既に見たように「六七八年」に「筑紫大地震」があり、「筑紫宮殿」など「筑紫都城」やその周辺地域(筑後など)にも甚大な被害が発生したと思われます。
「久留米市」にある「筑後国府」遺跡でも「液状化」の後が確認され、この時点で存在したとされる「官衙」(筑後の仮宮か)もかなりの損害が出たのではないかと考えられるものです。ただしこの地震時には「副都」(藤原京か)にいたと考えられ、「筑紫地震」のダメージの詳細は事後報告であったと思われます。「筑紫宮殿」その他に被害があったことという報告を受けて以降「倭国王」(「薩夜麻」)は「筑紫宮殿」の建替えを行なうことを決めたと見られ、その間「新副都」である「藤原京」に常住することとしたのではないかと考えられます。このためこれら副都の政治的比重がさらに高まることとなっていたものと思料されます。
その後(六八四年)の「東南海同時地震」の時も「薩夜麻」は「副都藤原京」の地から「倭国」を君臨・統治していたものと思われ、「近畿地域」の被害程度については自身の経験としてよく理解していたものと考えられます。
この時点で「諸国」のひとつとして存在していた「近畿王権」はこの地震によりかなりダメージを受け、その統治に支障が出るほどではなかったかと考えられ、その結果「倭国王朝」(本国)に「救援」を要請したのではないでしょうか。
このため、「薩夜麻」は「近畿」を中心とした地域の復興を図るため、ここに正式に「首都」を移転し、本格的に近畿方面の「直接統治」を開始しようとしたのだと推察されます。
この「東南海連動地震」と推定される地震により「第一次藤原京」にもかなりの被害が生じたものと見られます。「藤原京」があった土地はかなりの「湿地帯」であり、地震の震動に対して耐性は余り高くなかったと考えられるのに対して、「難波京」は「上町台地」という「標高」のかなり高い場所にあったものであり、この時の地震でも「津波」による浸水などは僅少で収まったと見られます。また「硬質層」が比較的浅い場所に存在している事から、地震動に対しても強かったと見られ、以降の統治に必要な機能は喪失していなかったと推測できます。そのことは「江戸時代」に起きた「宝永の大地震」の際の被害記録からも推定されます。この時も「巨大地震」が起きたと考えられ、大阪の街は地震とその約二時間後に襲った津波により多大な被害が発生したとされますが、「上町台地」上にあった「大阪城」を初め多くの寺院などはほぼ無傷であり、多くの人々の避難場所として機能したことが知られます。(『大地震記 宝永四年十月』によります)
このことから、「六八四年」の地震発生後は「難波京」が統治の中心であったと見られます。そのことが「六八六年」の火災記事につながると考えられるものです。
「朱鳥元年(六八六)正月乙卯一四 酉時難波大藏省失火。宮室悉焚。或曰『阿斗連藥家失火。之引、及宮室。』唯兵庫職不焚焉。」
この難波宮殿の火災記事によれば「大蔵省」「兵庫職」という官職(職名)が書かれています。これらの「職名」で表される「官衙」がここに存在していたというわけですから、上で推定したように「難波宮」がこの時点で「政府中枢」として機能していたのは間違いないものと見られます。
また、「阿斗連藥家失火。之引、及宮室。」と書かれていることから、「宮殿」付近に「官人」の住居があったことを示していると考えられます。別の言い方をすれば「飛鳥宮殿」の「近辺」には官人がいなかったのではないかと考えられるものです。
「飛鳥宮」至近には「都市機能」つまり「条坊制」などが布かれた形跡はなく、また「宮殿」の「至近」に有力豪族や官人などの住まいがあったようにも見えません。つまり「飛鳥宮殿」の「政府中枢機関」としての機能は「限定的」であったことが読み取れます。
しかし、「難波宮殿」や後の「藤原京」は「統合」された政府機関であり、その中に「国家」の中枢としての全ての機能が集まっていました。このような「宮殿」とそれを取り巻く周辺施設がありながら、あえてそれを使用せず、「飛鳥」にとどまる理由が従来は正確に説明できていません。
また既に見たようにこの「地震」により「(第一次)藤原京」はその「副都機能」をかなり失ったものと見られ、「再整備」を行う事が必要となって、その間「難波京」と「飛鳥宮周辺」に統治の機能を分散して対処していたのではないかと推察されます。
この段階で「国家」の機能が主に「難波」にあったと見られるということは、「倭国王」がこの時「難波宮殿」の中にいた可能性を推察させます。
『書紀』によれば「六八六年正月」の「難波宮殿」火災記事以降『書紀』には「天武」の「死」を予期させるような記事ばかりが並び、結局その年の十月に死去した、ということとなっています。
「(朱鳥)元年(六八六年)正月己未(十八日)朝庭大餔。是日御御窟殿前而倡優等賜禄有差。亦歌人等賜袍袴。」
この記事は「火災記事」の直後の記事ですが、すでに「御窟殿」という「正体不明」の場所名が書かれています。ここで使用されている「窟」という文字は「岩屋」や「洞穴」の類に使用される文字であり、「殯宮」(死んだ後の「喪がり」を行う場所)を連想させるものです。それを示すように「倡優」や「歌人」がその前で、「演技」(所作)を行ったり「歌」を歌ったりしていますが、これは「葬送儀礼」に関係していると思われます。
『隋書たい国伝』の「死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞」と言う記事や『令集解』の「遊部」の項目でも分かりますが、「天皇」の崩御に伴い「喪がり」が行われ、そのための「鎮魂歌舞」がその場で行われるものであったと考えられます。
