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「藤原副都」遷都と『新唐書』


 『新唐書』には以下のような記述があります。

「…其子天豐財立。死,子天智立。明年,使者與蝦? 人偕朝。蝦?亦居海島中,其使者鬚長四尺許,珥箭於首,令人戴瓠立數十歩,射無不中。天智死,子天武立。死,子總持立。咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以為名。或云日本乃小國,為倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。又妄夸其國都方數千里,南、西盡海,東、北限大山,其外即毛人云。
 長安元年〔二〕,其王文武立,改元曰太寶,遣朝臣真人粟田貢方物。…」

 この『新唐書』は「歴代」の倭国王を列挙しながら、随時その時点(治世)付近で入手したと推察される「情報」を適宜挿入する形で記事が構成されています。そのようなことを踏まえると上の記事から以下のことが推察されます。

 そこでは「後」という表現がされており、それがいつかは明確ではないものの、「粟田真人」の遣唐使以前に別の遣唐使が派遣されているらしいこと。その時点で「倭国」から「日本国」への国名変更を説明していること。つまり「国名変更」は「持統」段階であるらしいことがわかります。
 この「日本国」への国号変更というものについては、一般には「八世紀」に入ってからの「粟田真人」の「遣唐使」が伝えたものという理解が大勢となっていますが、しかし、上の記事はそのような理解とかなり乖離するものではないかと思われます。それはおなじ「唐」のことを記した『旧唐書』においても同様であり、そこでも時系列に沿って記事が構成されているのは一目瞭然であり、それによれば「国名変更」についての情報は(以下のように)「貞観二十二年」記事と「長安三年」記事」の間に書かれていることに注意すべきです。
 これは『新唐書』と同様に、『旧唐書』においても「貞観二十二年」以降「長安三年」までの間に入手した情報がそこに書かれていると理解するべきではないでしょうか。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年、又附新羅奉表、以通往起居。
 日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東酉南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外即毛人之國。
 長安三年、其大臣朝臣眞人來貢方物。…」

 これは上に見た『新唐書』の「咸亨元年,遣使賀平高麗。」に続く文として「後」という表現になっていることと矛盾しない内容となっています。「倭国」についての記述が「貞観二十二年」(六四八年)が最後であるというのははなはだ「示唆的」であり、「倭国」から「日本国」への交替が「この年次」からほど近いものであったことを示していると思われます。そのことは『新唐書』の記述とも矛盾しないものです。

 また、「咸亨元年」の「倭国」からの「遣使」の際に「国号変更」が伝えられたという史料もあるようです。

「…東夷。
…倭國。在百濟新羅東南。水陸三千里。依山島而居。漢魏譯通中國者三十餘國。皆稱王。大倭王居邪摩堆。其地在會稽東。俗皆文身。自云太伯之後。自倭國東千里名拘奴國。南四千里名朱儒國。人長三四尺。自朱儒東南行船一年。至裸國K齒國。倭國始於百濟求得佛經。隋大業十三年遣使朝貢。兼沙門數十人來學佛法。
流求國居海島。當建安郡東。水行五日而至。煬帝遣陳稜至其國。虜男女載軍實而還。
蝦夷。唐太宗時倭國遣使。偕蝦?人來朝。高宗平高麗。倭國遣使來賀。始改日本。言其國在東近日所出也。…」(「大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三五 佛祖統紀五十四卷/卷三十二/世界名體志第十五之二/東土震旦地里圖 」より)

 上に挙げたものはいずれも『書紀』とは大幅に矛盾する内容ですが、『書紀』の記述には大きな疑問が呈されていますから、一概にこの『新唐書』の記載が「虚偽」である、あるいは「事実誤認」であるとは即断できないこととなります。
 このことは「国名」の変更というものが「大宝元年」の「粟田真人」が伝えたものではなく、それ以前に派遣された「遣唐使」により伝えられたものであること、その時点における「遣唐使」の挙動が中国側から見て「不信感」を与えるものであったという可能性を考慮する必要があるということではないでしょうか。
 そう考えると『三国史記』に「六七〇年」の「国号変更」を伝える記事があること、「百済禰軍墓誌」に「日本」とあり、これは「遅くとも」彼の「墓誌」が書かれたと思われる「儀鳳三年」(六七八年)の段階における呼称とも考えられるわけですから、国号変更の情報は少なくともそれ以前に「唐」に伝わっていたこととなるでしょう。

『三国史記』
「文武王十年(六七〇年)十二月 土星入月 京都地震 中侍智鏡退 倭國更號『日本』自言近日所出以爲名…」

「百済禰軍墓誌」
「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金?子之入漢(二文字空け)聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛?川府折沖都尉。于時『日夲』餘? 拠扶桑以逋誅 風谷遺? 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原?而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」

