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「下層条坊」の性格と「筑紫都城」との関係


 この「第一次藤原京」の整備時期としては本来かなり早い時期からスタートする予定であったと思われますが、「半島情勢」など「不確定要素」がかなりあったため、延び延びとなっていたという可能性もあります。
 少なくとも「六七〇年代前半」から始められたものと考えられ、「タイミング」としては「唐」「新羅」との戦いで捕囚生活を送っていた「薩夜麻」帰国後のことと考えるのが自然です。そして、それはやはり「唐」の軍事力を強く警戒した結果の「副都」整備事業であったと考えられるものです。

 「薩夜麻」は「唐」(「熊津都督府」至近の地か)に「捕囚」となっていたものと考えられ、「唐」軍の脅威を肌にしみて感じていたものです。それは解放された後も強く抱いていたものであり、帰国後早速「難波」に続く「副都」を建設することとしたと考えられます。
 その「唐」の脅威というものは一部現実のものとなり、「六七〇年代半ば」には「唐」と「新羅」との間の争いが本格化することとなります。
 「六七四年二月」に「唐」の高宗は「新羅」の「文武王」の官位を剥奪し、これ以降「唐」と「新羅」は「戦闘状態」に入ったと見られます。

「(文武王)十四年(六七四年)春正月 入唐宿衛大奈麻コ福 傳學術還 改用新法。王納高句麗叛衆又據百濟故地使人守之。唐高宗大怒 詔削王官爵 王弟右驍衛員外大將軍臨海郡公仁問 在京師立以爲新羅王使歸國。 以左庶子同中書門下三品劉仁軌爲 林道大ハ管 衛尉卿李弼・右領軍大將軍李謹行副之 發兵來討」

 さらに翌年(六七五年)明けてすぐには以下のような事情が記されています。

「(文武王)十五年(六七四年)…二月 劉仁軌破我兵於七重城 仁軌引兵還 詔以李謹行爲安東鎭撫大使 以經略之 王乃遣使 入貢且謝罪 帝赦之 復王官爵 金仁問中路而還 改封臨海郡公 然多取百濟地 遂抵高句麗南境爲州郡 聞唐兵與契丹・靺鞨兵來侵 出九軍待之」
 
 このように「新羅」は「唐」と対立状態となり、「文武王」の謝罪により一時的に収まったものの、火種はくすぶったままであったようです。

 そもそも「難波副都」建設の趣旨も、同様の意味があったと考えられますが、「筑紫」という「海外」からの勢力の直撃を受けやすい場所からの「待避」のための「疎開」場所としての性格が強いものと考えられます。
 「筑紫」や「難波」のような「海に面する」という地理条件はこのような「対外的軍事緊張」状態が発生した際には、逆に「危険」と考えられたものと推量され、その結果内陸に入り込んだ「明日香」の地を「副都」として選ぶこととなったものと考えられます。それが「下層条坊遺跡」として確認される「第一次藤原京」であったのではないかと推察されるものです。
 そして、その一応の完成が『書紀』の「六七七年」のこととして書かれている「筑紫」から「赤烏」が献上されたという記事時点ではなかったでしょうか。

「(天武)六年(六七七年)十一月己未朔。雨不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則大宰府諸司人賜祿各有差。且專捕赤鳥者。賜爵五級。乃當郡々司等加増爵位。因給復郡内百姓以一年之。是日。大赦天下。
己卯。新甞。
乙酉。侍奉新甞神官及國司等。賜祿。」

 上の記事では「筑紫」から「赤烏」が献上されたとされていますが、この献上されたという「赤烏」は、「太陽の中には三本足の烏(カラス)がいる」という中国の伝説によって「太陽」を意味する言葉でもありますが、ここでは「鏡」のことではないかと考えられます。
 「鏡」が「太陽神信仰」において、「太陽」の象徴として考えられ、使用されているのは周知と思われるところですが、ここでも同様に「太陽」(赤烏)が「鏡」を意味するものと考えられ、「赤烏」が献上されたということは、即座に「三種の神器」のひとつである「鏡」が「奉られた」と言うことを意味すると考えられます。しかもそれは「筑紫」から「奉られた」とされているところから考えて、これは「副都」「藤原京」の完成に関係していると考えられるものです。
 この「赤烏」献上記事と似た例としては「六八三年」に同じく「筑紫大宰」(「丹比眞人嶋」とされる)から献上された「三足の雀」との関連が考えられます。

「(天武)十二年(六八三年)春正月己丑朔庚寅。百寮拜朝廷。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢三足雀。」

