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藤原京とその「下層条坊」について


 「藤原京」の発掘により、その下層から「街区」が発見され、既にそこに「条坊」が形成されていたことが明らかになっています。つまり、「藤原京」の「条坊」が形成される「以前」に「別」の「条坊」(街区)があったものであり、「藤原京」はその「条坊」やそれに伴う「溝」などを破壊し、埋め戻して造られていることが明らかとなっているのです。
 この「下層条坊」と同じレベルからは「藤原京」を南北に貫く大溝が確認されており、そこからは「壬午年」(これは「六八二年」と推定されています)という干支が書かれた木簡が出土しています。
 これらのことから「藤原京」の当初建設時期というものもかなり前倒しで考えるほかないこととなるでしょう。(さらに、下層条坊にも「二期」存在することが近年確認され、「前期」のものは「天武朝初年」つまり「六七二年付近」まで遡上するという見解も出ているようです)
 これら「下層条坊」については、余り大きな問題と捉えていない向きも多いようであり、「飛鳥京」の拡大領域とするものや、官人達の住居としての領域というような捉え方以上のものではないようですが、「条坊」というものが「京師」つまり「キ」と不可分のものであるとされていることを考えると、「藤原京」が造られる以前に既にここに「京」(京師)があったという帰結にならざるを得ないのではないでしょうか。
 つまり「第一次藤原京」と言えるものが先行して存在し、その後それを破棄して「第二次藤原京」が形成されたと考えることができると思われるのです。そう考えた場合は今度は「藤原京」の完成時期とのズレが問題となるでしょう。
 つまり、「藤原京」は『書紀』によると「六九五年」に完成したとされ、又『二中歴』ではこの「六九五年」を「大化」改元の年としており、それは「宮殿」の完成を意味するものという捉え方が多元史論者の間に多くあるようです。しかし、遺跡から発掘されたいくつかの事実は、それらとは整合していないと考えられるものが確認されています。

 「藤原京」完成時期に関する疑問のひとつは「遺跡」から発見された「木簡」の解読からです。それによれば「七〇〇年」を越える時期の木簡が「回廊」(「築地塀」)の基礎部分から発見されており、この事は「回廊」の完成がそれを下る時期になると言う事を示すものですが、それと「見合う」と思われるのが『続日本紀』の記事です。その「七〇四年」の記事によれば「宮域」とされた場所には多数の「烟」(戸)があったことが記されています。

「慶雲元年(七〇四年)十一月…壬寅。始定藤原宮地。宅入宮中百姓一千五百烟賜布有差。」

 この記事は、この地域、場所においてそれまで全く「宮域」の選定と工事が行われていなかったことを示すものであり、「七〇四年」という段階で「やっと」「宮地」が定められ、そのためにそこに居住していた人々を立ち退かせたことが記されているのです。このことは『書紀』に示す「藤原京」建設に関する工程の「信憑性」を疑わせるのに十分であると思われます。

 また上の記事と関係していると考えられるのが「宮域」の外部(左京七条一坊付近)から「中務省」に関連する木簡が大量に出土していることです。この付近に「中務省」が存在していたことを想定させますが、「中務省」の本来の職務が天皇に直結するものであり、天皇の言葉を詔書や詔勅の原案となる文書として作成するというのが本職の役所であることを考えると、宮域内にその仕事場がないとすると「不審」極まるものです。しかもそれらは「大宝二年」(七〇二年)付近のものばかりなのです。このことはこの「大宝二年」という段階ではまだ宮域(宮殿)が整備されていなかった事を推定させるものであり、上の『続日本紀』の記事を裏付けるようです。

 同様に「不審」と考えられるのが「瓦」の製造時期とその「瓦窯」の存在していた場所です。
 「藤原京」に使用されている「瓦」についてはその分類などの研究が行われていますが、それによれば「初期」の段階では「奈良盆地外」に「瓦窯」があり(香川県など)、ある程度長距離を運搬していたものが、途中から「瓦窯」が近い場所である「奈良盆地内」に造られるようになり、そこから大量に製造されるようになっていったものとされています。しかし、常識的に考えて、「瓦」は「重量物」ですから、長距離運搬は本来避けるべきものと思われ、「初期」の段階で「藤原京」の近く(奈良盆地内)に瓦窯を造らなかった意味が不明です。
 また其の「笵」(型)についても当初は各瓦窯で別々の「笵」であったものが「奈良盆地内」に展開された各瓦窯では「同笵」となると云う特徴があるとされます。このように「瓦」に関してはその時期と製造体制が大きく「二期」に分かれると考えられています。
 また「奈良盆地外」で製造された「初期」のタイプの瓦はもっぱら「回廊」に葺かれたと見られるのに対して、「奈良盆地内」の瓦窯で造られた瓦は「大極殿」など主要建物に葺かれたと見られています。つまり「回廊」が先に完成し、その後「宮殿本体」が建てられたと見られるのです。
 上で見たように、「藤原京」の建設開始時期が実はかなり早かったとなると、上に挙げた事実は「矛盾」すると言えるでしょう。