これらの記述から考えて、この時「御窟殿」の前で行われた「倡優」による「演技」(悲しみを表す所作か)や「歌」はまさに「喪がり」に奉仕したことを示唆するものであり、「天武」がこの段階ですでに死去していることを意味していると考えられます。
この時「持統天皇」は『書紀』によれば前天皇(「天武」)の死去後「称制」という形で、正式に即位しないで「皇后」の地位のまま「統治」しているように書かれています。
この「称制」は『書紀』では「斉明」死去後「天智天皇」が「称制」したというように使用された用語ですが、本来「古典」などに「根拠」を持つ「歴史的用語」であり、この時はその「本来の」意義で使用されたという可能性があります。つまり、「前国王」の「子供」が幼少ないし未成年である場合に「皇后」(皇太后)が代わって治世を見るというものであり、この時「称制」が行なわれたということから、「薩夜麻」の「年長」の子供が「父」と共に死去したことを推察させます。そのため「未成年」であるところの人物が「成年」に達するまで「皇太后」が代わりに「即位」したと云うことと理解されます。
「宮室」も全て焼けた、という記述の中に「宮室」の中にいたと考えられる「倭国王」と「皇太子」の生死が暗黙に書かれているのかもしれません。「阿斗連薬」という人物の「家」から出火という書き方も、この「人物」による「放火」という可能性をも想定させるものです。
「難波宮殿」は上町台地の一番標高の高いところにありましたから、水利が悪かったという事も考えられます。火災が起きたときに十分な「水」が確保できなかったかもしれません。
「難波宮」の「発掘調査」からは、北西の「谷」から「湧出水」を利用するための「樋」状の施設が発見されており、その用途についての議論の中では、「宮殿」の内部には「井戸」がなかったという可能性が指摘されています。このため、火災などが発生した場合に必要な「防火用水」としてはその量が不十分であったのかも知れません。
また、この火災発生の時間帯としては「酉の刻」という記録になっていますが、これは当時「日没時間帯」を指す表記ですから、その時点ではあたりは薄闇となっていたと思われ、このようなことがあったとすると、宮殿の奥まったところの「寝所」にいたような場合には逃げ遅れたという可能性もあります。このようなことがあったとすると「皇后」あるいは第三の人物が「仮に」称制で統治する、という逼迫した事情も理解できるものです。
この時点で「難波宮」が焼亡してしまったと考えられるわけですが、まだ「藤原宮」の(再)整備も未完成であったと思われるため、「倭国王権」は「首都」「筑紫」に本拠を構えつつ、「近畿」の拠点として「離宮的施設」であった「飛鳥宮」に一部「官衙」などを移しながら、国内統治を進めていたのではないかと考えられます。
この時「難波宮」が焼亡したと見られるわけですが、それはこの「難波宮」が「礎石造り瓦葺き」ではなかったことと関係しています。もし、この火災が後年のことであったなら、必ず「筑紫都城」や「藤原副都」と共に「瓦葺き建物」に建て替えられていたものと推察されますが、実際には発掘の結果「掘立柱」建物のままで「焼亡」した事が明らかになっていますから、それは「焼亡」した年次として「六八〇年代」という時期より後ではなかったことは確かであろうと推察されます。
その後急ぎ「(第二次)藤原京」の整備が行われ、それが完成したのが「六八六年」つまりその年の「大嘗祭」を行ったのが「(第二次)藤原京」での出来事であったものと思料されます。
『書紀』によればこの時点では「天武」の後継者としては「草壁皇子」「高市皇子」「大津皇子」などそうそうたるメンバーがおり、いずれも「成年男子」ですから、本来「皇后」が「称制」などする必然性が全くないにも関わらず、「草壁」「高市」「大津」達はいずれも「倭国王」にはならないままで死去します。そのことが意味するのは、『彼らは「倭国王」の「皇子」ではない』と言うことです。
つまり彼らには「倭国王」を「継承」する権利がそもそもなかったと言う事であり、彼らの出自は「近畿王権」の「皇子」ではあっても、「倭国王」の「直系」ではないと言うこととなるでしょう。
それは「大津皇子」が「謀反」を起こしたという記事からも伺えるものです。
「大津皇子」は「新羅僧」(行心)に「謀反」を「教唆」されたとされています。当然「行心」としても「親新羅勢力」のバックアップを想定してのものであったと思われますが、それは「大津皇子」の母が「天智」の娘であったとされていることからも分かります。
また「謀反」後の処分記事にも「親新羅勢力」と思われる人物が含まれているようであり、彼の背後に「旧天智勢力」とも言うべき「親新羅勢力」が「策動」していた事を示しており、彼等は「薩夜麻」とその「後継者」死去による「倭国王権」の「真空状態」を「千載一遇の好機」と捉えたものと想定され、この時点で「天智」の復権を目指す勢力がかなり隠然たる勢力を有していたことを想定させるものです。
この「謀反」では「大津皇子」だけを「死刑」にし、それ以外については「放免」しているのも、「旧天智勢力」を全面的に敵に回したくないという「倭国王権」の意思の表れと考えられ、それだけの「危機感」がこの時の「倭国王権」にあったものと思料されます。それが表面化せず、「新羅勢力」を押さえ込んでいたのが「有力者」である「高市皇子」とされている人物であったと思われます。彼は「壬申の乱」でも活躍したように「西日本」の勢力を束ねる力があり、彼により「勢力の均衡」が保たれていたものと思料します。
(この項の作成日 2011/01/16、最終更新 2013/11/22)