『天武紀』の記事をよく読むとそれまで見られない異例な記事が目に付きます。それは「怪異」であり、また「謀反」を思わせる記事です。
それらは「人心」が「王権」(というより「天武」という人物に対してでしょうか)、「離反」している風情が感じられる記事群でもあります。
そこでは「当麻君広麻呂」と「久努臣麻呂」の朝廷出仕が禁じられ、その後特に「当摩君広麻呂」が「詔」に従わなかったためという理由で、官位が剥奪されるという事件が書かれています。しかも、その理由が書かれておらず、何が起きたのかがあたかも「伏せられて」いるようです。またその直後「三位麻績王」が流罪となるなど、複数の人間が関連した事件があったようです。
「(六七五年)(天武)四年…二月乙亥朔…
己丑。詔曰。甲子年諸氏被給部曲者。自今以後除之。又親王。諸王及諸臣并諸寺等所賜山澤嶋浦。林野陂池。前後並除焉。
夏四月甲戌朔…
辛巳。勅。小錦上當摩公廣麻呂。小錦下久努臣麻呂二人。勿使朝參。
壬午。詔曰。諸國貸税。自今以後。明察百姓。先知富貧。簡定三等。仍中戸以下應與貸。
…丁亥。小錦下久努臣麻呂坐對捍詔使。官位盡追。
庚寅。詔諸國曰。自今以後制諸漁獵者。莫造檻穽及施機槍等之類。亦四月朔以後九月卅日以前。莫置比滿沙伎理梁。且莫食牛馬犬猿鶏之完。以外不在禁例。若有犯者罪之。
辛卯。三位麻續王有罪。流于因播。一子流伊豆嶋。一子流血鹿嶋。」
この記事の流れを見ると、「三位麻續王」の事例は「曲部」という私兵や「山澤嶋浦。林野陂池」について「返納」せよという命令を不服として何らかの行動に出た可能性が高いと推測します。しかも同様の「不満」を持っていた人々はかなり多かったものではなかったでしょうか。それを示すようにこの後「筑紫太宰三位屋垣王」を流罪とする事件が発生しています。
「(六七六年)五年…九月丙寅朔…
乙亥。王卿遣京及畿内。校人別兵。
丁丑。筑紫大宰三位屋垣王有罪。流于土左。」
これを見ると「屋垣王」に対する処罰を行う前に、「京及畿内」に対し「王卿」を派遣して「兵」つまり「弓矢」「刀剣類」などが揃っているか、使用可能かなどについて調べさせています。(もちろん不備があれば是正させたものでしょう)「屋垣王」に対して「流罪」とする措置を下したのはその二日後です。このことは「屋垣王」に対する嫌疑が「軍事的なもの」であることを窺わせますが、それは「屋垣王」がその時「筑紫大宰」であったというところにも現れているようです。
「壬申の乱」時の「近江朝廷」が当時の「筑紫大宰」である「栗隈王」に対して軍事行動を促したこと、またそれを彼が拒否したことなどによっても、「筑紫」に相当な兵力があった事が窺え、「筑紫大宰」が反乱の中心となる可能性があること、それが実行に移されると「王権」に対して強い軍事的圧力になりうると考えられたものとみられ、だからこそ「不穏」な情勢があるとみて「筑紫」地域の軍事的トップの人物を「流罪」としたという経緯が推測できます。
この「屋垣王」の軍事行動の動機はそれ以前に「流罪」となっている「麻績王」と同質のものと思われ、「天武」に権力と財の集中を嫌う勢力が一定の数いたことを推測させるものです。
彼らは「天武」という人物に対して特に「畏怖」する事がなかったようにみられ、彼(天武)という人物に対して周囲からは「伝統」とそれに基づく「権威」つまり「正統性」が欠如しているという認識があったらしいことが強く窺えます。
またこれらの記事からは倭国政権(天武)の運営に批判的勢力が相当増加したことを示しているようです。しかもここで「麻績王」「屋垣王」はいずれも「三位」という位階を持っていたように書かれていますが、これは「諸王」の中でも相当な高位であり、そのような彼らの離反というのはかなりプレッシャーとなったことが考えられますが、そもそもここで出てくる「三位」という位階は本来『大宝令』にあるもので「天武」の時代にはまだなかった「はず」のものです。これについては一般には(時期は不明だが)「天武」が「律令」を定めた中にあったと解釈するわけですが、それは単なる『書紀』に対する追認であり、無批判の承認といわざるを得ないものです。