 そもそもこの時点では一般的には「首都」は「奈良」の「飛鳥浄御原」であるとされているわけですが、ご存じのようにここには「条坊」が敷設されてはいませんでした。「キ」にもない「条坊」が、「キ」以外の場所にあったと考えることなどできないはずですが、これに関しては「飛鳥」を「京」と見なし、「藤原京域」がその「京」の一部であったとする、いわば「詭弁」ともいえる理解が横行しているようです。しかし、それは「京」「京師」という用語の「原則」に反するものであり、「そうとでも考えないと説明が付かない」と言うべき「次元」の低い議論であると考えられます。事実に率直に向き合うと、上に見たようにこの場所に「条坊」が存在していると言うことは、「飛鳥(明日香)」が「京師」でもなく「キ」でもないことの事実の裏返しであることは明白であると思われます。
 またこの「街区」については「諸資料」に何も書かれておらず、もしこれを「明日香京」なるものの「外延」とするならば、「首都」の拡張という重要事項について史書が何も触れていないこととなり、それははなはだ不審となるでしょう。

 それではこの「下層条坊」が示す「第一次藤原京」の整備というものはどのような性格のものであったと考えるべきでしょうか。
 上に述べたようにそれは「京師」そのものであり、そのことから「倭国王権」による「難波」に続く「副都整備」であったと考えるのがいちばん妥当な考え方といえるでしょう。それはこの「藤原京」という「条坊」の基準となるものが「中ッ道」などの「古代官道」であったことからも分かります。「古代官道」はその構造やその造られた範囲と言うところからも「統一権力者」の手になるものであるのは明らかであり、その「古代官道」を基準線として造られている「藤原京」が「倭国王権」の直轄事業であったと考えるのは不自然ではありません。
 『書紀』の『天武紀』に「複都制」の「詔」が書かれていますが、そこには「…又詔曰 凡都城宮室非一處。必造兩參。故先欲都難波。是以百寮者。各徃之、請家地。」とあります。つまり、これによれば「副都」は「両参」つまり「二ないし三個所」造る予定であったものであり、その最初が「難波」だといっているのです。そのことから、「難波」以外にも副都が計画されていたとしても全く不思議ではなく「難波」の次は「明日香真神原」であったという可能性は大であったと言えます。その意味で「難波京」と接近した年次に「第一次藤原京」が造られたとするのは有りうる話といえるでしょう。

 また「飛鳥」の周辺地域に存在していた「有力氏族」の「邸宅」等と見られる建物群の廃絶時期について重要な指摘がされています。これらは、「平城京」が完成する時点まで継続しているように見られ、「藤原京」の完成時期と考えられている「七世紀末」という時点を過ぎて継続していることが確認されています。
 つまり「藤原京」では「京域」内への「宅地移転」などが行われなかったと見られ、従来これらのことについては「不審」とされ、「京師」の形式が確立する段階ではなかったのではないかという推測がされることがありました。しかし、「難波宮」の火災記事を見ても「宮域」の至近に「官人」の居宅があったものであり、そこからの出火が飛び火して延焼したらしいことが書かれていますし、同じ「難波宮」において「鐘」が時刻を表すものとして鳴らされ、それに応じて「朝庭」への出仕が行われたとされていることを考えると、そのような鐘の音が聞こえる範囲に「官人」の居宅がなければならないことは明らかであり、その様な事と「藤原京」の状態は整合していないことは明らかです。このことは「藤原京」が本当に統治の中心地として機能していたのが問われるものです。
 またこの「藤原京」については「宮域」が「条坊」から「独立」している事が指摘されています。そこでは「宮域」の外部に「濠」が築かれ、またその内側にはかなりの「閑地」が「スペース」として確保されています。 
 これらのことはこの「藤原京」が「倭国王権」の「副都」であり、「行政」のための「キ」(京師)であったと考えると理解しやすいと思われます。つまり「京域」内には「倭国」からいわば「出向」の形できていた「官人」が(だけが)居住していたものであり、行政執行に必要最低限の人間が居住していたと考えられます。そう考えれば、「宮殿」のスペースが周囲から独立しているように見えるのも理解しやすいといえるでしょう。それは「倭国王権」の出先としての「副宮殿」ですから、周囲の住民や「有力氏族」達と「一線」を画するのは当然ともいえるものです。(これは「外国」に設けられた現在の「大使館」によく似ているといえるでしょう。そこでは「治外法権」つまり当地の法の枠の外にあるものであり、一種超越しています。また周囲に居住している住民は当然「大使館」とは関係のない人々ですから、彼等が敷地内に引っ越ししてくるようなことも無いというわけです。)


(この項の作成日 2012/12/12、この項の最終更新 2019/10/19)