前記したように『天武紀』には「寺名」を確定(改定)させる「詔」が出された事が記され、これにより「切り替り」があった事が推定されます。
「(天武)八年(六七九年)四月…
夏四月辛亥朔乙卯。詔曰。商量諸有食封寺所由。而可加加之。可除除之。是日。定諸寺名也。」
この記事は「定」という言葉が示すように「未定」あるいは「不確定」であって「通称」であったような寺名を「国家」として「命名」した事を示すものであり、この時点で、「寺院」が「国家」の管理に入ったことを示します。それはその直前に「寺封」記事があることでも分かります。「寺」に対して「国家」が「補助」を行うと言うことは、全ての「寺院」が「半ば国有化」されたようなことを示すと考えられ、その時点で「私寺」と「官寺」「勅願寺」などの「差」がなくなった事を示すのではないかと考えられます。
この時「元興寺」も「移築」され、「法隆寺」とその名前を変えて「奈良明日香」に建てられることとなったものと思われますが、それとほぼ時を同じくして、「薬師寺」についても「創建」されたもののようです。
ところで、「藤原京」の発掘成果によれば、「藤原京」が造られる以前にすでにこの地域には「街区」が形成されていたらしいことが判明しています。つまり、すでにある「街区」を発展拡大して「京」を形成しているのです。この「条坊」を生かす形で「藤原京域」が造られたものと推定されるものですが、その「条坊」と「薬師寺」は整合していることが確認されており、「藤原京」は「薬師寺」とその建築が同時であったかあるいは既にあった「薬師寺」をとり込むように条坊が施行されたかのいずれかと思われることとなります。ただし以下に示すように、薬師寺については「創建」であったかどうかは疑問です。
『天武紀』には「薬師寺」の創建の説話があります。それによれば「皇后」の病気平癒を祈願して創建されたと伝えられています。
「(天武)九年(六八〇年)…十一月壬申朔…癸未。皇后體不豫。則爲皇后誓願之。初興藥師寺。仍度一百僧。由是得安平。是日。赦罪。」
またこの「薬師寺」はその完成まで日数を要したものであり、「文武」の時代になってやっと完成したとされます。
(以下『続日本紀』の該当記事)
「(文武)元年(六九七年)秋七月癸亥。公卿百寮設開佛眼會於藥師寺。」
「(同)二年(六九八年)冬十月庚寅。以藥師寺構作畧了。詔衆僧令住其寺。」
上にあるように「六九八年」には僧が常住するようになったとみられています。
後でも述べますが、実際には『文武紀』(「文武」」年間及び「大宝年間」記事)に書かれた事は「七世紀半ば」の時代のことではなかったかと考えられ、この「薬師寺」に関する事も同様であったという可能性が高いと考えられます。
また「薬師寺」に関する事は『書紀』にも出てきますが、この『書紀』の記事にも「時差」があることが推定されています。
つまり、ここでも「三十四年遡上」の問題があると考えられます。これは実際には「三十五年」という移動年数が推測されますが、この時期の記事のかなりの割合が実際には「三十五年遡上」した「七世紀なかば」であることが推定され、この「藥師寺創建」記事においてもその可能性を考える必要があると言えます。そうであれば『書紀』からは「創建」として「六四四年」という年次、そして『続日本紀』からはその「完成」として「六五〇年」という年次が推定できることとなりますが、いずれも「利歌彌多仏利」とその「次代」の「倭国王」である「伊勢王」が関わっていることとなります。
そう考えると、「平城薬師寺」の「東塔」の「相輪」の支柱に刻まれた「?(木偏に察)銘」にも疑問が発生することとなるといえます。
(以下抜粋)
「維清原宮馭宇/天皇即位八年庚辰歳(六八〇年か)建子之月以/中宮不■(余の下に心)創此伽藍而鋪金未遂龍駕/謄仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業/照先皇之弘誓後帝之玄功道済(以下略)」
(以下読み下し)
「維れ、清原宮に馭宇(あめのしたしろしめす)天皇、即位八年、庚辰の歳の建子の月に、中宮の不余を以て、此の伽藍を創む。而るに鋪金未だ遂げざるに龍駕謄仙したまえり、太上天皇、前緒に遵い奉り、遂に斯業を成す。先皇の弘誓を照し、後帝の玄功を光やかし、道は群生を済い、(以下略)」
確かに、ここでは「庚辰」と書かれ、これを信憑するなら「六八〇年」以外なさそうですが、この「銘文」は書き直し、あるいは文章が脱落しているなどという指摘が為されており、原文通りではない可能性が高く、その意味では本来別の年次が書かれていたとも考えられます。そのような推定はそもそもこの「銘文」が「本薬師寺」の「東塔」の相輪に書かれていたものとは「異なる」という推定につながるものであり、そうであれば「干支」などについては「本薬師寺」に直接つながるものではない可能性が出てくることとなります。
たとえば、ここで使用されている「清原宮馭宇天皇」という称号は(後でも述べますが)『日本後紀』という史書に書かれた「藤原継縄」の「桓武天皇」への上表文の分析から、「利歌彌多仏利」ないしはその次代の「伊勢王」を指すとも考えられます。
