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瓦編年について


 いわゆる「瓦編年」では@「大宰府政庁に使用されている瓦(「老司U式」と「鴻廬館式」)については「『藤原京式』瓦に後出する」とされます。Aまた「観世音寺創建瓦」である「老司T式」は「老司U式」や「鴻廬館式」に対して「十〜十五年『早期』と見られる」と考えられているようであり、B更にこれらは「薬師寺創建瓦」に対しては「かなり後出する」とされているようです。しかもこれらは「同じ形式」に部類されるものであり、相互に深い関係があるとされています。
 つまり「薬師寺」−「藤原京」−「観世音寺」−「大宰府政庁」という時系列が従来想定されているわけであり、それぞれ「『書紀』との同定から」判断して「薬師寺」が「六八〇年頃」、「藤原宮」が「六九五年」ごろとされていますから、「観世音寺」は八世紀に入ってすぐの頃、大宰府はそれからやや遅れた「七一〇年代」という推定がされることとなるわけです。

 例えば森郁夫氏の想定によると(※)「老司式軒平瓦は、偏行唐草文の特徴から本薬師寺式ではなく藤原宮式の系統に属す」と見て、「老司式の制作年代が本薬師寺に先行ないし並行することはありえ」ないとされ、「藤原宮造営時に偏行唐草文が採用された後に老司式が製作された」と結論づけています。
 この想定は言い換えると「本薬師寺」が最初にできた後、「老司式」と「藤原宮式」瓦が続けてできた事を示唆するものでもあります。
 しかし、「老司U式」や「鴻廬館式」は「筑紫宮殿」が「再整備」され「礎石造り」となった際に使用された瓦であり、「筑紫」を大地震が襲った直後から宮殿整備が行われ「六八〇年代半ば」には完成したと考えられることから、「瓦」についても同様の時期が想定できます。
 またこれ以前(推定では六七〇年頃)に「観世音寺」が創建され、「老司T式」という「瓦」で屋根が葺かれる事となったと考えられますから、上の「森想定」は既に破綻しているといえるでしょう。
 ただし、観世音寺の瓦について言うと「老司一式」瓦には更に大きく二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。それは「創建」の年次と「進捗」を促す「元明」の詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。つまり「老司一式」により屋根が葺かれている「観世音寺」は「薬師寺」に続いて創建されたと考えられ、その後「藤原宮」と「太宰府政庁」に「藤原宮式」と「鴻臚館式」という異なるタイプの瓦が葺かれ、さらにその後停止していた「観世音寺」の造営が再度始められ「老司二式」の瓦が乗せられるということとなったという推移が想定できます。このことは「本薬師寺」の創建の年次の想定に関わってくるものです。

 「薬師寺」の創建年代に関しては、「藤原京」の「下層条坊」よりも「薬師寺」が建てられたのが遅れるのは確かとなっていますが、この事からすぐには「薬師寺」の「創建年代」については云云できません。それは「薬師寺」についても「移築」の可能性があると考えられるからです。
 そもそも「薬師寺」の創建に関わる事象として「皇后の病気」が挙げられていますが、正木氏の研究によっても「寺院」を創建するなどの契機となった「天皇」などの発病はそのまま死に至るケースばかりであり、「治癒」「回復」したという事例がありません。その意味では「薬師寺」の創建説話は不審といえるでしょう。

 また、通常「塔」は「卒塔婆」の表象とされ、「釈迦」の「墓」そのものを示すとされますから、「東西」二塔あるのはその意味からは「不自然」であることとなります。
 このような「卒塔婆」の表象といえる「塔」が二つあるというのは「釈迦」に擬されるほどの人物が二人いたと云うことの反映といえ、この二つの塔の存在は、「法隆寺」の光背銘から「釈迦」に擬されたと思われる「上宮法皇」とその「太子」ではないかと考えられます。それは各々「阿毎多利思北孤」とその太子「利歌彌多仏利」を意味するものと思われますから、この二人に対する「畏敬」の念を表すとすると理解できるのではないでしょうか。
 そうであれば「本薬師寺」の創建は彼らの活動時期とそれほど違わないという推定が可能と思われ、「九州年号」の中の「命長」という年号の存在、そして、その年号が使用されている「善光寺文書」の「書状」の中で「延命」を願うかのような文章の存在などを考えると、「六四〇年代」に「厩戸勝鬘」(彼は女性であり、「利歌彌多仏利」の皇后であったと推定されます)が「利歌彌多仏利」に対する「延命」を祈願して創建されたと考えるべきものと思われます。つまり、「本薬師寺」は「法隆寺」などと同様「移築」であったという可能性が高いと思料するものです。
 この推測は正木裕氏による「三十四年遡上」研究と重なるものといえますが(実際には三十五年と思われる)、「六八〇年」に記されている「薬師寺」創建と「皇后不豫」記事は「三十五年遡上」して「六四五年」の事となりますが、それは上の想定と整合するといえるでしょう。
 確かにこの年次の創建であれば「大宰府」「藤原京」等の瓦に対して「かなり早期」の瓦という考えも当然のこととなります。