 この記事は「即位」に関するものと推量されますが、そのような場合や「遷都」などの場合において「皇帝(天子)の権力の象徴」として「朝庭」の「分与」的意味があると考えられ、そのように権力を分け与えられた「副都」が持つこととなる地位と正当性の保証を、「王権」のシンボルである「鏡」を「配布」することで、「副都」が「首都」と同等あるいはそれに次ぐ「正統」な権力関係にあることを示していると推量されるものであり、この時の「三足雀」は「赤烏」とほぼ「同義」ではないかと思料されるものです。
 例えば「副都」の朝廷から「法令」等を発布してもそれが「首都」から発布されたものと同じ意味を持つと言うことが周囲から理解されなければなりません。それを前もって保証するためのこととして、「正統性」の付与と言うことが必須であったのではないでしょうか。
 
 また、「筑紫」からの「赤烏」献上の際に「新嘗祭」が行なわれたように書かれていますが、これもそのような「正統性」付与の儀式の一環であったと理解されるものです。
 これと関連していると考えられる「木簡」が「飛鳥池遺跡」から出土しています。そこには「丁丑年十二月三野国刀支評次米」とあり、ここに書かれた「丁丑」という年次は、上に見るように「新嘗祭」を行ったと『書紀』に書かれた「六七七年」と推定されていますが、「次米」というのが「新嘗祭」や「大嘗祭」で行う儀式のために奉納される「米」を表す「悠紀」「主基」の「主基」を表すものと考えられます。「次」というのが「主基」を表すのは『書紀』に以下の前例があります。

「(天武)五年(六七六年)九月丙寅朔。…
丙戌。神官奏曰 爲新甞卜國郡也。齋忌 齋忌此云踰既 則尾張國山田郡。『次 次此云須岐也』 丹波國訶沙郡。並食卜。」

 このことから、この「木簡」に書かれた「次」も「新嘗祭」に奉仕する意味があると考えられます。
 この「新嘗祭」は「副都」「藤原京」で初めて行なわれたものであるように理解され、実質的な「大嘗祭」であったと思われます。
 こうして、「藤原京」が「副都」として「認証」されたこととなったと考えられますが、この時点で「第一次藤原京」が建設され「条坊」が造られていたとすると、「六八〇年」という時点で「薬師寺」が既にあった下層条坊とそれに付随する街区(建物類)を改廃したその上に建てられていることの説明にはなるでしょう。

 そして、その直後の「六七八年」に「筑紫大地震」が「北部九州」を襲いました。

「(天武)七年(六七八年)十二月・是月筑紫國大地動之、地裂。廣二丈 長三千餘丈。百姓舍屋毎村多仆壊。是時百姓一家有岡上當于地動夕以岡崩處遷。然家既全而無破壊。家人不知岡崩家避。但會明後知以大驚焉。」

 この地震により「筑紫周辺」に多大な被害があったと推定されるのは、「久留米市」にある「筑後国府」遺跡においても「液状化」の跡が確認されることなどの点から確認できます。この時点で存在したであろう「諸官衙」などもかなりの損害が出たのではないかと考えられ、その復興事業に着手することとなったと考えられます。
 これ以降被害を受けた「筑紫都城」を「地震」などから「強化」する方向の整備が行なわれることとなったと考えられ、これがいわゆる「大宰府政庁U期」に相当するものと考えられます。
 その内容としては「宮殿」は「掘立て柱板葺き屋根」から「礎石造り総瓦葺き」へと整備されたと見られますが、それは当時の考えとしては「耐震性能」のアップという点に重きを置くことが主眼であったのではないかと思われます。そのおおよその整備完了が「六八〇年代半ば」と考えられ、「第一次藤原京」と「筑紫京」とが連続して整備が行なわれることとなったと思われます。

 また、この二つの「都城」ではいずれも「総瓦葺き」になったことも共通しています。(ただし「第一次藤原京」で「瓦葺き礎石造り建物」が造られたあるいは造られる予定であったとは思われません。それは「藤原京」が建てられるその時点では「筑紫」も「難波」もまだ「掘立て柱に板葺き」のままであり、「副都藤原京」で先行して「礎石造り瓦葺き」として設計されたとは考えにくいからです。そう考えるよりは「筑紫」が先行してその後「礎石造り瓦葺き」へ変わったと見て、それに「第二次藤原京」が追随したと考える方が整合性が高いものと思料します。)

