続ける「旧王権」関係者もおり、それとの小競り合いなどもあって、かなり荒んだ状態であったのではないかと思われ、そのことに心を痛めた「山上憶良」は、改めて昔の歌を引き合いに出して実情を嘆いたものと推察されるものです。
(この項の作成日 2013/01/10、最終更新 2017/09/30)