 また「藤原宮」の瓦については既に考察したように「藤原京下層条坊」の存在に注意すべきです。
 この「下層条坊」は「第一次藤原京」ともいうべきものであり、それは「日本国」の都として作られたものと思われますが、その時点では「瓦葺き」ではなかったと思われます。この時期の「日本」の伝統的「宮域」の建築様式はまだ「板葺き」であったものと思われ、またこの時点ではまだ「筑紫都城」(太宰府)も整備が進んでいなかったと思われますが、「六七八年」に筑紫を襲った「大地震」により「筑紫都城」は相当程度破壊されたのではないかと考えられ、整備が必要となったものと推量します。現実に遺跡を調査すると「断層」や「液状化」の跡が明瞭に残っており、建物への影響はかなり深刻なものがあったと考えられます。そのため「整備」が行われることとなった段階で「瓦葺き」建物へと形式が発展したものではないでしょうか。そう考えた場合「第二次藤原京」と「筑紫都城」とがほぼ同時期に整備されていたこととなりますが、それは共に「礎石建物」で「瓦葺き」という共通な形式を採用しているのも当然であることを意味するものです。ただし、「瓦」の形式は「藤原宮式」と「鴻臚館式」とで異なるわけですが、「本宮」と「別宮」とで「瓦」の種類を変えていたという可能性があると思われ、用途と重要度で別形式の瓦を使用するという配慮があったものと考えられるでしょう。

 この「第二次藤原京」とでも言うべき時期は「六八〇年代半ば」と思われます。従来の「瓦編年」で言うと「老司式」などは「藤原宮」の瓦より「遅れる」とされていましたが、近年「老司式」瓦をもっと遡らせる研究が増えてきたようです。この「藤原宮」瓦と「老司式」瓦では、「通説」では「藤原宮」から「大宰府政庁」へという流れでしか論じられていませんでしたが、最近の研究では「老司T式」「U式」とも「藤原宮」に先行するものという考え方も出てきており、少なくとも「藤原宮」と「大宰府政庁」がほぼ同時に造られたとする「研究」も現れてきています。
 この考え方は「瓦」の製造技法の変遷とも関係していると思われます。

 「瓦」は「粘土」を整形して焼成し作るわけですが、その「整形」の技法には「紐巻付け技法」と「板付け技法」があるとされ、端的に言って「単弁瓦」に対して「板付け技法」、「複弁瓦」に対して「紐巻付け技法」が適用されていると思われ、さらにそれは別の言い方をすると「南朝」形式と「北朝」形式とに分類できます。
 「北魏」の「洛陽城」遺跡から発見された「瓦」はその多くが「複弁蓮華文瓦」であり、また「粘土板紐巻付け技法」であるとされています。それに対し「単弁蓮華文瓦」は「百済」から伝来したものですが、本来は「南朝」の形式であり、「板付け技法」で作られていると考えられています。
 「列島」における「瓦」が「単弁瓦」が先行し「複弁瓦」が遅れて登場すると言うことと、「百済」からの仏教と寺院の建設が先行すること、さらに「遣隋使」が送られることにより「北朝」からの仏教と寺院建築及びそれに付随する瓦技法が伝来するというのは事実としての歴史的な流れであり、これに沿って考える必要があります。
 そう考えると、「複弁蓮華文瓦」の登場は即座に「紐付け技法」の登場となるわけですが、上に見たようにまず「本薬師寺」に「複弁蓮華紋瓦」が現れ、その後「観世音寺」「藤原宮」「太宰府政庁」と連なるというわけですが、これらの研究には「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」が脱落しています。
 「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」はその特徴が独特であり、他に類がないものです。そのため「法隆寺式」と呼称されています。また「同笵瓦」(同じ鋳型から造られたもの)も確認されておらず、「同型瓦」しかなく、それは「西日本」に偏って分布しているのです。
 