また、「ある人が宮の東の岡に登り人を惑わすことを言って自ら首をはねて死んだ」という事件があり、「この世当直であった者全てに爵一級を賜った」と書かれています。これはあたかも「口封じ」が行われたかのようです。
「(六七五年)四年…十一月辛丑朔癸卯。有人登宮東岳。妖言而自刎死之。當是夜直者。悉賜爵一級。」
ここでこの人物が何を口走ったかは不明ですが、「天武」の「正統性」に関わる秘密に関わる事ではなかったでしょうか。
さらに「諸王・諸臣が賜った封戸の税は京より西を止め、東国に替える」という指示が出され、東国の税負担が増加したことがわかりますが、その後、下野国司から「凶作のため調の納期が守れず、子供まで売ろうとするほどなので猶予すべき」という奏上があったにもかかわらず、認められなかったことが記されています。
「(六七六年)五年…夏四月戊戌朔辛亥。勅。諸王。諸臣被給封戸之税者。除以西國。相易給以東國。又外國人欲進仕者。臣連。伴造之子。及國造子聽之。唯雖以下庶人。其才能長亦聽之。
…五月戊辰朔庚午。宣。進調過期限國司等之犯状云々。
甲戌。下野國司奏。所部百姓遇凶年。飢之欲賣子。而朝不聽矣。」
このように、倭国政策は「東国に厳しい」ものであったと思われます。
また、新たに「都」を造ろうと土地を放棄させたのにもかかわらず、造られなかった、という記事もあり、この直後「杙田史名倉」という人物は「天皇を誹ったため流罪」となるという事件まで発生しています。
「(六七六年)五年…是年。將都新城。而限内田薗者不問公私。皆不耕悉荒。然遂不都矣。或本。無是年以下不都矣以上字。注十一月上。
(六七七年)六年…夏四月壬辰朔壬寅。杙田史名倉坐指斥乘輿。以流于伊豆嶋。」
ここで明確に「天皇に対する流言飛語」という罪名が明らかになったものが出て来ますが、他の処罰例もほぼ同じであったものと推定されます。
このように政府高官に「流罪」になるものが出てくるなど、非常に不安定な政権となったわけですが、そうなった理由としては「凶作」と「壬申の乱」という天下を二分した戦いの後遺症とでもいうべきものがあったものとみられるわけであり、倭国中枢の疲弊及びそれを補填するための「東国支配の強化」というものがあるようです。
上の「詔」でも「東国」などの「国司」がその責務を全うしていないとして厳しく指弾しているわけですが、その裏には「国司層」が当時の王権に対し「非協力的」であり、少なくとも主要な支援勢力ではなかったことがあると思われます。その根本の原因は「国司」つまり以前の「国宰」を任命した権力(倭国王)は「天武」とは異なる「伝統」とそれに基づく「権威」を持っていたものであり、「天武」という新たな「権力」について正統性を認めない立場の者も相当数いたであろうことが推察できます。これらについて恫喝と懐柔を駆使して統治しようとしていたことが窺えるものです。
またこの傾向は後まで続き「聖武」の時代に至っても「国分寺」造営(実際には「塔」を立てよというもの)の「詔」についても決められた期日を守らない国司がほとんどであったことにつながります。このとき「聖武」はやむを得ず「郡司層」にその指示の相手を変え、さらに開墾した土地を公有ではなく私有としてよいというバーターとも言うべき緩和条件を出さざるを得なくなり、これはその後律令制の変質と崩壊を招くことにつながってしまうこととなります。
(この項の作成日 2011/01/03、この項の最終更新 2017/09/04)