すでに述べたように「筑紫」の地に建てられた「元興寺」は後に「移築」され「法隆寺」となったと考えられますが、使用されている部材の「年輪年代測定」の結果を見ると、その時期は「六七〇年」代の後半ではなかったかと推定されます。
このとき「移築」されることとなった理由はどういうものであったのでしょうか。
これについては、その後の「政治情勢」の変化によるものと考えられ、「副都遷都」に関連しているものと推察されます。
「六四七年」「利歌彌多仏利」の死去に伴い「利歌彌多仏利」の「太子」が即位したものと見られますが、彼はその後「難波副都」遷都を実行します。またそれに引き続いて「筑紫宮殿」についても整備を実施したものと思われ、これは「難波宮殿」と同じ「都城」の「北辺」に「宮域」を移動したものであり、「宮殿」そのものを「移築」したものと推察されます。そして、この時点で「難波」「筑紫」双方の宮域が「正方位」(南北方向に建物を揃える)を取るようになったものと思料します。また、「飛鳥宮域」(「飛鳥板葺宮)など)も同じく、「正方位」として整備されたものです。
この「筑紫宮殿」はその移築の前段階として「解体」されたわけですが、「宮殿」の至近に存在したと考えられる「元興寺」もこの時(難波遷都が完成し「白雉」改元が行なわれた六五二年の直後)、同時に解体されたものであり、本来は「宮殿」と同様「北辺」に移動される予定のものであったと推察されます。そして、「山口費大口」に刻むよう「詔勅」が出ていた「千躰仏」が「六五〇年」に完成し、それは「元興寺」の「寺域」に納められる予定であったと見られますが、その規模が当初想定よりも大きくなり、そのままでは「元興寺」の「寺域」内に収まらない見通しとなったことと、「宮殿」を北辺に移動することとなったため、併せて「元興寺」も北辺に寺域を移転することとなり、その際に「区画」を拡幅することとしたと考えられます。
そして、「宮殿」は移築完了したものの、「元興寺」に関してはまだ「解体」-「移築」作業がその全体の完成を見ないうちに(完成した「千躰仏」が納められた「三十三間堂」は移築完了していたと推測されます)、「難波朝廷」の「倭国王」は死去してしまい、次期「倭国王」である「薩夜麻」に代わったものですが、それもまもなく「半島」の状況が急展開を見せることとなったため、これに対応するため「薩夜麻」は自ら戦闘に参加し、その結果「捕虜」となってしまったものと思われるわけですが、その結果「元興寺」は解体されたまま「放置」されることとなったと見られるわけです。(その様な事を行っている状況ではなくなったと言うことでしょう)
そして、既に考察したように、「天智」はその「権力」の「空白」を狙って「革命」(反乱)を起こし「近江」を首都として「日本国」王朝創立を宣言したものです。そして「筑紫宮殿至近」に「観世音寺」を建設することとし、近江には「志我山寺(崇福寺)」、奈良には「川原寺(弘福寺)」の建設を開始します。(「六六八年」「崇福寺創建」、「六七〇年」「観世音寺創建」等)
しかし、その後、「六七一年」になって「唐」より「薩夜麻」が帰国し、「天智」が失脚し(死去した可能性もあります)、その後「壬申の乱」が発生し、その帰趨が「薩夜麻」を中心とした「倭国勢力」の勝利に終わり、その結果「天智」が建国し、その皇子の「大友」が継承した「日本国」が「滅亡」し、改めて「薩夜麻」の「倭国」が列島支配の実権を握ったと見られます。
彼はその後「藤原副都」の整備を開始し、「六七七年」に「副都遷都」に至ります。しかしその直後「六七八年」という年次に、「筑紫大地震」が発生した結果「筑紫宮殿」の改修整備を行わざるを得なくなり、その時点で「掘立柱板葺き」建物から「礎石建物」へと建て直しをしたものと推量されます。またそれ以前に、建築が進められていた「観世音寺」についてはその進捗が停止されます。
「一九三九年」(昭和十四年)からの「昭和の大修理」によって、「法隆寺」の「前身」の伽藍が確認されました。この「伽藍」は「四天王寺式」の伽藍配置である事が判明しています。