「…以儀鳳三年歳在戊寅二月朔戊子十九日景午遘疾,薨于雍州長安県之延寿里第。春秋六十有六…」
「…以其年十月甲申朔二日乙酉葬■擁州乾封県之高陽里礼也…」

 そうであれば『三国史記』などが云うように「六七〇年」付近の国号変更というのは想定の範囲にあるといえます。つまり、「六六九年」の遣唐使以降「六七〇年代」のどこかで国号変更を説明するために「遣唐使」が派遣されたことが推察されます。
 そう考えると、たとえば「藤原副都」への遷都の時期などがそうであったという可能性が考えられます。
 この時点で「遣唐使」が派遣されたとすると、この「藤原」遷都というものが、「筑紫」から「近畿」へと言う「日の出る方向」への遷都ですから、「倭国」からの使者の言葉として記載されている国号変更理由と大筋で合致します。こう考えた場合、「近江遷都」ではなく「藤原遷都」であったということとなるわけですが、その可能性はかなりあると思われます。
 現在の研究では「藤原京下層条坊」遺跡には「二期」存在することが確認されており、「前期」のものは「天武朝初年」つまり「六七二年付近」まで遡上するという見解も出ているようです。そのことは上の「国号変更」の時期と近接することとなることを意味しますから、「遷都」と「国号変更」の間に関連があることとなるでしょう。
 
 この国号変更時点、つまり「藤原副都遷都時点」で「国号変更」が行われたと見たわけですが、後でも述べるようにここで「禅譲」による「権力」の移動が起こった可能性があり、それが以下に見る「赤烏記事」に象徴されているという可能性もあるでしょう。

 「(天武)六年(六七七年)十一月己未朔。雨不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人賜祿各有差。且專捕赤鳥者。賜爵五級。乃當郡々司等加増爵位。因給復郡内百姓以一年之。是日。大赦天下。
己卯。新甞。
乙酉。侍奉新甞神官及國司等。賜祿。」

 上の記事では「筑紫」から「赤烏」が献上されたとされていますが、この献上されたという「赤烏」は、「太陽の中には三本足の烏(カラス)がいる」という中国の伝説によって「太陽」を意味する言葉でもありますが、ここでは「鏡」のことではないかと考えられます。
 「鏡」が「太陽神信仰」において、「太陽」の象徴として考えられ、使用されているのは周知と思われるところですが、ここでも同様に「太陽」(赤烏)が「鏡」を意味するものと考えられ、「赤烏」が献上されたということは、即座に「三種の神器」のひとつである「鏡」が「奉られた」と言うことを意味すると考えられます。しかもそれは「筑紫」から「奉られた」とされているところから考えて、これは「副都」「藤原京」の完成に関係している思われます。さらにいえばこれは実際には「朱鳥改元」の事実の反映であると思われます。
 
 既に述べたように「副都」への「遷都」というものが「皇帝(天子)の権力の象徴」として「朝庭」の「分与」的意味があると考えると、ここで「藤原副都」が「首都」と同等あるいはそれに次ぐ「正統」な権力関係に至ったことを示していると推量されるものです。
 こうして、「藤原京」が「副都」として「認証」されたこととなったと考えられますが、その時点付近で「反乱」(革命)が起き、近畿武装勢力が東国の支援を承け、「藤原副都」を占領したものと考えられます。
 つまり、ここで始めて「近畿王権」主体による「日本国」が成立したと思われます。こう考えると、この時点で派遣された「遣唐使」が新しく「新王朝」創建の気概に溢れているであろうことや、中国側から見て「使者不以情,故疑焉。」とか「又妄夸其國都方數千里,南西盡海,東北限大山,其外即毛人云。」(いずれも「新唐書倭国伝」)というような記事が存在することも「新興国」としての「向意気」を示すものとして「納得できる」ものではないでしょうか。

 また、「飛鳥京遺跡」や「石神遺跡」などから「六七七年以降」急に「干支」が書かれた「荷札木簡」が増えることが確認されています。
 それまでは非常に少なかったものが「六七七年」以降突然増加するわけです。しかし、「藤原京遺跡」からはほぼ出ないことが確認されています。「藤原京」という「副都」に集積・配送されたはずの木簡が「飛鳥京遺跡」から出るのは不審と言えそうですが、それは「近畿王権」が「飛鳥離宮」を占拠していたからではないかと考えられ、「仮の官衙」として「飛鳥京」周辺の建物が利用されていたと言うことが考えられます。
 
 「法隆寺」に使用されている「部材」の年輪年代測定の結果からは「六七〇年代後半」付近で「金堂」が建てられたことを示唆するものであり、これは元々「元興寺」であったものが「奈良明日香」へ移築され、「寺名変更」の詔により「法隆寺」となったと考えられますが、このタイミングは「藤原副都遷都」及びそれに引き続く「革命」の発生と深く関連していると考えられ、「薬師寺」の移築などもほぼ同時であると思われます。


(この項の作成日 2013/05/11、この項の最終更新 2014/06/13)