従来の解釈では「清原宮馭宇天皇」というのが「天武」、「中宮」は「持統」、「太上天皇」も「持統」「先皇」は「天武」、「後帝」も「持統」と、ここには「天武」と「持統」しかいないように書かれています。しかし「持統」を指す敬称が三通りもあるなど、疑義の多い解釈でもあります。
そもそも『書紀』では「皇后」の病気回復を願ったものとされているのに対して、「銘文」では「中宮」となっているところが明らかに異なっています。
この文章からは「中宮」のための創建でありながら、本人が倒れた後「その意志を継いで」「太上天皇」が建設を進めたと理解できますが、それははなはだ「奇妙」な話ではないでしょうか。
どの寺院の建立においても「本願」があり、創建の動機というものがあります。この「薬師寺」の場合「中宮不■(余の下に心)」という事態が発生したためにその「延命」のためという「本願」であったものですが、「天皇自身」が倒れたとすると、本来「別の本願」が建てられ、別の寺院が建立されなければならなくなると思われます。「中宮」は回復したのにも関わらず、その「中宮」自身が「天皇の意志」だとして建設を続けるというのは理解しがたいものがあります。そもそも「正木氏」の研究によっても「寺院」を創建するなどの契機となった「天皇」などの発病はそのまま死に至るケースばかりであり、「治癒」「回復」したという事例がありません。そう考えれば「創此伽藍而鋪金未遂龍駕/謄仙」という文章の流れは「伽藍」を創り始めたものの、それが完成しないうちに「間に合わず」「謄仙」するという意味と捉えられ、それは「謄仙」した人物のために造り始めたと理解して始めて整合する内容と言えるものと思われます。
これは明らかに「中宮のため」という動機が書かれた部分が本来のものと異なっているという可能性が強く、これがもし「天皇」のためであれば、その「天皇」の死後も建設が続くというのは、「延命」が「鎮魂」へと変わった訳であり、それは「法隆寺」の釈迦三尊像などが典型的ですが、前例のあることでもあります。
この「刷銘」には後代の手が入っているのは間違いないと思われますが、この「中宮」という表記がその中心的部分ではないかと考えられます。
ここで想定したように「薬師寺」の創建を「六四〇年代」とすると、まだ「難波副都」ができていない段階であり、また「筑紫都城」の拡幅整備も始まっていません。つまり、旧都城の時代に「藥師寺」は作られていたこととなり、その場合は「都城内」には適当な場所がなかったはずであり(都城がさほど広くないため)、「外部」に造られていたものと推測できます。つまり「筑紫都城」は当初はまだ「領域」がさほど広くはなかったものであり、後期拡幅された「大宰府都城」の「右京」分の領域しかなかったと考えられます。つまり「薬師寺」は「左郭」とされる領域に造られたとみるべきこととなり、それを取り込むように「都城領域」が拡大されたと考えられるわけです。(「元興寺」と「対称的位置」に入るように設計されたものか)
「元興寺」や「薬師寺」については「移築」という事業が行われたと見たわけですが、そのようなことが行われることとなった最大の理由は「遷都」にあると思われます。
「都城」を形成する重要な要素である「寺院」(特に勅願寺)は「遷都」した際には、以前と同様に「都城」の内部「宮域」の至近に必要だったものであり、宮城が建築されると共に従来の場所からの移動が必要となったものと思われます。またその際にはその他の多くの寺院も移築されたものと見られますが、さらにその「移築」の必要性が必要となった理由として「六七八年」に「筑紫」を襲った大地震があると思われます。この地震により「筑紫都城」の中の地盤が不安定であることが危惧されたため、移築する強い動機となった可能性があるでしょう。(遷都そのものの理由ともなった可能性があります)
ところで「元興寺」を再建しようというのは「阿毎多利思北孤」に対する「信仰」の現れでもあると考えられ、この時点以降「法隆寺」形式の寺院が畿内の各所で建設されるようになる「契機」となったと考えられますが、「薬師寺」についても同様の意義があったと見ることができると思われます。つまり、「天王寺施薬院」などの存在を意識して「薬師寺」と「薬師如来」が作られたという可能性が考えられ、「利歌彌多仏利」の「延命」を願うと同時に、その父である「阿毎多利思北孤」やその母「鬼前太后」、「阿毎多利思北孤」の「夫人」である「干食王后」などに対する深い敬意を表すために「創建」されたものと考えられます。そして、それは「藤原遷都」という事態に当たって、やはり彼らのために「近畿」(奈良)に「移築」される事となったものと思われるわけです。
また「下野薬師寺」も同時期に創建されたという記録が確認されています。
「下野国言、薬師寺者天武天皇所建立地也…」『続日本後紀』(嘉祥元年11月己未条)
他にも同様の記録があり、「奈良」の薬師寺と共に「下野」の地にも「薬師寺」が作られたと見られますが、それに関しては「東山道」全面的整備の進捗という「インフラ」の整備が大きいと見るべきでしょう。
この時の王権にとって、「阿毎多利思北孤」と「太后」「王后」などの存在が、現在の「権威」の根源であることを「東国」に対して示すために建設されたと考えられるものです。
(この項の作成日 2011/04/16、最終更新 2018/01/03)