 既に述べたように「法隆寺」は「元々」「元興寺」であったものであり、それは「隋」から直輸入とでも云うべき形で伝来し創建されたものと見られます。
 この「元興寺」の創建は倭国王の勅願寺であったと同時に「隋皇帝」からの直々の下賜によるものではなかったかと考えられ、そのためその「笵」は他の寺院には提供されず、「元興寺」だけで使用されたものと見られます。(七弦琴などと同様の現象に思われます)他の寺院では「同型」のものを「模して」作るしかなかったものと推量されます。
 その後「元興寺」に使用された形式と建設技法が「倭国王権」と関係の深い地域に広がったものであり、それは地域で云うと「近畿」(特に「飛鳥」)と「筑紫」「肥後」という場所であり、そこで「紐付け技法」とそれを駆使した「複弁蓮華紋瓦」が製造されることとなったものと見られます。
 またその分布は「隋」の文化が「どこに」もたらされたのか、「遣隋使」はどこから発せられたのかを如実に示しているといえるでしょう。
 「遣隋使」が「近畿」から派遣されたなら「筑紫」はともかく「肥後」にそれが現れる理由が全く不明となるでしょう。逆に言うと「遣隋使」は「筑紫」ないしは「肥後」から派遣されたと考えると整合すると言えます。そう考えれば「老司式」と「鴻廬館式」が「藤原宮式」に先行すると考えて当然と言えるでしょう。

 既に指摘したように従来の「瓦」編年については「近畿」の寺院が「基準」となっていることは現在多くの「瓦」研究者の(あるいは多くの考古学者の)念頭に染みついてしまっているものです。
 しかし、「藤原京」の宮域下層から「溝」が発見され、そこからは「藤原古段階」という「奈良盆地外」(淡路産)の瓦窯で製造された瓦が発見されています。この「藤原京古段階」の瓦はもっぱら「回廊」などに葺かれたとされていますが、その回廊の完成は「七〇二年」以降ではなかったかと推定されており、「観世音寺」の工事進捗を促す「元明の詔」が出された年次との関係が指摘されています。それはこの「回廊」に使用された瓦と「観世音寺」の瓦(老司T式)の「後期タイプ」とは同一様式(兄弟関係)とする見解も現れてきていることからもいえることです。

 「観世音寺」はその創建について「六六〇年代後半」を推定させる史料が複数確認されているものの、その直後「薩夜麻」が帰国した時点で、建設が止められたものと思われます。つまり、この段階では全体完成にはほど遠かったと見られ、「金堂」等の全ての建物に「瓦」を載せるまで工事が進捗していなかった可能性が高いと思われます。そして、そのまま長期間に亘り工事が中断あるいは放棄されていたと見られるものです。それが「七世紀末」から「八世紀」にかけ、工事が再開されたものであり、そう考えると「藤原京回廊」と「観世音寺」の工事再開がほぼ同時であるのは不自然ではありません。
 しかし、上に述べたように「老司」式瓦は「筑紫」の瓦窯で焼かれたものであり、それが「筑紫」の技術に拠っているのは当然です。この技術が遅れて「近畿」あるいはその周辺の地域の瓦窯に伝わり、それが「藤原宮」に使用される事となったと考えるべきでしょう。

 また「観世音寺」の工事再開に伴って使用された瓦である「老司T式『後期』型」は「老司U式」の影響から造られたとする主張もあり、そうであれば「観世音寺」の工事再開の前に「大宰府政庁U期」が造られたこととなります。その場合「必然的に」「藤原宮大極殿」の完成以前に「大宰府政庁」はできていたこととならざるを得ません。
 従来の考え方でも「老司T式」と「老司U式」の間は「十〜十五年」程度の時間差が考えられており、そのことから「太宰府政庁」が瓦葺きとなったのは「六八〇〜六九〇年」付近と推定されます。(有力な年次としては「六八五年前後」でしょうか)
 「地域」を異にすることによる「時間差」を考慮すると、「藤原宮大極殿」のかなり以前に「大宰府政庁第U期」が造られたことを想定するべき事となり、「六八〇年代」であるとしても不自然ではなくなります。つまり、一部で言われ始めているように「藤原宮式」瓦に「先行」して「老司U式」や「鴻廬館式」瓦が製造された可能性があるのです。

 ところで「本薬師寺」の瓦の中には「藤原京古段階」の「瓦」の「笵」を利用しているものがある事が判明しています。つまり、「薬師寺」の完成以前に「藤原京古瓦」が焼かれていることが推定できます。「本薬師寺」の完成については「門前」の「幡」を挿すための「木枠」の年代測定が行われ「六八八年」という結果が出されています。
 つまり、明らかにこの「瓦」はそれ以前には焼かれ、屋根の上に乗せられたものであり、それと「藤原京古瓦」とがほぼ同一時期であることが推定されるものであり、これは「第二次藤原京」の完成時期に大きなヒントを与えるものであると考えられます。
(この年代推定は先に述べた「移築」と若干矛盾するかのようですが、そう即断はできません。なぜなら「移築」では「全ての部材」が運ばれる訳ではなく、破損などで新材に取り替えられる例がかなり多いからです。この場合、「幡」を指すための「木枠」は下方が地中にあったものであり、「腐食」などで再利用できなかったという可能性は高いと思われます。)


(この項の作成日 2012/10/08、最終更新 2014/10/25)