 「大宰府政庁」遺跡から確認されることとして「T期」「U期」とも「北辺」に「宮域」を持つタイプとして造られているのが確認できます。但し「プレT期」とでもいうべき「T期古段階」を遡上する時期の「大宰府」は「南朝」に影響されたと見られる「周礼方式」つまり「都城」の中心部付近に「宮域」を設けるタイプであったことが確認されますが、その後「隋」からの影響によると考えられる「都城」の「北辺」に宮域がある形式へ変更され、移動が行われることとなったものです。そのような形態をとっていた「首都」と新たに作られた「副都」とで都城タイプが異なるのは不自然ですから、この「第一次藤原京」も「筑紫京」や「難波京」にならって「京域」の「北辺」に「宮域」を設定する方向で整備が計画されたものと考えるのが自然です。それを示すように「藤原京」の「宮域」と確認されている「都城の中央付近」の「下層」からは「道路」が検出され、「宮域」内には「道路」が当初張り巡らされていたことが明らかになっていますが、そのことはそのような場所に「宮域」を建設するような計画が元々はなかったことを示していると思われます。
 この事は「別の場所」すなわち「京」の北辺に「宮域」が一旦設けられたか、あるいは設けられる計画であったという可能性が考えられるところであり、それであれば「筑紫都城」との整合性も自然なものとなると思われます。(実際には「遺跡」の「下層条坊」からはそのようなものは確認されていませんが、当初想定の「京域」の外(特に北方)からも「条坊」が確認されており、より広域の「京」であったことが推定されることとなっていることを考えると、そのような場所に当初「宮域」が設定されたという可能性も想定できると思われます。少なくとも、発掘している範囲がまだまだ狭いことを考えると発掘調査の今後を注視する必要があるでしょう)

 では当初の「藤原京」(下層条坊)がなぜ廃棄され、またなぜ「宮域」を中央部へと移動させることとなったものでしょうか。それはよく言われるように「周礼」に基づくものと思われるわけですが、この段階で「周礼」が重要視されるようになったのにはどのような理由があったのでしょうか。よく言われるのは「天武」と「持統」は「道教」の信奉者であり、「五行説」を援用した「風水」が特に彼等の興味の対象であったからであり、この「藤原京」においても「風水」を配慮した設計となっているというものです。しかしそう考えるよりは「南朝」への傾倒の回帰によるものと考えるべきではないでしょうか。つまり「隋」への傾倒に対する「反動」とでもいうべきものが国内に起きたものではなかったかと考えられるのです。その契機となったものはもちろん「訓令」事件であり、「宣諭」事件です。これにより国内に「隋・唐」への態度として、「隋・唐」に対する警戒感から遷都することとなったものとみられると共に、「隋」に対する反感が「南朝」への回帰として現われ、「周礼」に基づく都城形式を選択することとなったものと見られます。

 この「副都」建設とその「副都」への「遷都」というものが現実にあったと想定されるのは、「六七六年」に各氏への食封対象地を「西国」から「東国」へ振替えるという「詔」が出ていることに現れています。

「(天武)六年(六七六年)四月辛亥 勅 諸王諸臣被給封戸之税者除以西國 相易給以東國。」

 これが少数の氏族に対するものではなく、「諸王諸臣」というように対象範囲がかなり多いことからも、「封戸」の対象地域を、それまでの「西国」から「東国」に変えるということの中には「都」(京師)の地域が「西」から「東」へ「移った」(副都遷都)と言うことが示されていると考えられるものです。
 この「詔」を「承ける」様に各地から多量の物資が「藤原京」に向けて送られる様になったと見られますが、「藤原京」遺跡から出土している木簡を見ると、それまでの「五十戸」に変えて「里」表記が行われるようになります。(特に「三野国」で顕著に切り替わるもの)
 その切り替わりは一般には「六八〇年」から「六八三年」の間のどこかと考えられており、これは「(第一次)藤原京」が完成し、そこへ「遷都」したことを示唆するものでもありますが、同様のものとして「飛鳥京遺跡」や「石神遺跡」などから「六七七年以降」急に、年次として「干支」が書かれた「荷札木簡」が増えるとされることがあります。
 それまでは非常に少なかったものが「六七七年」以降突然増加するわけです。ただし、「藤原京遺跡」からはほぼ出ないことが確認されています。しかし「藤原京」という「副都」に集積・配送されるはずの木簡が「飛鳥京遺跡」から出るのは不審と言えそうですが、それは「第二次藤原京」建設の際に一旦「飛鳥京」に待避されたと考えると納得できるものです。つまり、「仮の官衙」として「飛鳥京」周辺の建物が利用されていたと言うことが考えられます。
 (「藤原京」から「年次」として「干支」が入った木簡が出始めるのは「六九五年」以降であり、この時期以降激増します。これは「第三次藤原京」とでも言うべき最終整備が行われていたのではないかと考えられ、「藤原京」内部に「仮の官衙」ができ、そこで執務を始めたらしいと推定されます。「中務省」なども同様であったと思われます)

 「元興寺」が移築され、「明日香」の地で「法隆寺」となるタイミングはこの「第一次藤原京」完成とほぼ同時であり、この「副都藤原京」建設と「筑紫大地震」の影響が関連があり、また重大であったことが示唆されます。
 では「第一次藤原京」はなぜ「改廃」され「第二次藤原京」が建設されることとなったのでしょうか。それを考える上で重要なものは『書紀』に書かれた「六八四年」の「南海大地震」であると思われます。


(この項の作成日 2012/12/12、この項の最終更新 2013/03/04)