「四天王寺」は「阿毎多利思北孤」の直接的影響により作られたと考えられるわけであり、その存在は重要な意味を持っていたと考えられるわけです。「前身寺院」である「若草伽藍」が「火災」により焼失したとすれば、「当然」再建されなければならないわけですが、その後この「伽藍」跡に全く別の形式である「法隆寺」が建てられる事となったものです。
ここで「四天王寺形式」の旧伽藍をそのまま再建するのではなく、「元興寺」を移築するという事となった理由は、当時の「正統」な「寺院建築」の代表が「元興寺」であったためと推定されるものですが、あるいは「元興寺」という寺院の建築を主導したのが「阿毎多利思北孤」の「太子」「利歌彌多仏利」であり、この「難波朝廷」当時「利歌彌多仏利」の方が「尊宗」されていたとも考えられます。そして旧伽藍の跡地に「元興寺式」寺院が、「方向」を変更して正確に「南北」を向くように、土地を切り崩して「削平」して建てられたのです。
これについては「飛鳥板葺宮」などの「飛鳥」に所在する「宮殿」などがやはり「南北」方向が正確に把握されていることが知られています。(他に「飛鳥寺」」も)「飛鳥」という地域を離れるとその方位は「ずれ」が生じ、「様々な方向」を向いているのですが、これらの宮殿域については「南北」方向を正確に「測量」して建築されていると考えられます。
また他の建築物においても基本的には「倭国中央」の技術が動員されているものと考えられますが、後でも述べますが、この「飛鳥」の地は「倭国王家」の「離宮」的存在であったと考えられ、他の建築物よりも圧倒的に高い技術で建てられているものと推量され、「測量」などもその時点の最高技術で行ったものと考えられます。当時は「草葺き」や「茅葺き」が一般的であったにも関わらず「板葺き」にしているのもその「最高の技術」を使用している現れでしょう。
そして、「南北」を正確に測定するのに応用されたと考えられるものが『書紀』に記載されている「指南車」です。
この「指南車」というものは、「差動ギア」の原理に似た機構を有するものであり、「車輪」の回転数の左右の差から、機械的に一定方向を指し示すように設計されたものです。
「(斉明)四年(六五八年)十一月(中略)沙門智踰造指南車。」
「(天智)五年(六六六年)(中略)倭漢沙門知由獻指南車。」
もちろん「太陽」の動きを利用した測定法により「かなり正確」な「地軸」方向が定める技術も既にあったと見られ、この「指南車」と併用することで「正確」な方向を確定し、建物を建てるときの基準としたと思われます。
更にこれらの器具や技術を「実用」としたのは「伊勢王」であったと思われ、彼の時代に作られたと考えられる「官道」においてもかなりの精度で「正方位」が実現しています。彼はこれらの技術などを利用して「筑紫宮殿」や「法隆寺」の建設の際に「南北」方向の正確な把握をしたものと考えられます。
つまり、「法隆寺」における「正方位」を把握・取得するという「技術」と「方法」は、「筑紫宮殿」「難波宮殿」「飛鳥宮殿」などと同じレベルの測量法などを駆使した建築であると考えられるものです。これは「法隆寺」移築という事業に「王権」の意志が働いていることを強く示唆するものです。
前述したように「太宰府政庁U期」の建設と「法隆寺」の建設(移築)を推進した人物は、それ以前に「創建」された「観世音寺」のその後の進捗に関心が薄かったと推察され、「天智」とその母「斉明」と関係の薄い、あるいは「無関係」の人物であると考えられ、復帰した「倭国王」である「薩夜麻」と考えられるものです。
彼(薩夜麻)は「筑紫」において進められていた「観世音寺」の建設を停止し、代わりに「筑紫宮殿」の整備と「法隆寺」の「移築」を推進したのです。
前述したように「法隆寺」は「移築」された可能性が非常に高いものであり、その年次としては「六七五年」付近が想定されますが、その「要因」として最も可能性が高いと思われるのは、『書紀』の「六七八年」という年次に記されている「筑紫大地震」ではなかったかと考えられます。
この時の地震は「筑紫」の中枢部を襲っており、これにより「倭国王権」の直轄的支配の範囲に多大な被害があったと見られ、宮殿及びその周辺の「官衙」等にも被害が出た可能性があるでしょう。
このため、それまで「整備」が続けられ、一応の完成を見ていた「筑紫宮殿」においてもかなり損傷などがあったものと見られ、建設が進捗していた「副都」「藤原京」に移動して「倭国王」としての「職務」を行う事となったと考えられます。この際に各寺院などについても「近畿」特に「明日香」への移築ないしは新築が行われたのではないかと考えられます。
また、これらの寺院が「副都藤原京」を構成する重要なピースとして造られたという可能性もあります。
「元興寺」は「阿毎多利思北孤」の勅願寺であったわけですから、「京師」に必要な「宗教的」施設として「副都」である「藤原宮」のある「明日香」へ運ばれたという事も想定されます。
また、この地震直後に「薬師寺」が「創建」されたこととなっているのは「地震」により多数の人的被害があったことを想定させるものであり、それらに対する「医薬」的対応と共に、宗教的な慰霊、あるいは「呪術的」対応も視野に入れたものかもしれません。(これについても移築と見られます)
また、この移築の本質と関わることですが、この時点付近で「阿毎多利思北孤」に対する個人的信仰が強まったものと見られ、それもまた「医薬」に対する信仰から起きたものと見ることもできるでしょう。それは「元興寺」を移築した「法隆寺」と同形式の「瓦」を使った寺院が飛鳥の各所にできることとなった理由でもあると考えられます。それらについても「新築」である可能性もありますが、「法隆寺」と同様「移築」であるという可能性もあると思われます。
ところで「元興寺」に「釈迦三尊像」が敬造され、「上宮法皇」(阿毎多利思北孤)が死去した時点以降「天子は南面する」という思想に基づき「南面金堂」に変更されたものと推定されるわけですが、これを真似たと思われるのが「百済大寺」と推定されている「吉備池廃寺」です。これは「元興寺」の様式を参考にしたという可能性が高いと思われます。
この「吉備池廃寺」はまだ詳細が判明していないものの、出土した「瓦」について「斑鳩寺」(若草伽藍)や「四天王寺」などと同笵の「単弁蓮華紋瓦」よりさらに古式の「素弁蓮華紋瓦」が検出されています。これらのことはこの「吉備池廃寺」の創建時期について再検討を迫るものであり、『書紀』にあるような「六四〇年代」の完成というものを見直す必要があるものといえるのではないでしょうか。
(このことから、従来の見解を改めました。以前はこの「吉備池廃寺」について「利歌彌多仏利」の「菩提」を弔うために「難波朝廷」を開いた「伊勢王」が創建したと考えていましたが、これを訂正することとします。)
この「吉備池廃寺」は規模が非常に大きく高さ一〇〇メートルはあったと推定される「九重の塔」を中心に作られていたものであり、このように巨大なものを作る(作らせる)事ができる「王」の権力が非常に強いことを推定させるものです。これらのことから考えてこの「吉備池廃寺」は「四天王寺」などと同時期の創建を想定すべきであり、「阿毎多利思北孤」の主導した事業ではなかったかと考えざるを得ないこととなりました。(このような高層の塔を作る技術が当時「百済」にしかなかったことが推定されており、その意味でも「百済」から技術者を招いたという『書紀』の記事の至近の年次で造られたとみるのが相当と思われます)
捕囚の身から解放され帰国した「薩夜麻」によって「六七〇年代」に「法隆寺」を「飛鳥」へ移築し、また「薬師寺」をも「移築」するという事業が行われた背景も、この「吉備池廃寺」を造った「倭国王」(「阿毎多利思北孤」か)への思慕がさせたことかも知れません。
(この項の作成日 2011/04/16、最終更新 2014/08/05)